竜王
こちらを見上げていたアベルが首を傾げる。
「おまえ、いつもにも増してぼーっとしてどうしたんだ? 俺が留守にしている間に困りごとでもあったのか?」
いつもにも増して、が一言余計だけれど、セシリーナはアベルにお礼を言う。
「心配してくれてありがとうございます、ちょっと考えごとしてて……。アベル、よかったら少し家に上がっていきませんか? アベルの最近の話とか聞かせてください」
アベルは普段、聖騎士として王都で近衛の仕事に就いている。だから、彼が小さいころに過ごしたこの村に帰って来てくれることは稀だった。ちなみにアベルの生家であるローレンス騎士爵家はシュミット伯爵家の辺境の領地とは違う王都に近い領地を治めている。けれど、彼は小さいころに礼儀作法を学ぶという名目でシュミット家に出入りしていた関係で自分と彼は幼馴染なのだった。
アベルはやんちゃに見えるほど嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「おう! おまえにそう言ってもらえると嬉しいぜ。俺もおまえの呑気な顔が見たくて里帰りしたようなもんだからな」
「呑気な顔……」
相変わらずアベルは一言余計だけれど、彼の遠慮のない態度が昔から変わっていなくてなんだか嬉しくなってしまう。セシリーナは自分の部屋のある屋敷の二階から一階へと階段を駆け下りると、玄関口で待っていたアベルを客間へと招き入れた。
「――それで、最近この村の様子はどうなんだ? なにか変わったことはあったか?」
屋敷の客間で、黄緑色のさわやかな布張りの長椅子にアベルと向かい合って座る。彼は聖騎士のみが着用を許される純白のマントをつけていて、紅茶の入っている茶器を上品に口に運ぶ所作がよく似合っていた。おもわず見惚れてしまって、彼の質問に反応するのが一歩遅れてしまう。そんなセシリーナを訝しげに見つめてアベルは首を傾げた。
「おまえ、やっぱり様子がおかしいぞ。なにか悩み事があるなら言ってみな。俺でよければ相談にのるから」
アベルは、少し口は悪いけれど昔から優しくて面倒見が良い。自分にとっては幼馴染であり兄のような存在だった。
(この世界唯一の聖騎士様を、兄だなんておこがましいけれど)
彼は代々聖騎士を輩出する名門ローレンス騎士爵家の嫡子で、すれ違う人が振り返るほどの美形である。さらに男らしさと優しさと面倒見の良さを備えた包容力のある人柄だから、王侯貴族の令嬢はこぞって彼に婚約を申し出ているのだった。
(かく言う自分も、アベルのことはかっこいいなと思うけれど……)
憧れてはいるけれど、彼は自分にとってあくまで一緒に育った幼馴染で、兄だった。そう思ってしまう背景には、聖騎士様はこの世界みんなの英雄で、独り占めできるような人ではないという意識があるからかもしれない。
セシリーナは、紅茶のカップをことりとローテーブルの受け皿に置いてから視線を伏せる。
「……じつは、最近不景気だなって感じることが増えていて。この村の特産品であるブドウワインの売り上げが年々落ちていて、父の伯爵と頭を悩ませているんです。この村のみんなの暮らしを豊かにするためにも、村を活性化するのはどうしたいいのか悩んでいて」
「不景気、か。それは王都も同じだな。やっぱり、聖騎士と竜王の領土争いがいったん終わっちまったのが根本原因かねえ……」
アベルのぼやきに、セシリーナは肯定するでもなく否定するでもなく曖昧に笑った。
彼の言う聖騎士と竜王の領土争いというのは、魔獣の軍勢を率いてセシリーナたちの暮らす中央大陸を襲撃する竜王を聖剣を携えた聖騎士が迎え撃つという、まるでおとぎ話のような物語のことだった。そうとはいえ、聖騎士と竜王の争いはおとぎ話などではなく本当に幾度となくこの世界の覇権をめぐって人間と竜王の間で繰り広げられてきたのだ。
聖騎士は聖剣を用いてもどうしても竜王を倒すことは叶わず、毎度竜王に致命傷を与えて撃退するところに留まっていた。竜王は聖騎士に敗れて自国に逃げ帰ったあとに怪我を癒して力を蓄え、何年か後に再度復活して中央大陸を襲いにくるのが通例になっている。
そのたびに、その年にローレンス家で生まれた嫡子が聖騎士となって、復活した竜王との戦いに赴くのだ。そのため、聖騎士と竜王の戦いは風物詩――ある種、お祭りのように扱われていた。一度聖騎士に敗れた竜王が復活するたびに世界中の人々が盛り上がり、武器やら防具やら道具やらが飛ぶように売れて、物価が高騰し、出生率も上がり、世界全体の経済が盛り上がる要因になっているのだ。
(でも――……)
数年前に、アベルの父親である前代聖騎士が竜王を退けてからというもの、一向に竜王が復活する兆しが見えず経済は停滞の一途をたどっていた。人びとの暮らしが平和ボケしてマンネリ化し、いつのまにやら財布のひもも固くなり不景気の波がやって来たのだ。先代の聖騎士が老齢になり、息子のアベル聖騎士の座を受け継いだけれど竜王が復活する兆しはいまのところまったくない。
(戦がなければ経済が潤わないなんて、哀しいことだけれど……)
まるで毎回行われた大祭がなくなって人々の意欲が失われてしまったかのように、町や村の発展は停滞して活気がなくなってしまっているのが現状だ。
アベルが顎に手を当てながら唸る。
「……ううむ、俺も聖騎士の跡継ぎとして、このまま活気のなくなっていく町や村を手をこまねいて見ているわけにはいかないな。なにか俺にできることはないかな」
「アベルにできること……」
聖騎士のアベルにしかできないこと、そして伯爵令嬢に転生した自分にしかできないこと――きっとあるはずだ。
(なにか、前世の記憶を生かして私にできることは――)
その思った途端に天啓のようにひらめきが降ってきて、セシリーナは勢いよく立ち上がった。
「あああああっ!」
「はあ!? な、なんなんだよ、急に叫ぶんじゃねぇよ!」
恐れおののいてアベルが長椅子から転げ落ちそうになっている。それに構わずセシリーナはずずいと身を乗り出した。
「あのっ、私、旅行会社で働いていたことがあるんです!」
「りょこう……がいしゃ?」