23話 三人家族【完】
「ビクラム、あなたには孫もいるのでしょう? もう少し大人にならないと。神様も、せっかく本を持ってきてくれたビクラムに、ケンカ腰では駄目ですよ?」
取り成すターラに、神様とビクラムはしぶしぶ顔を見合わせた。
「取りあえずこの本は、ターラお姉さまに渡します。女性が読んでも不快にならない本を選んでいますから、よければターラお姉さまも一読されると安心するかと思います。……ターラお姉さまも、早くにお母さまが亡くなってしまったから、本来の閨の教育は受けていないのでしょう?」
実はそうだった。
貴族の娘は、結婚前に母親から性の知識を教わるのだ。
ターラが母を亡くしたのは12歳のとき。
まだアロンとの婚約も結んでいない頃だ。
「ありがとう。神様と二人で、勉強させてもらうわね」
ターラは差し出された本を受け取る。
ズシリと重たい本に、ちょっと緊張するターラだったが、隣から伸びた神様の手が、ひょいとそれを取り上げた。
「ターラ、さっそく読んで実践しよう」
何も知らない神様の無邪気な顔に、何となく知識があるターラと、しっかり知識のあるビクラムは、気まずげに顔を赤らめるのだった。
◇◆◇
非常に熱心に勉強した神様のおかげで、ターラのお腹には赤ちゃんが宿った。
ターラが妊娠したことが噂になると、神様を信仰する夫婦たちも、こぞって子作りに勤しむ。
ここ数年は豊作・豊漁続きで餓死者もおらず、これをきっかけに爆発的に人口が増え始める気配がした。
神殿長が張り切って制作したお腹の大きなターラの布絵は、多くの妊婦に勇気を与え、その年の寄付金は前年の倍となったそうだ。
「不思議だな、ターラ。ここに子どもがいるなんて」
神様はそう言って、何度もターラの腹を撫でる。
「もうすぐ会えますよ。楽しみですね」
ターラの腹に耳をつけて、神様は中の様子をうかがう。
すると、ぽこりと蹴られたようだ。
「ずいぶんとやんちゃだ。男の子かもしれない」
頬をさすりながらも嬉しそうな神様の顔に、ターラも笑顔がこぼれる。
出会った頃、寂しそうだった神様に、また一人家族が増える。
ターラはそのことが心から嬉しかった。
◇◆◇
いよいよ産み月になった。
人の出産のように、赤ちゃんは産道から出てくると思っていたターラだったが、なんと神様が魂を取り出すように、光と共に赤ちゃんを腹から取り出してしまった。
「もう出てきたいと言っていた。だから大丈夫だと思った」
そう言えば、閨の指南書には、赤子の生まれ方までは書かれていなかった。
神様がその方法を知らないのも、無理はない。
おかげで陣痛もなく、後産もなく、ターラは何の苦痛も感じずに出産を終えてしまった。
腹から出てきたのは、くるんとした銀髪に蒼い眼の美しい男の子だった。
ターラは弟ビクラムが生まれたときのことを思い出す。
シワシワの顔を真っ赤にして、ぎゃあぎゃあ泣いていたはずだ。
それに比べると泣きもせず落ち着いていて、親指をしゃぶっているところは赤子らしいが、なんとなく人とは様子が違った。
「人の赤ちゃんとは、違うんですね」
「生まれる前から神だからな。神になった私やターラと違って、息子には初めから名前があるし、人の欲望の矢に襲われることもない」
「まあ、それは幸いです。赤ちゃん、あなたのお名前を教えてくれる?」
ターラが優しく語り掛けると、神様に似た蒼い瞳をターラに向けて、ジッと見つめた後にこう言った。
「ラズーリュヴィシカルー。僕は愛を教える者だよ」
鈴が転がるような可愛い声で、上手に自己紹介をした息子に、ターラは胸を射貫かれる。
すぐにまた親指をしゃぶりだした息子を、ぎゅっと抱きしめる。
「なんて可愛いんでしょう。私、甘やかしてしまうかもしれません」
すっかり息子に骨抜きになっているターラに、神様は優しく微笑む。
「私に教えてくれたように、息子にも、人について教えてやって欲しい。息子よ、お前のお母さまは人の専門家だ。よく学ぶのだぞ」
息子の呼び名は、ラズーに決めた。
安産すぎて元気だったターラは、その日のうちに神殿長へ息子を見せに行き、またしても神殿長を引っ繰り返らせてしまうのだった。
◇◆◇
神殿長と共に、落ち着いた雰囲気の次期神殿長候補の女性が祈りの間に来て、ターラや神様やラズーにそれぞれ挨拶をしてくれた。
布絵の制作に情熱を燃やす神殿長は、役職を降りても目が見えるうちはパッチワーク作業に関わっていくと、ターラに向かって握りこぶしをにぎってみせる。
時期的に、そろそろ新しい布絵の制作に取り掛かる頃合いだ。
それに集中したくて、早々に神殿長の座を譲り渡したい本音が見え隠れしていた。
聖女がいなくなってからは、こうして神殿長が代替わりするたびに、神様と顔合わせをすると決めた。
まだ外を知らないラズーにとっては、貴重な人との対面の場になった。
会合を終えたターラと神様は、ラズーを抱いて、神の森へと続く草原を歩く。
今日も草原では、学習の会に集まった子どもたちが、休憩時間を満喫していた。
「もう少しラズーが大きくなったら、草原で遊ばせてみましょうか?」
「大きくなるのは数百年先かも知れぬぞ? もういっそのこと今日、遊ばせたらどうだ?」
神様はこういうところが、ターラよりも鷹揚だ。
ターラにはとても新鮮な視点なので、驚きながらも従ってみることが多い。
恐る恐るラズーを柔らかい草の上に下ろすと、なんとお座りも出来ない赤子姿から手足がすくすく伸びて、一気に3歳くらいの幼子の姿に成長した。
そしてびっくりしているターラを余所に、草原に散らばる子どもたちを目指して、元気よく走り出していくではないか。
「え……? ラズー?」
「今日で良かっただろう?」
「これは一体、どういうことですか?」
「成長するには、新しい経験をするのが一番ということだ。神の森の中に1000年も籠り切りだった私が、いつまでも少年の姿のまま、成長しなかった理由がこれだろう」
あの頃はひたすらに、人に会うのが怖かったからな、と神様が肩をすくめる。
そういう人臭い仕種は、神様が人の世に下りてから身につけたものだ。
「ラズーは、ここで遊びたかったんですね」
「きっとターラの腹の中にいるときから、この草原が気になっていたのだろう。楽しそうな歓声が、ラズーには聞こえていたのかもしれない」
学習の会に来ている子どもたちは、いきなり現れた小さなラズーにも逡巡せず、すぐに仲間と認めて遊び始めた。
ラズーは、白い蝶々を追いかけたり、丘の上まで駆けっこしたり、好きなことをして楽しんでいる。
子どもたちから話しかけられて、ちゃんと受け答えもしているようで、ターラは安心した。
「すごい、会話をしています」
「もう友だちになったようだな」
ターラと神様が見守る中、伸び伸びと遊ぶラズーの姿を、祈りの間から出てきた神殿長がしっかりと観察していた。
間違いなく、次回作のパッチワーク布絵の参考にするのだろう。
草原の淡い緑と、ラズーの銀髪、そして青空が織りなす図案は、きっと美しく仕上がると予想された。
この未来に辿り着くまで、ターラの魂には多くの星が刻まれた。
それはこれからも変わらず、とこしえを生きる神となったからには、今以上に多くの人との別れを覚悟しなくてはいけない。
それでも、ターラはこの幸せを手放したいとは思わない。
愛する神様と、神様との間に生まれたラズー、もしかしたらまだ増えるかもしれない家族。
神様の幸せを願って祈り続けたターラが手にした未来は、神様だけでなくターラをも幸せにした。
(これからも、ガーシュの心が穏やかでいられますように)
ターラの祈りの声が聞こえたのか、草原を走り回るラズーを見ていた神様が、眩しい笑顔でこちらを振り向いた。