9話 捨てられていた子
ターラの早朝突撃訪問は無駄ではなかった。
喜んで神殿長へ聖典を差し出し、ターラは自分も改訂された聖典の書写を手伝いたいと願い出た。
ターラの聖典のように職人の手によって美しい文字が躍るものもあるが、それは主に貴族に向けて作られた特別製で、神殿に仕える者が手書きで写したものが一般的に流布している聖典だった。
「聖女さまが書写された聖典は、宣教師の間で人気が出るでしょうね」
これ以上ターラをガッカリさせないように、神殿長は気を遣ってくれる。
「年寄りの私たちは慣れ親しんでいますが、聖典には古い言い回しもあります。その部分も、今の人が聞いて分かるように、手を加えようと思っています。ぜひ、若い世代の代表として、聖女さまの意見を聞かせてください」
書写の会への誘いだけでなく、若くして聖女となったターラの立場を慮ってくれる神殿長に、ターラは頭が下がる思いがした。
一人で盛り上がったり盛り下がったりしていたターラは、まだまだ未熟な自分が恥ずかしかった。
◇◆◇
神殿長のところに押しかけたので、今朝の神の森の見回りは、いつもより遅い時間になった。
そのせいか、神の森の入り口には、すでに神様が立っていた。
「遅いではないか」
「神様、もしかして私を待っていたのですか?」
駆け寄るターラに、神様は惜しげもなく笑顔を見せる。
「そうだ、今日もターラに聞きたいことがたくさんある」
昨日からターラの心臓はおかしい。
神様の笑顔を見ると、心拍数が乱れるのだ。
走って弾んだ息を抑えるふりで、ターラは胸に手をあて深呼吸をする。
そうやってドキドキを落ち着けると、ターラは神様と並んで森の見回りに出た。
「今朝は、神殿長に相談をしていたので遅くなりました。もっと多くの人に、神様への信仰を深めてもらうために、私に何ができるかを考えていたのです」
「今度は何を始める気だ?」
そうして今日も、ターラと神様の他愛ない会話が始まる。
少しずつ神様との間にあった溝を埋め、歩み寄れている感じがして、ターラは嬉しかった。
不安も期待もあった聖女という職位を、きちんと務められていると思った。
神様から身の回りのことを質問されて、喜んで答えているターラは、神様の人への理解が深まっていると信じていた。
正確には、神様が興味を示していたのはターラであって、人ではなかった。
だがターラはまだ、それに気がついていない。
◇◆◇
神様とターラの距離がより一層近くなり、そのたびにときめく己の心に、さすがのターラもこれが恋心だと分かってしまった。
神様を相手に、人を恋い慕うような感情を抱くなど、聖女としてあってはならない。
そう戒めてみたものの、人らしい表情を見せる神様に、ターラの目は釘付けになってしまう。
(もっと笑っていて欲しい。もう悲しい思いはさせたくない。どうしたらそれが叶えられるのか)
そんなことばかりを考えるようになった。
あくまでも聖女は神様の側付きで、世話役だ。
神様の力で長い寿命を与えられてはいるものの、いつかはそれも尽きる。
ターラは先代の聖女が旅立った姿を回想する。
数百年を生きた聖女も、儚くなる時は人と変わらなかった。
いずれはターラも、そうなるのだ。
(神様に心を寄せたまま、次の聖女に役目を譲り、私は死んでいくのだろう)
今は毎朝、森の中を神様と一緒に歩き、話をして笑い合える。
昼は神殿で聖典を書写したり、パッチワーク制作を手伝ったり、読み聞かせの布教活動に参加したり、神様への信仰を深める手伝いができる。
そして夜は、神様が寂しくないように、心安らかに過ごせるように、祈ってから眠りにつく。
神様のために全ての時間を捧げられる生活を、ターラは幸せだと思っていた。
しかし、そんな生活を打ち壊すように、ある夏の日に事件は起きる。
◇◆◇
「うわあああああん! うわあああああん!」
侵入禁止である神の森から、あってはならない声が聞こえる。
まだ早朝というには早い時間、ターラは寝間着の上に薄手のガウンを引っかけ、祈りの間を飛び出した。
幼子らしき泣き声は、森の浅い場所から上がっていた。
いくらも歩かない内に、ターラは発生源に辿り着く。
そこにはすでに腕組みをした神様が立っていた。
「神様、これは……」
「見よ、ターラ。侵入者だ」
神様の足元では、5歳ほどの幼子が、両手で目をこすりながら泣いていた。
服は薄汚れ、継ぎはぎだらけ、短い茶色の髪はボサボサで、土がついている。
「どこからか、迷い込んだのでしょうか。親御さんが近くで、この子を探しているかもしれません」
「すでに近辺に人の気配はない。この者は、置き去りにされたのだ」
神様には、幼子がここにいる原因が分かっているようだ。
なんの感情もない目で、幼子を見下ろしている。
ここしばらく、見ていなかった神様の冷たい眼差しに、ターラはどきりとした。
「それならば、保護しなくてはいけませんね」
「何故だ?」
「子どもですから。まだ一人では生きていけません」
「神の森への侵入者だぞ? 確か、罰を受けるのではなかったか?」
神様を護るため、神の森への侵入者には、厳罰を科すと決まっている。
しかし、幼子は明らかに自分の意思でここに来た訳ではなく、神様いわく置き去りにされただけだ。
罰の対象にはならないのではないか。
ターラがそう説明すると、神様は嫌そうに顔をしかめた。
「私はターラ以外の人間が、この森にいるのを好まない。早く連れ出してくれ」
「分かりました、神殿長に今後の指示を伺います」
ターラはしゃがみこみ、泣いている幼子を抱き寄せ、頭を撫でてやる。
それだけで幼子は安心したのか、大声で泣くのを止めた。
そのとき、ようやく太陽の光が、木々を分け入りターラの元に届いた。
そこで初めて、神様はターラの服装がいつもと違うのに気がついたようだ。
「ターラ、その服は初めて見る。……似合っているぞ」
ターラは神様に見つめられ、夏用の涼し気な寝間着だったと思い出し、ガウンの前を掻き合わせた。
「すみません、はしたない恰好で……」
「はしたない? その服は、着てはいけない服なのか?」
「いいえ、寝るときに着る服なのです。この服で外に出るのが、はしたないのです。……非常事態だったものですから」
「人は場面に合わせて、こまめに服を着替えるのだったな」
神様の服は人のものと似ているが、神様の力で作られていて、暑さ寒さに合わせて袖丈などが変化するが、着替える行為を必要としない。
だからこそ、いつもの聖女服とは違うターラの寝間着に、神様は関心を示したのだ。
「ターラが他の服を着ているところを、もっと見てみたい」
想いを寄せる神様の前で、私的な寝間着姿のままでいるのが恥ずかしく、掻き合わせたガウンの間から見えるターラの首は赤い。
そんなことには無頓着な神様は、他にどんな服を持っているのか、そういう服をいつ着るのか、いつものようにターラに根掘り葉掘り聞いてくる。
ターラに抱かれた幼子は、長々と続く神様の質問の間に、ぐっすりと眠っていた。
◇◆◇
「自分の名前を言おうとしないんですよ、聖女さま。どうやら親から、口止めされているようですね」
神の森に捨てられていた幼子は、女の子だった。
神殿長のもとにターラが連れて行き、今は女性の信仰者が風呂に入れてくれている。
自分を置き去りにした親の言いつけを守り、頑なに口を閉ざす子どもを、ターラと神殿長は憐れに思った。
「おそらく親は、名前から身元が明らかになれば、子どもが家に帰ってくると思ったのでしょう。……貧しい家では子どもを捨てて、口減らしをするのです」
ターラは知らなかったが、捨て子は珍しくはなかった。
神殿にもよく夜中のうちに、おくるみに包まれた状態で赤子が置き去りにされるのだという。
赤子であれば、まだ養子にもらわれやすい。
しかし女の子はすでに5歳ほどに成長していて、自分の親以外を親と認識するか、難しいところだった。
「私が育ててはいけませんか?」