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6話 旅立ちの時

 メリナの名前を聞いて、ビクラムは分かりやすく顔をしかめた。

 どうやら、メリナとビクラムの間にある確執は根深いらしい。



「嫌だよ! だってメリナお姉さまのせいで、ターラお姉さまがいなくなったんだもん! 僕、許さないんだから!」



 昔は不機嫌になると頬を膨らませていたが、10歳のビクラムはツンと横を向くことで不機嫌さを表現するようになっていた。

 それだけ成長したということだ。

 ターラはそれを喜びながら、あえて静かなままの声音で尋ねる。



「メリナがこの家に帰ってきてから、ずっとその調子なの? 最近のメリナとは、会っていないのね?」

「会ってないよ。だってメリナお姉さまは、自分の部屋にこもりきりだもの」



 ターラは、ビクラムに現在のメリナを見てもらおうと思った。

 今のビクラムならば、それでメリナの置かれた状況を判断出来るはずだ。



「分かったわ。実は、私が描いた絵に色を塗りたいと思ったの。出来れば絵の具の使い方を、ビクラムに教えてもらいたいのだけど」

「任せてよ! 僕は美術の授業も、ちゃんと先生の話をよく聞いて、真面目に受けているんだから」



 大好きなターラに頼られて、ビクラムは大張り切りだ。

 さっそく絵の具を取りに行こうとするのを、ターラが止める。



「明日でいいのよ、ビクラム。絵はメリナの部屋にあるから、そこで教えてちょうだい」



 にっこり微笑むターラに、今さらメリナに会うのは嫌だとも言えず、ビクラムは不承不承うなずいたのだった。



 ◇◆◇



「メリナ……お姉さま……? どうしたの、こんな――」



 ビクラムは、それから先の言葉を発することが出来なかった。

 ターラと同じく、鼻と口を布で隠し、前掛けで服を覆って、手指の消毒をして入室したビクラム。

 どうしてそんな手順が必要だったのか、もう分かっただろう。

 メリナは今日も痩せ細り、落ち窪んだ目だけをこちらへ向けて、ベッドへ横たわっていた。

 皮膚はカラカラに乾き、折れそうな指は枯れ枝のよう。

 その指を組み合わせ、メリナが祈りのポーズをとった。



「お姉さま、ありがとう。私がビクラムに会える機会を、作ってくれたのね。神様を信仰するようになってから、いいことばかり起きるわ」



 そっと目を閉じたので、きっと神様にも感謝をしているのだろう。

 これまで沈んでばかりで、絶望の淵にいたメリナだったが、ターラから神様の話を聞いて、神様を信仰するようになり、精神的な落ち着きを取り戻した。



「ターラお姉さま、これは……メリナお姉さまは、一体どうしてしまったの? 病気だから帰ってきたと聞いたけど、お医者さまに診てもらえば治るんじゃないの?」

「世の中にはまだ、治らない病気も存在するのよ。残念だけれど、メリナの罹った病気は、そういう病気だったの」

「嘘……じゃあ、メリナお姉さまは……?」



 ビクラムが唇を震わせ、恐る恐るメリナの方を向く。

 そこにはもう、近づく死を受け入れ、悟った顔のメリナがいた。



「嫌だよ、死なないでよ、メリナお姉さま!」



 ブワッと涙を溢れさせ、ビクラムがメリナの脇に駆け寄る。

 腕に下げて持ってきていた絵の具の箱を開け、中身をメリナに見せている。



「僕の絵の具、貸してあげるから! 青は好きな色だから大切にしているんだけど、それも使っていいから! だからぁ……死なないでよぉ……!」



 泣き崩れるビクラムに、メリナが手を伸ばす。

 ふわふわした金髪を優しく撫でると、ビクラムがビクリと肩を跳ねさせた。

 おそらく、ビクラムがメリナに優しくされたのは、初めてのはずだ。

 これまでは全て、こうした役はターラがしていた。



「アロンさまも金髪だったから、私の赤ちゃんも金髪だったの。だけど、一度も抱かせてもらえずに、お別れしてしまった」



 そこでメリナは口をつぐむ。

 死産した赤子のことを思い出しているのだろう。



「私は赤ちゃんのもとに往くけれど、ビクラムはお母さまの分も生きてね」

「……メリナお姉さま、どうしても死んじゃうの?」

「神様と一緒に、旅立つわ」



 メリナは枕元に置いていた神様の絵を、ビクラムに見せた。



「これが神様なんですって。こうしてお姉さまに姿絵を描いてもらってから、本当に神様がいつも側にいるように感じるの」

「この絵に、色を塗りたいんだね?」

「神様の瞳の色は、星空の蒼なんですって。ビクラム、そんな色を作れる?」



 ターラが何も言わずとも、メリナとビクラムは自然に会話を続けている。

 もう二人の間に、わだかまりは感じられなかった。



 結局、神様の姿絵に色を塗ったのは、ターラではなくビクラムだった。

 そしてメリナが気にしていた神様の瞳は、ビクラムが色を作り、メリナとビクラムが一緒に筆を持って、最後に彩色した。



「嬉しい。こんなに美しい神様の瞳を、私が塗ったのね」



 偉業を成し遂げたと言わんばかりに、メリナが顔を輝かせた。

 

 ビクラムとの共同作業で仕上がった神様の絵は、枕元であったり、胸の上であったり、一歩ずつ死へと向かうメリナを近くで見守り続けた。



 ◇◆◇



「私が死んだら、神様の絵も一緒に葬ってくれる?」



 その日のメリナは、何かを覚悟したような目をしていた。

 そのせいか、ドルジェ子爵は仕事に行かず、朝からずっとメリナの手を握り、ベッドの脇に跪いていた。



「いいとも、必ず棺の中に入れよう。約束するよ」



 さんざん泣いたのだろう。

 ビクラムの瞼は腫れ上がっていた。

 父親から、今日は学校を休むように言われ、その理由を察したのだ。

 ターラにも分かった。

 メリナは今日、旅立つ気だ。



「一足先に、お母さまに会いに行くわ。……皆んな、何かお母さまへ伝えたいことはある?」

「僕は元気ですって、お母さまに伝えて!」



 真っ先にビクラムが反応した。

 この中で、ビクラムだけが母を知らない。



「いつまでも愛している、と伝えてくれるかい?」



 続いたのはドルジェ子爵だ。

 その次は、ターラの番だった。



「メリナをよろしくお願いします、と。きっと赤ちゃんの世話に、慣れていないでしょうから」



 乳母と一緒にビクラムの面倒を見てきたターラと違い、子育てが未経験なメリナには分からないことも多いだろう。

 ターラとメリナ姉妹を育てた母に、いろいろ教わるといい。



「そうね、やっと私、赤ちゃんを抱けるわ」



 メリナは家族みんなに頷いて見せる。

 それぞれのメッセージを、ちゃんと受け取ったという意味だろう。



「お父さま、ずっと元気でいてね。お姉さま、神様のこと教えてくれてありがとう。ビクラム、仲直りできて嬉しかった」



 メリナは胸に押し付けるように神様の絵を懐いた。

 それから深呼吸をした後、「さようなら」と小さく呟いたきり、動かなくなった。



 手を握っていたドルジェ子爵は、メリナの脈が止まったと分かり、頭を垂れた。

 それまで我慢していたビクラムが、うわあああんと大声で泣き出す。

 ターラはそんなビクラムを抱き締め、早すぎたメリナとの別れを悼んだ。

 微笑むメリナの胸元には、鮮やかに彩られた神様の絵が遺された。

 メリナが筆をのせた神様の蒼い瞳が、にじんでいるように見えた。



 ◇◆◇



 メリナを死の恐怖から救った神様の誕生と偉業を伝える絵は、ターラたちの取り組みによってパッチワーク布絵として人々の目に触れるようになり、神殿には神様の姿を見るために参拝する人が増え、かつてない信仰熱の高まりとなった。

 この功績により、26歳になったターラは次期聖女候補のリストに名前が載るのだが、本人はまだそれを知らなかった。

 そして翌年、数百年を生きた聖女がこの世から旅立ち、27歳で歴代最年少の聖女となったターラは、神様の力により時の流れが緩やかになるのだった。

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