10話 絡まらない二人
(バラの精みたいに可愛いわ。あの人が、ガブのお姫さまなのね)
バラの生け垣の隙間から、ピンク色の髪が見え隠れしている。
それはバラの花びらに負けず劣らず、華やかで美しかった。
昔から憧れていたお姫さまの真似事ができて、舞い上がっていたシルヴェーヌが地へ叩き落とされた日に、令嬢たちが教えてくれた通りだった。
ガブリエルと隣国の皇女の間に、婚約の話が持ち上がっていると。
(皇女さまは本物のお姫さま。一晩だけのまがいものだった私とは違う……)
そんな貴重な一晩ですら、シルヴェーヌはドレスを汚して台無しにしてしまった。
ふたたび目の奥が熱くなりかけるのを、必死にこらえる。
(いくら泣いたって、時間は巻き戻らない)
だが、ショックから立ち直れないシルヴェーヌの思考は、下降の一途を辿る。
臭いと罵られても、これまではやり過ごせた。
誰かの役に立っているという、自負心がシルヴェーヌにあったからだ。
しかしガブリエルが回復し、話し相手も必要としない今、シルヴェーヌの存在意義が大きく揺らいでいる。
(王子さまであるガブの隣は、私の場所じゃない)
最近になって、国王から公務を任され始めたガブリエルは、執務室へこもって仕事をする日がある。
そんなとき、シルヴェーヌは邪魔にならないよう、厨房で手伝いをしたり、静かに本を読んだりして過ごす。
そして休憩の時間になったら、ロニーに教わった手順でお茶を入れて、疲れたガブリエルを労うのだ。
(だけど、それって私じゃなくても、できることだよね。これからは婚約者になった皇女さまが、ガブを癒す存在になるだろうし……私がいては、かえって妨げになるわ)
今頃になって、令嬢たちから言い放たれた台詞が腑に落ちる。
(お役御免……夢見る時間は終わった……その通りね)
いつまでも、うやむやな関係を続けてはいけない。
シルヴェーヌは心を決める。
そして鏡の前に立ち、指で口角を持ち上げて張りぼての笑顔をつくると、バラ園へ向かった。
ガブリエルへお別れを告げるために。
王子さまとお姫さまの物語に、ドクダミ令嬢なんて登場しないのだから。
◇◆◇◆
(まずいな。思っていた以上に、ブリジットから気に入られているみたいだ)
バラ園を散策し始めてすぐ、ガブリエルは交渉の失敗を悟った。
ブリジットにガブリエル側の事情を説明して、婚約以外の方法で、カッター帝国と友好を結びたいと伝えるつもりだった。
だが、ガブリエルが話し始める前に、怒涛の勢いで結婚式についてのアイデアを披露されてしまう。
(婚約の発表もまだなのに、もう結婚式の話か。それだけブリジットは、乗り気ということだろう)
想定していなかった状況に、ガブリエルは必死に打開策を考える。
カッター帝国の皇帝は、末娘のブリジットをたいそう可愛がっていると聞く。
両国の今後のためにも、なんとかブリジットの機嫌を損ねずに、婚約を解消する方法を見つけなくてはならない。
深く思考していたせいで、ガブリエルはシルヴェーヌの接近に気づくのが遅れた。
「あら、あなたは誰?」
「ジュネ伯爵家のシルヴェーヌと申します」
ガブリエルにしなだれかかったブリジットが、先にシルヴェーヌに誰何する。
腰を落としたシルヴェーヌは、礼儀正しく挨拶をした。
しかし、シルヴェーヌの貼り付けたような笑顔が、偽物だとガブリエルは気づく。
「ふ~ん、見覚えがあると思ったら、ガブリエルさまとファーストダンスを踊った令嬢ね」
やや気分を害したブリジットが、じろじろと値踏みするようにシルヴェーヌを見る。
あまりにもシルヴェーヌが美しいので、反感を覚えているようだ。
「あなた、香水を変えた方がいいわよ。すごく変な匂いがするわ」
「申し訳ありません。これは私の体臭なので、変えられないのです」
「あら! それでは嫁ぎ先が見つからないのではなくって?」
パーティの夜にシルヴェーヌを取り囲んだ令嬢たちと違って、ブリジットに悪気はない。
とはいえ、その言葉の刃は鋭かった。
体を強張らせたシルヴェーヌを庇って、ガブリエルが間に入る。
「ブリジット、僕の命の恩人に、不適切な声掛けをしないでください。シルが長らく離宮にいてくれたから、僕は脆弱な体質からここまで回復できたのです」
とっさのガブリエルのその反応は、ブリジットの癇に障った。
「ガブリエルさま、わたくし妬いてしまうわ。その令嬢を、二度と近くに侍らせないで。さもないと、お父さまに言いつけて――」
「離宮からお暇したくて、ご挨拶に参りました。これ以上、婚約されたお二人の仲を、邪魔するつもりはありません」
脅し文句を吐こうとしていたブリジットは、シルヴェーヌの発言にパッと表情を明るくさせる。
「あなた、なかなか立場をわきまえているじゃない。それなら特別に見逃してあげる。早々に立ち去るのよ?」
「かしこまりました。大変お世話になりました」
この世の終わりみたいな絶望顔をしているガブリエルを残し、シルヴェーヌは踵を返した。
(ガブはこれから、皇女さまと幸せになるのよ。親友なら、喜んで祝福しなくちゃ)
顔を上げて、シルヴェーヌは歩を進める。
毅然とした態度を保っていられたのは、バラ園を抜けるまでだった。
離宮にある自分の部屋へは、駆け足で戻った。
そして手早く身の回りの品をまとめると、10年前に乳母が持たせてくれた、小さな鞄にそれらを詰め込む。
ぽたぽたと眦から滴り落ちる水滴を拭いもせず、シルヴェーヌは誰にも会わないうちに離宮を飛び出した。
(ロニーや料理長にもお別れの挨拶をしたいけど、絶対に引き留められる。せっかく出て行く決心を固めたのだから、揺るがない内に去らなくちゃ)
離宮から王城へ続く道を走り、そこにいた護衛兵に馬車を呼んでもらう。
明らかに泣き腫らした顔をしているシルヴェーヌに護衛兵はぎょっとしたが、体臭のせいでドクダミ令嬢だと分かったようだ。
王家が恩義を感じているジュネ伯爵家の令嬢を、いい加減には扱えない。
直ちに用意された馬車に乗り込み、シルヴェーヌは帰途に就く。
(さようなら、ガブ。私の王子さま役を引き受けてくれて、ありがとう。おかげで、今までで一番の素敵な夢を見られたわ)
遠ざかる離宮に向かって、シルヴェーヌはそっと手を振った。
◇◆◇◆
「僕のしくじりだ」
ブリジットの相手をなんとか務め終え、ひとり離宮へ戻ったガブリエルは項垂れる。
その姿を、ロニーが痛ましそうに見やった。
すでにシルヴェーヌの姿はここにない。
「パーティの夜から、もっと手を尽くしていれば……」
「殿下はドレスを汚した令嬢たちが、王妃殿下の命令に従って動いていたと突き止めました。決して、何もしなかった訳ではありません」
ロニーの慰めは、ガブリエルには益体もない。
「むしろ都合がよいと考えましょう。離宮へシルヴェーヌさまが滞在していては、いつまでもブリジット皇女殿下の糾弾の的になったでしょうから。一時的にご実家へ戻っていただいて、なにもかもが終わって呼び戻した方が安全です」
それは一理ある。
今日のブリジットを見ていただけでも、シルヴェーヌを排斥しようという意思の強さを感じた。
「シルのため、か」
「巻き込みたくはないのですよね?」
ガブリエルが知る限り、シルヴェーヌの世界は美しいもので満ちていた。
穢れを知らぬその世界を護りたくて、ガブリエルはロニーへ頷く。
「奸計が渦巻く汚い世界など、シルには縁遠い。だが僕がこれから戦いを挑むのは、その頂点にいる王妃だ」
自然とガブリエルも、その色に染まるだろう。
そしてそんな様を、シルヴェーヌには見られたくない。
「もう手段は選ばない。なるべく早く決着をつける。そして必ず――シルを離宮へ呼び戻す」
この日から、ガブリエルは国王とも頻繁に連絡を重ね、大国におもねるばかりの貴族たちを束ねる王妃と、全面的に競い合う関係となったのだった。