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2話 初めてのお友だち

 それは、白くて細いガブリエルの指だった。

 爪先がまるく整えられていて、ロニーの仕事の丁寧さを表している。



「シル……よろしく」



 ぜいぜいと苦しそうな息の下から、ガブリエルの挨拶が聞こえる。

 シルヴェーヌの長い名前を発声するのがつらかったのか、愛称のように縮められていた。

 友だちのひとりもいなかったシルヴェーヌにとって、それは初めての体験だ。

 嬉しくて、シルヴェーヌはガブリエルの指を握り返す。



「よろしくね、ガブ。今日から私たち、お友だちになりましょう!」



 しっかり愛称で呼び返し、喜色満面なシルヴェーヌに、ガブリエルもうっすらと微笑んだ。

 その笑顔は儚いものだったが、ロニーは息を飲む。

 

(殿下が自発的に微笑まれるなんて、いつぶりでしょう。それにシルヴェーヌさまから手を握られて、息遣いが少し穏やかになった気が……)



 常にガブリエルの側にいるロニーだからこそ分かる、僅かな変化だった。

 本当のところ、ドクダミ令嬢と冷やかされるシルヴェーヌについて、ロニーは半信半疑に思っていた。

 しかし、生まれつき体が脆弱なガブリエルを憐れむ国王は、体から漂う悪臭がどんな疾病も癒すという胡乱な噂に、藁にもすがる心情で飛びついたのだ。

 実際にガブリエルが療養している離宮へシルヴェーヌを呼び寄せてみると、確かに一般的な令嬢からは絶対に匂わないだろう風変わりな香りがする。

 だが、長年ガブリエルの側付きだったロニーにとって、その臭気は馴染みのあるものだった。

 

(これは、生薬の匂い? これまで殿下が、いろいろと試されてきた異国の薬に似ていますね)



 さらには、シルヴェーヌに手を握られたガブリエルの呼吸が整ったことで、ロニーは確信した。



(間違いありませんね。この方は、殿下の症状を癒す技を持っています)

 

 シルヴェーヌに関しては、その体質がそもそも眉唾ものであるとか、即効性がないから無用の長物だとか、耐えられない悪臭がするとか、嘲り酷評する者も多い。

 それでも、成人するまでは生きられないと、医師も諦めたガブリエルの虚弱体質を、少しでも改善してくれるのならば、ロニーはいくらでもシルヴェーヌの味方になろう。



「シルヴェーヌさまには、今後こちらの離宮で過ごしていただきます。何かお困りのことがあれば、いつでも私に申しつけてください」

「ガブの病気が治るまで、ここにいたらいいの?」

「できれば今のように、殿下の手を握っていただけると、回復が早いかもしれません」

「そうなのね。そうと知っていれば、厨房へ行くたびに料理長と握手をしたのに」

 

 齢を取ると誰でも腰が痛くなるんですって、とシルヴェーヌにとっては、当たり前な日々の出来事をロニーへ聞かせる。

 そんな他愛ない会話に、いつもはすぐ眠りにつくはずのガブリエルが、興味津々で耳をそばだてていた。

 しかも、シルヴェーヌが口を閉じると、続きを強請ってきたのだ。



「もっと……聞きたい」

「こんな話が面白いの?」

 

 こくりと頷くガブリエルは、生まれたときからずっとこの離宮にいる。

 しかも寝たきりの状態で、ベッドから起き上がるのもままならない。

 シルヴェーヌも今日まで屋敷の外へ出たことがなかったが、広い庭を隅から隅まで縦横無尽に走り回っていた。

 世の中の経験値としては、断然シルヴェーヌが上だろう。

 

「いいわよ、ガブが聞きたいだけ話してあげる」

 

 それからシルヴェーヌは話し相手の名に恥じぬよう、令嬢らしからぬ日常の風景のあれこれを語ったのだった。



 ◇◆◇◆



「姫りんごを使って、りんご飴を作った話はこれでおしまい。次は、おたまじゃくしを蛙に育てた話をするわね」



 ガブリエルが目を覚ましている時間は短い。

 その間に、シルヴェーヌはひとつふたつ、自分が乳母と遊んだ体験談を披露していた。

 それを聞きたいばかりに、ガブリエルは必死に起きていようと気を張っている。

 これまで何に対しても諦念が多かったガブリエルへ、いい変化が訪れていた。



「シルヴェーヌさまは、闊達でいらっしゃるのですね」



 今日の話が終わり、ガブリエルが眠りについたのを確認して、小声でロニーが尋ねてきた。

 シルヴェーヌの話題の引き出しの多さに、内心で舌を巻いていたのだ。

 

「怪我も体質のせいで治ってしまうから、どんな遊びをしても許されていたの。そう言えば、ロニーは私の匂いが気にならないの?」

 

 シルヴェーヌは、自分の腕を持ち上げ、くんくんと嗅いでみる。



「私には自分の匂いが分からないのよ。みんな、いろんな表現をするわ。その……ドクダミとか」

「殿下が処方されていた異国の薬に、近い匂いがします。私は嗅ぎ慣れているので、不快には感じません」

「お医者さまもそう言ってた。これは生薬の匂いだって。だからこそ、健康な人にとっては、嫌なものに感じるんだって」



 しょぼんと眉を下げたシルヴェーヌ。

 

「ガブも病気が良くなったら、私の匂いが嫌になるかな?」



 眠っているガブリエルへ、寂しげな視線を向けたシルヴェーヌの姿に、ロニーは胸を打たれる。

 これまでにも同じような経験があったのだろうか。

 

「殿下は私よりも長く、薬に囲まれて育ちました。むしろ、安心感を覚えるかもしれませんよ」

「そうだといいな。せっかくお友だちになったんだもん。病気が良くなったら、ガブと一緒に外で遊びたいし」



 ロニーは目を見開く。

 シルヴェーヌは何の疑問もなく、ガブリエルの病気が良くなると信じている。

 16歳のときからガブリエルの側付きとして仕えて4年間、そう言い切る者は初めてだった。

 誰もがガブリエルの未来を、暗いものだと予想していた。

 

「殿下の目が覚めたら、ぜひその言葉をかけてあげてください。きっと喜ばれるでしょう」



 微笑むロニーに、シルヴェーヌも笑い返す。

 こうしてシルヴェーヌは、ガブリエルと過ごす離宮での暮らしに少しずつ慣れていった。



 ◇◆◇◆



 ガブリエルは、以前より起きている時間が長くなったが、やはり一日の大半を寝て過ごした。

 うとうとと微睡みながら考えるのは、もっぱら友だちになったシルヴェーヌについてだ。



(お父さまが探してくれた、僕の話し相手。お薬の匂いがするから、最初はお医者さんが来たのかと思った)

 

 シルヴェーヌはガブリエルより、ひとつ年上の伯爵令嬢だ。

 だが、シルヴェーヌの話す世界は、ガブリエルの知る世界とは全く別物だった。



(シルの世界は大きくて広い。僕のいる世界が、いかに小さくて狭いのか、教えてくれる)



 ガブリエルは、この部屋しか知らない。

 清潔なシーツ、柔らかい枕、天蓋に描かれた鳥たちの絵。

 たまに開けられる窓からはそよ風、ロニーの運んで来るスープの香り、人気がなくなり静まり返る夜。

 それらが、ガブリエルを取り巻く環境の主なものだった。



(おたまじゃくしが成長していく姿が想像できない僕に、シルは絵を描いてくれた。だけど何度見ても、あれが最後は蛙になるのが信じられない)



 見てみたいと思った。

 シルヴェーヌのいる世界を。



(楽しいんだろうな。だってシルは僕に話すとき、いつも顔を輝かせているもの)



 ガブリエルを喜ばせたいシルヴェーヌは、そういう話題をあえて選んでいる。

 だがそれは、世間を知らないガブリエルには、判断できないことだ。

 

(僕の体、良くなるのかな)



 もうとっくの昔に、諦めていた。

 しかしシルヴェーヌと出会って、希望を抱くようになった。

 

(少しずつだけど、動けるようになってる。もしかしたら……)



 側付きのロニーは、すっかりシルヴェーヌの信者となっていた。

 ガブリエルだって友だちのシルヴェーヌを疑っていない。



(いつかシルと一緒に、この部屋の外へ出たい)



 きっとそこは、シルヴェーヌの笑顔のように、眩しく光る世界に違いない。

 その日がやって来ると思うと、ガブリエルは心の奥底が温かくなるのを感じた。



(シルと手を繋いで、僕は――)



 そこまで考えて、ガブリエルは幸せな眠りについた。

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