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75話 星形の古傷【完】

「っ……! ファビオラ、いきなり何を……!」



 ヨアヒムが両手で、自分の目を覆う。



「ヨアヒムさまにも、ありますよね? 私たちの矢傷は、お揃いだから」



 ファビオラが、ガウンをはだけたのではないと分かり、ヨアヒムはそろりと顔を出す。

 襟が下げられているが、見えているのは鎖骨の下まで。

 そして白い肌の上には、星型に盛り上がった古傷があった。



「それは……もしかして、あの日の?」

「見せてください。ヨアヒムさまも、右肩を」



 ヨアヒムはファビオラの意図を察して、ばさり、とガウンを肩から落とす。

 そこには、ファビオラの傷よりも大きな、いびつな引き攣れがあった。

 おそるおそる、ファビオラは手を伸ばし、少しだけ色の違う皮膚をなでる。



「痛かったですよね。それなのに、ヨアヒムさまは歯を食いしばって、声を上げるのを耐えていた。あんなに小さいときから、ヨアヒムさまは強かったんですね」

「格好悪いところを、見せたくなかっただけだよ。好きな女の子の前では、どんな男の子だって、やせ我慢をするものだ」



 ヨアヒムも手を伸ばすと、ファビオラが見せている矢傷に、優しく指を這わせる。

 凸凹とした表面が、その傷の深さを表していた。

 

「ファビオラこそ、怖かっただろう。なんの関係もないのに、いきなり襲撃されたんだ。あの日、ここから真っ赤な血が流れて、今なお、こうして傷跡が残っている。……本当に、ごめん」



 すり、と傷を擦られ、くすぐったさにファビオラが身動きをした。

 するとヨアヒムは顔を近づけて、星形の古傷にそっと口づけを落とす。

 その神聖さは、騎士の誓いのようだった。



「もう二度と、こんな目には合わせない」

「ヨアヒムさまも、傷つかないでください」



 ファビオラも真似をして、ヨアヒムの右肩へ唇を寄せた。

 お互いの言葉が、お互いの守護となればいい。

 嬉しそうに微笑むヨアヒムの耳が赤いが、ファビオラだって同じだ。



「ヨアヒムさまとお揃いだと思うと、この傷を嫌いにはなれないんです。私たちを繋ぐ、絆みたいだから」



 ファビオラはヨアヒムへ伝えたかった。

 あるのは負の感情ばかりではない。

 こつり、とヨアヒムが額を突き合わせてきた。

 

「ファビオラは優しい。傷がついたのは私のせいだ、と罵ってもいいのに」

「傷がついたから責任を取ってください、とヨアヒムさまに迫ればいいんですか?」



 ヨアヒムが重く感じないよう、ファビオラはわざと取り澄まして答える。

 すると、演技がかったファビオラの言い回しに、ヨアヒムが噴き出した。



「降参するよ。今のは、誰を真似したの? 私の可愛いシャミに戻って」



 抱き締めるなり、ちょん、と鼻の頭に口づける。

 パッと頬を染めたファビオラは、そういう可能性もあったと反論する。



「ヨアヒムさまは、皇太子なんですからね。その隣に立ちたいと願う令嬢に、強請られるかもしれないでしょう? そうしたら、責任感とか義務感とかで、ヨアヒムさまは……」

「そういう令嬢には、謝罪をして、賠償金を払って――それで終わりだ」

 

 あまりにも割り切った答えだったので、ファビオラは意外に感じた。

 そして、ハッと気がつく。

 

「もしかして、すでにそういう場面があったんですか?」

 

 苦笑しているのは肯定したも同然だ。

 しかもどうやら、一件や二件ではなさそうだ。



「怪我をさせた訳ではないけれど、私と一緒にいたせいで、怖い思いをした令嬢はたくさんいる。ディンケラ公爵令嬢も、その一人だよ。だが、彼女たちを特別扱いはしない」



 さらり、とファビオラの銀髪に指を通し、その感触をヨアヒムは堪能する。



「私が隣に立って欲しいと希う相手は、ファビオラしかいないから」

「な、なんだか、ずるいです」

 

 ファビオラは、ためらわずに愛を囁くヨアヒムに、圧されてばかりだ。

 二人の恋愛偏差値は、ほぼ同じだったはずだが、どうやらバートがヘルグレーン帝国を去る前に、ヨアヒムへ教育的指導をしていったらしい。

 知識欲の塊みたいなヨアヒムは、バートの教えを瞬く間に吸収したようだ。

 最後の最後まで、バートはヨアヒムの救世主だった。



(バートさん、今頃はガレール先生のもとで、頑張っているのでしょうね)

 

 ヨアヒムが皇太子になると、その日のうちに、バートはガレールに弟子入りした。

 それ以来、ヨアヒムはよく後ろを振り返っては、眉尻を下げている。

 これまでバートに預けていた背中が、肌寒いのだそうだ。

 だからファビオラは腕を回し、ヨアヒムを温める。

 ヨアヒムはそのぬくもりを甘受した。

 

「ファビオラを幸せにする」

「それじゃあ、ヨアヒムさまを幸せにするのは、私の役目ですね」



 二人は視線を合わせ、それから唇を合わせた。

 初めての夜、ファビオラとヨアヒムの矢傷が重なる。



 ◇◆◇◆



 結婚してから数年後、ファビオラは長男ユリウスを授かる。

 ユリウスの出産と同時に、元侍女だったモニカを、乳母として雇用した。

 博識家なモニカの夫には、ユリウスの家庭教師の一人になってもらうつもりだ。



「私のわがままで呼び寄せてしまって、ごめんなさい」

「いいんですよ、お嬢様……いえ、皇太子妃殿下。私も夫も、これ以上ない名誉だと思っています」



 二児の母であるモニカに助けられ、ファビオラとヨアヒムは初めての育児に奮闘する。

 赤ちゃんのユリウスが、夜中になかなか寝てくれなくて疲労困憊したのも、二人の思い出となった。

 それからさらに数年後、ユリウスがモニカの夫から文字を学ぶようになった頃、ファビオラは長女シルヴィアを授かる。



 シトリンがセブリアンと共に行商に来たり、ルビーが支店長になった元孤児たちを連れて来たり、結婚したアダンが妻と一緒に遊びに来たり。

 ヘルグレーン帝国に嫁いだファビオラの周りは、いつも歓びがあふれてにぎやかだった。

 そんな中でも、最もファビオラを驚愕させた出来事は――。



「ポーリーナさま、おめでとうございます!」



 ミルクキャンディ事業を通じて、エルゲラ辺境伯領とオーバリ子爵領を行き来していたポーリーナが、なんと獣医見習いのバートと婚約したというのだ。

 マティアスのせいで、ポーリーナはすっかり男嫌いになっていた。

 それがどうしたことか、牛と真摯に向き合うバートに惚れてしまったのだ。



「やっと、バートさんが頷いてくれたんです。もう嬉しくて嬉しくて……」



 ポーリーナは隙あらば、嬉し涙を流している。

 もちろん目尻にあてるハンカチには、ほっぺの赤い女の子が刺繍されていた。

 暗殺者の過去を持つバートは、かなり頑なに固辞したようだが、ポーリーナが諦めなかったのだろう。

 こっそりとウルスラがバートに爵位を与え、ポーリーナの夫として相応しい身分も用意した。



「さすが、お義母さま……抜かりがないわ」

「元雇用主から褒美だと言われれば、バートも断りづらいからな」



 エルゲラ辺境伯領で催されたバートとポーリーナの結婚式には、お忍びでファビオラとヨアヒムも参加した。

 こうして、ヘルグレーン帝国での幸せな日々に、満たされていたファビオラだったが――。



「憂い顔だな。どうした?」



 ユリウスとシルヴィアが寝静まると、そこからはヨアヒムとの夫婦の時間が始まる。

 表には出していないつもりだったが、ファビオラのわずかな変化を見逃すヨアヒムではない。

 長椅子に座るファビオラの隣に腰かけ、温かいミルクを手渡した。

 お酒に弱いファビオラにとって、これが毎夜の寝酒代わりだ。

 適温のそれを口に含み、ほっと一息つくと、心の内を打ち明ける。

 

「今日、『朱金の少年少女探偵団』シリーズの新刊が出たでしょう? だからそれを寝る前に、子どもたちに読み聞かせたのだけど……最終巻だったの」

「……オーズとシャミは、結婚した?」



 バッと、ファビオラはヨアヒムを振り仰ぐ。

 どうして知っているの? と、口がぱくぱく動いた。

 先ほどまで仕事が差し迫っていたヨアヒムは、まだ読んでいないはずだ。



「以前、ファビオラにサイン本を贈っただろう? 添えてあったメッセージを覚えてる?」

「忘れないわ。『オーズからシャミへ、愛を込めて』って……」

「それを、ヤン・ヘンドリックス先生に書いてもらったとき、言われたんだ」



『そんな未来もいいね。最終巻で、二人を結婚させよう!』



「最終巻が出るまで、誰にも内緒だよと約束させられたから、ファビオラにも黙っていた。長らく隠し事をしていた夫を、叱っていいよ」

 

 そう言って、ヨアヒムは頭を差し出す。

 ふふ、と笑ったファビオラは、金髪をよしよしと撫でた。

 許されたヨアヒムは、そのままファビオラの胸へと頭を預ける。

 甘えん坊の夫を、ファビオラは愛しげに抱き締めた。

 そして、憂い顔だった理由を話す。



「大好きだったシリーズが完結してしまって、胸にポッカリと穴が開いたみたいなの」



 ヨアヒムが、ちゅっ、とファビオラの胸元へ口づける。

 そこにある矢傷ごと、慰めようとしているのだろう。



「小さい頃から、ずっと追いかけてきたシリーズだったから、お別れするのが寂しいわ。ヤン・ヘンドリックス先生は、作家を辞めてしまうのかしら」

「カーサス王国で会ったときは、お元気そうだったけれど、あれから年月も経った。先生なりに考えた上での、最終巻だったのかもしれないね」

「それなら……オーズやシャミたちの大団円を、読者として喜ぶべきね」

 

 無理やり笑おうとするファビオラの頬を、ヨアヒムが両手で包み込む。

 ファビオラの幸せをつくる役目を、他人任せにするヨアヒムではない。



「ファビオラには、話したことがあっただろうか? 少年時代の私の夢について」



 皇帝を目指す前、ヨアヒムには憧れていた職業があった。

 本を読むのが大好きだったヨアヒムが、自然と心に抱いた夢だ。



「今なら叶えても、許されるんじゃないかと思う」

「ヨアヒムさまの夢って、何だったの?」



 にっこりと笑ったヨアヒムが、ファビオラのために考えた物語を書き上げるのは、それから数か月後のことだった。

 ファビオラにそっくりな銀髪の女の子が、カーサス王国にしか咲かない銀色の花の精と一緒に、不思議な世界へと冒険の旅に出る物語は、ユリウスとシルヴィアにも好評だった。

 ファビオラも含めた三人に強請られたヨアヒムは、それから何十年にも渡って、皇帝の仕事の合間を縫って続きを書いたという。

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