裏窓
「夜分遅く申し訳ございません。私、こういう者です」
いまだ慣れない手つきで松葉杖を突き、おぼつかない足取りで玄関まで歩いてドアを開けると、いかついスーツ姿の男が
「またですか? 刑事さん」
全身から汗が滲み出る心地の中、俺は答えた。少し声が震えていたかもしれない。
つい一週間ほど前の、八月十七日の夜のことだ。隣のマンション――駐車場と公園を挟むので五、六十メートルほど離れているが――の一室で、住人の女性が殺害される事件があった。
警察の捜査が始まると、マンションの隣りに建つこのアパートに住む俺のところにも、すぐに聴き込みの刑事がやって来た。
「前に来た刑事さんにも言いましたけど、俺は何も見てないですよ」
心なしか声がうわずってしまう。
真夏の夜に起きた事件だ。犯行現場の部屋の窓は大きく開かれ、カーテンも掛かっていなかった。そのため向かいのアパートの住人は犯人を目撃している可能性が高いと、特に念の入った聴き込みが行われているらしい。俺のところも今回が二度目だ。
「何か思い出したことはありませんか? 些細なことでいいんです。あなた、あの晩もこの部屋にいたんですよね?」
と言いつつ、刑事はチラリと俺の足元を見た。
俺は今、片足にギプスをしている。
ふた月ほど前、俺は交通事故に遭い右足を骨折した。現在は自宅療養中で、たしかに事件のあったあの日も一日中アパートにいた。
「え、ええ。部屋にいましたよ。でも、窓の外は見てないんですよ」
つい目が泳いでしまう。
だめだ。あのことだけはバラすわけにはいかない。
駆け出しカメラマンの俺は、仕事はおろか近所の買い物すら困難なこの状況下で、退屈しのぎに望遠レンズを装着したカメラを使い、隣のマンションを時折り覗き見していた。ちょうど真向かいの部屋には若い女が住んでいた。ほんの出来心だった。
あの夜のことを正直に話したら、覗き行為がバレてしまうのではないか。そんな強迫観念に駆られ、俺は事件について口をつぐむことにしたのだ。
「――なるほど。では失礼ですが、事件のあった日の夜、あなたが何をしていたのかを教えてもらえますか? いやいや、これはあくまでも形式的なもので、別にあなたを疑っているわけではありませんよ。その怪我ではあのマンションへ行き来するだけでもひと苦労でしょうし、ましてや殺人が行えるとは思えない」
刑事は胸ポケットの手帳とペンを取り出した。
本当のことは言えない。なんとか誤魔化さなくては。
「ええと、あの夜は……そう、映画。テレビで映画を見てました」
焦りの中で、俺の脳裏にある映画のワンシーンが浮かんだ。
「ほう、その映画のタイトルは覚えていますか?」
「たしか『裏窓』です。アルフレッド・ヒッチコックの」
五十年以上も昔の古い映画だ。滅多にテレビ放映などされないだろう。だが、そこを指摘されたとしても、映画マニアの友人から借りたDVDで見ていたとでも言えばいい。全く問題ない。
ところが俺の返答を聞くと、刑事は突然、眉根を寄せて鋭い目を俺に向けた。
何だ? 俺は何かマズいことを言ったのか?
そもそもこの刑事はなぜこんな遅い時間に俺のところへ来たんだ?
俺が怪我で外出できないことは、前の聴き込みで警察は把握しているのではないのか?
一日中家にいることが分かっているのなら、前みたいに昼間に来ればいいじゃないか。それなのになぜ?
その直後、俺はそれらの疑問の答えを全て、身をもって知ることになった。
「なあんだ。あなた、
刑事はニヤリと薄笑いを浮かべると同時に、俺の首に力強い手を伸ばした。
襲いくる苦痛と激しい後悔のさなか、俺は思い出していた。
あの日、あの夜、
そして女に覆いかぶさる、
〈了〉