18 蠢く影と吹き出す魔
ぼんぼろぼーん
ぼんぼろぼーん
何だろう。音が聞こえる。
ぼんぼろぼーん
ぼんぼろぼーん
怖い……
でも、なんだか懐かしい……
「……チル」
誰かが呼んでる。
「──チル、我が**……」
なに? 聞こえないよ、もう一回。
「我は、お前の**──」
暗い……
何かが動いている……
何かが、オレの体をふわふわと包んでいる。
「……チル、ああ、我が**」
何かが、ふわふわと、さわさわと……
オレの、その、大事な部分を……
「オマエハワレノモノ」
やめて、そんな、気持ちのイイ!
「ぎゃおわおわおえ!!」
ミチルはハッと目を覚ました。
ああ、視界が明るい。目の前には、先生の超ステキなイケてる顔面。
「シウレン! 大事ないか?」
「きゃああ! 美しいッ!」
どアップのジンの顔に、ミチルは思わず目が眩む。
うん? ちょっと待って。今のオレの体に起こっている状態。
膝枕、というヤツなのでは……? なんてこった、鼻血が出そう。
「うむ、元気そうだ。心配したぞ、あれから二時間も気を失っていたのだから」
ジンはミチルの頭を膝に乗せたまま、その頬を優しく撫でた。
下心のない、純粋な気持ちが伝わってくる。
あーもー、待って、無理。すごいイイ匂い。
先生からセクハラを取ったら、極上イケメンが出てきましたわ。
ちょっと渋めの瞳が最高じゃんね。
おっと、いけねえ。イケメンうほうほしている場合じゃない!
ミチルは自分に起きた出来事を思い出そうとした。
確か、10歳くらいの少年と試合をした。
子どもだったから、足を引っ掛けて転ばそうとした。
そこから先の記憶はない。
「試合は?」
ミチルが聞くと、ジンは悲しそうに、しかし慈愛をこめて答える。
「貴様の負けだ。対戦相手の少年は、天才だ。もうすぐ彼が決勝戦に出るところだ」
決勝に残るような子とあたったの!?
何それ、オレ、マジ運が悪い!
「儂の弟子達も軒並み敗退……今年はあの子の一人勝ちだな」
ぼわわーん、と銅鑼の音が聞こえた。
盛り上がった観客の歓声が、ミチルの頭をガンガン叩くように響く。
ミチルはやっと起き上がって、決勝戦が行われている方を見た。
ああ、そうだ。あの子。間違いない。
対戦相手は、相当な大人だ。ミチルとの体格差なんて、まだ生ぬるい。
あれじゃあ、パンダに対峙する猫みたい。
「ど、どっちが勝つんでしょう!?」
ミチルが聞くと、ジンは眉をひそめて緊張感たっぷりに言った。
「十中八九、少年の方だ。相手の男も、この辺では筆頭の達人だが、あの子は次元が違う……」
「ま、マジで……?」
ミチルは改めて試合を注視した。
対戦相手のパンダ男は、大きい体に似合わない俊速の蹴りを繰り出している。
ジンのそれには及ばないものの、ブンブンと蹴りが空を切る音がここまで聞こえており、ミチルは恐怖で竦み上がった。
「ウソでしょ、あんなに速くて重い蹴りを、軽々と躱してる……」
猫少年はあんなに速く動いているのに、ニタニタと笑い続けていた。
大人をバカにしているような、嫌な笑い方だ。
「先生、あの子、なんかイヤです……」
ミチルがそう呟くと、ジンもまた頷いて言う。
「まあな。いくら腕があっても、あの態度は武人ではない。あの子の師匠は肝心なことを教えていないと見える」
仮に、パンダ男が勝っても子どもを捻り潰したことになるし、猫少年が勝っても大人をナメくさった態度の優勝者が出る。
どちらにしても、今年の大会は後味が悪いことになりそうだと、ジンとその周りの師範代達は溜息を漏らす。
「せりゃああ!」
盤面が動いた。パンダ男の掛け声が会場に響く。その蹴りが、猫少年を一瞬だけ捉えたのだ。
「!」
猫少年は頬をかすめたその場所を一瞬気にした。その頬に一筋亀裂が走り、わずかに血が滲む。
「わっ! すごい!」
ミチルは素直にパンダ男の方に感心したが、ジンは更に表情を曇らせていた。
「まずいな……」
「え?」
ミチルが急いで猫少年に注目すると、彼は動きを止めて、頬を押さえながら何かぶつぶつ呟き始めた。
「血だ、血が出た。僕が、このボクが、血が、ちガ、チガチガチガ……」
ぼんぼろぼーん
銅鑼の音、ではなかった。
何か得体の知れない音が鳴り始めた。
「ぼく、ボク、ボくの血ガ、血、チー! チー! チィイイ!!」
ぼんぼろ、ぼんぼんぼーん
「ああ……っ!」
ミチルは、何度も感じたその気配を思い出す。
黒くて、禍々しい影が、猫少年から吹き出していた。
「うう……うああああ……」
苦しそうに呻く猫少年に、パンダ男が心配そうに駆け寄る。
「いかん! 近づくな!!」
ジンが叫ぶけれども、一瞬遅かった。
「うわああああ!」
猫少年の叫びとともに、黒い影がぶわっと吹き出して、パンダ男を吹っ飛ばした。
「ふー、ふー!」
まるで手負いの野獣のように、荒い呼吸を繰り返す猫少年。その体からは黒い影がどんどん吹き出している。
ミチルはその姿に見覚えがあった。
アルブスで見た、あの姿。ウツギが、ソレに変化する寸前の姿によく似ていた。
「せ、先生……ヤバイよ」
「シウレン、何か知っているのか?」
ミチルはジンの腕をギュッと握って、猫少年から目を離さずに言った。
「もしかしたら、あの子……」
「うわあああああッ!」
少年の断末魔のような叫びが響く。やっぱり、とミチルは覚悟した。
あの子は、アレになってしまうんだ。あの黒い魔物に。
だが。
「え?」
猫少年は、大きな叫びとともに、一際大きな影を背中から吐き出して、その場に倒れた。
代わりに、空中に滞留する黒い影がゆっくりと形を成していく。
「え、マジ?」
ミチルは目の前の出来事が信じられなかった。
猫少年は人間の姿を保って、気を失っている。
しかし、その側に現れたのは、大きな虎のようなモノ。黒く、影で覆われた、不吉な魔物。
ベスティアだった。