第十話
はっとまた目が覚める。再び男が気が付いた時には、やはり病室の中で、男はベッドに横になっていた。けれど、あんなにたくさんいた蛇の影も形も無い。勿論、娘の遺体も。また悪夢を見たのかと思った男は、何気なくベッドの端に下ろした手に当たったものに、びくんっと必要以上に驚いてしまった。
そこには妻がいた。ベッドに突っ伏して眠っており、相も変わらず一人娘を失って憔悴しきっているようだったが、何だかその顔を久しぶりに見たような気がして、男は重ねられた手をそっと抜く。その動きで起きたらしく、男の妻は眠そうに体を起こした。それ以上、妻の陰気な顔を見ていたくなかった男はその顔から視線を外しつつ、心配する妻の言葉にぶっきらぼうに返す。心中で早く帰って欲しいと思い、妻の方へ再び視線を移した男は、また金切り声を上げた。
そこにいたのだ。あの『影』が。丁度、自分と妻の間に割り込むようにして天井に足を付け、逆さまの恰好で男を見つめていた。そこだけが白く浮かび上がっている気味の悪い目つきで、男をただじっとりと見つめている。また男は半狂乱で絶叫した。妻には見えていないのか「あなた、どうしたの?」と不思議そうにしていた。
「来るなっ!! 来るなぁっ!!!!」
突然、夫の様子がおかしくなったと妻は医者を呼びに行ってしまった。半ば強制的にその『影』と二人きりにされた男は、折れている右足の痛みなど感じていないかのように、必死の形相で逃げようとする。さっきの夢の中と違って、今度はベッドから殆ど落ちるようにしてだが、出ることができた。
折れた足を引きずり、死に物狂いで引き戸を開けて廊下に出る。不思議と廊下には男以外に人の姿は無く、それどころか気配すらも感じない。さっきまでいた筈の妻の姿さえ、どこにも無い。不自然にしん、と静まり返った廊下はまるで廃病院のようだ。ぞっと怖気が背中を這い上がってくるが、すぐそこまで『影』が迫って来ていると思うと、男は込み上げてくる恐怖からひいひいと呼吸を乱しながらも足を引きずり、とにかくどこかへ逃げようと反対方向へ向かった。
エレベーターは『点検中』と書かれた看板が立ててあり、瞬時に使えないと分かった男は「ふざけんなよっ!!」とヒステリックな悪態を吐きながらも、すぐ傍にあった階段で階下を目指す。階段から降りる直前、自分の病室の方へ振り返ると、あの『影』がゆっくりと病室から天井を歩いて来る。追いかけて来ていると分かり、改めてぞっとした男は痛む足をできる限り気遣いながらも、階段を降り始めた。
時折、足を大きく踏み外しそうになりながらも、男はどうにかこうにか一階のロビーまで辿り着いた。出入り口の自動ドアに殆ど体当たりをするような形で近寄ったが、ドアは開かない。
「なんでだよっ!?」
できることなら、このドアを蹴り破ってでも逃げ出したいのに、この足では到底できそうもない。このドアが開いてくれれば、明るい外へ逃げられるのにと思いながらも必死に両手でガラス面を叩いていたが、開かないものは仕方がない。そうこうしているうちに、気配を感じた男はばっと背後を振り返った。
来ている。ぺたぺたと天井をゆっくり歩いて来る足音が、嫌でも男の耳につく。ここにもうすぐ来る。それでも尚、逃げなければと思った男は裏口へ回ってみようと、ロビーを通り過ぎ、奥の方へよたよたと歩いて行った。
足がもう限界を迎えている。無理に動かしてばかりいたせいで、右足は横になっていた時よりも大きく腫れ上がり、床に付ける度に激痛が走るようになっていたが、それでも僅かな希望を持って男は裏口の扉の前へ辿り着いた。
しかし、薄いスチール製の扉は無常にも男の希望とは裏腹に開く気配は無い。鍵がかかっている。激痛に苛まれている足で体当たりはできず、男は扉を激しく殴打しながら涙声で「ちくしょう……!」と叫んだ。すぐそこまで来ているのに、どこにも逃げられない。どうして、こんな目に遭わなきゃいけないんだと考えても、男には思い当たる節なんて何も無かった。もうすぐここに来る。来てしまう。捕まったら、どうなるか分からない。逃げなければ、と男は来た道を戻ろうと振り返った。
目の前にいた。
「ひ、ぃぇえええぅうううう……っ!?」
もう叫ぶ力さえ無いまま男は折れた足を庇いつつも、扉に背を預けて座り込んでしまう。もう追いつかれてしまった。殺される。
『影』が伸ばしてくる。実際はもっと速かっただろうが、男にはまるで獲物の反応を楽しんでいるように、止めを刺すかのようにゆっくりとした動きに見えた。自分がどうなってしまうのか分からず、分からないからこそ心の底から恐ろしく、男はそれ以上見ていられなくなって目を瞑った。自分の腕に『影』の手が触れたと思った瞬間、男の意識はそこで途絶えた。
はっと男は目を覚ました。白い天井、自分はベッドに寝かされていて、傍にはベッドに突っ伏して眠っている妻がいる。さっきまで自分は病院の裏口にいた筈なのにと男は混乱しかけたが、すぐに夢を見ていたのかと理解した。
「夢……」
しかし、どこからだろう。傍らで眠っている妻を見ても、男は何一つ安心できなかった。今見ているこの光景は、果たして本当に現実なのだろうか。そればかり考えてしまう。それを確かめたくて、男は寝ている妻へ恐る恐る手で触れてみた。その途端、ざらり、と指の間を妻だった砂の塊がすり抜けていく。
「ひぃ……っ!?」
「あ、なた……」
起き上がった妻は砂となっても、以前と変わらぬ声で男へ呼び掛ける。いつの間にか開いていた窓から吹き込んだ風に晒されて、さらさらと妻の体は崩れていく。それでも、彼女は助けを求めるように男へ手を伸ばした。
「あなた……」
「く、来るな……っ! オレが、オレが何をしたってんだ……っ!! やめろ!! 来るなぁあああ……っ!!」
枕でも水の入ったペットボトルでも、とにかく男は砂になった妻へ物を投げる。しかし、当然ながら、砂になった妻には何の効果も無い。投げた物は全て彼女の体をすり抜けていくだけだ。
「あなた…………」
いつも聞いていた、陰気なか細い声で呼び掛けられる。もうすぐ全身の半分が無くなりそうだ。頭が消えようとしたその時、妻ははっきりと悲鳴にも似た甲高い声で叫んだ。叫んだ瞬間、彼女の頭はその衝撃に耐えられず、まるで爆発したかのように弾け飛んだ。
「あなたのせいで、私は死んだのよっ!!!!!!」
「うわぁああああああああっ!!!!」
がばりと男は飛び起きた。全身汗びっしょりで、苦しかった呼吸を整えようと、男はぜえはあと少々大袈裟に息をした。震える手で掛けられているタオルケットを掴み、胸を押さえて自分はまだ生きていることを確かめる。
「また、夢……。オレは、何回、夢を見ているんだ……?」
後、何回見る?
不意に脳裏を駆け巡ったその考えに男は背筋が寒くなった。さすがに、今度こそは現実だろうと手を何度か握って開いたり、自分の頬を軽く叩いてみたりする。いや、しかし、それだけでは足りない。こんな痛みでは確証は持てない。何か無いか、他に何か……。そうして何か証拠になり得る物を探す男の手に、何か細長い物が当たった。
それはチェストに置かれた一本のボールペンだった。おそらく看護師か、妻が忘れて行った物だろう。男は「あったぁ!」と歓喜に呟いて、ボールペンを手にした。カチッと後ろのキャップを指で押すと、ペン先が出てくる。これなら、丁度良さそうだ。男はそう思うと、震える手でボールペンを逆手に持ち直す。
たかが頬を叩いたくらいでは、これが夢かどうかなんて分かったものではない。確かめるには、確信を持つにはもっと大きな痛みが必要だ。男はさっきより尚もぶるぶる震える手でボールペンを自分の左目に充てがった。
「どうせこれも夢……夢なんだ。夢だったら、目の一つや二つくらい…………へへ、へへへへへへ……っ」
これから自分がやろうとしていることが心底恐ろしい筈なのに、男はまるで歓喜に打ち震えているような笑い声を上げていた。一頻り気が狂ったように笑う。そして――
「あ゛ぁあ゛あ゛あ゛あああああああああああ……っ!!!!」
迷わず、男は自らの手で夢かどうか確かめた。これが夢であれと心の底から信じて。
朝、疲れ切った顔で男の妻は救急車で運ばれた夫の見舞いに、病院へ赴いていた。本当は運ばれたその日に行った方が良かったのだろうが、唯一、心の拠り所にしていた一人娘を亡くしてからはすっかり気持ちが落ち込んでしまい、体が重く、他のことに構っていられなかった。とりわけ夫のことについてはそれが顕著であった。だからここ最近は、毎晩のように何かと難癖を付けられて殴られていたのだが、もうほとほと疲れてしまった。これ以上、あんな暴力男には付き合えない。一応顔は見せるが、必要な物だけ訊いてさっさと帰ろうと男の妻は面談受付を済ませて、夫がいるという三階の大部屋へ入った。
三階の一番奥にある大部屋。そこには夫しか患者は入っておらず、壁に掛けてあるカードには樺倉の名前しか無い。もうこの名前と別れようかと真剣に考えながら、男の妻は声を掛けながら入って行った。
「あなた、大丈夫……?」
右側の窓際のベッドだけカーテンが閉じられていたので、そこにいるのだろうと見当を付け、何気なくカーテンを開けた妻の目に飛び込んできたのは、左目にボールペンを突き刺して満足そうな笑みを浮かべながら、横たわっている夫の姿だった。
主人も酷なことをするものだ、と小蛇の首に掛かったお守りを見て、鬼はそう思った。彼は一目であのお守りに巫女が込めた祈り、否呪いを看破した。
巫女が涼佑と小蛇の為に行ったのは、所謂呪詛返しだった。本来、掛けられた呪いとは多少時間は掛かるものの、正しい手順で行われる祈祷によって、呪ってきた相手に返す。巫女は今後、度々訪れるかもしれない面倒事を片付けただけに過ぎないが、今頃望の父親とやらは終わりの見えない呪いをひたすら受けているのだろう。己の行ったことによる呪いだけではなく、返ってきた呪いにまでじわじわと追い詰められ、寿命を奪われていくのだろう。それこそ、まるでヤスリをかけられるように。
これでその父親がこちらに頼ってきたら、どうするつもりなもだろうと思いつつも、何の連絡も無いところを見ると、今はその心配は要らぬものだと分かる。人を呪わば穴二つ。互いに恨んでばかりでは、行き場を失った呪いが溜まるばかりなのだ。
巫女は態度には表れていないが、余程、涼佑のことを気に入ったらしく、ここまで徹底的にやり返すのは珍しい。多少は望への同情もあるとは思うが、まさかここまでのことをするとは、と鬼は娘同然に思っている彼女を少し恐ろしく思った。
涼佑と一緒に仲良くテレビを見ながら夕食を食べている巫女へ、鬼は意味深に神妙な顔をして、一応という体で言っておこうと思った。
「主人」
「ん? なんだ?」
夕食の焼き魚を少しずつ食べながら、こちらへ振り向く巫女に、鬼は溜息混じりに応えた。今日の夕食はカレイの焼き魚に肉じゃが、小松菜と豆腐の味噌汁と炊き立てご飯だ。鬼の作る肉じゃがには隠し味でバターが入っている。これのせいで、さっきから二人の箸が止まらない。
「あまり度が過ぎぬように」
その一言を聞いた巫女は箸の先を少し噛み噛み――行儀が悪いと鬼に怒られた――「んー……」と気のない声を発しつつ、やがて箸を口から放した。
「気が向いたらな」
「? 何がだ? 巫女さん」
「ん~? もう少しお淑やかになれって言われた。私は充分、淑やかなのになぁ」
「あ~…………うん、そうだね」
「おい、なんだ今の間は」
適当に誤魔化した巫女の言葉にうんうんと頷きながらも、鬼は元気よく「おかわりっ」と差し出された巫女の茶碗に、何も知らない振りをしてご飯を盛った。
「ねぇ、『幽霊巫女の噂』って知ってる?」
「聞いたことある!」
「なぁにそれ?」
「何か、幽霊とか妖怪に取り憑かれたりしたら、いざって時、助けてくれるんだって!」
「電話でもネットでもお祈りしても『願いを叶える神社』と一緒に来てくれるらしいよ」
「でも、気を付けて」
「幽霊巫女さんも怪異の一人だから、怒らせると祟られるらしいよ」
大人達には知られず、そんな噂が口やネットを介して、学生達の間でまことしやかに語られる。科学では証明できない現象に遭遇し、あなた一人では解決できない困ったことがあるなら、頼ってみるといい。
『願いを叶える神社』はいつでもあなたの傍にあるのだから。