一.屋上の変
生きることに疑問を持つのは愚かなことだと思う。極論、世界から見れば自分という存在に意味は無い。どこかの国の大統領がいなくなったところで、副大統領が繰り上がりになる。どこかの国が滅んだところで、別の国が支配が広がる。誰かや何かがいなくなっても、そのまま世界は進んでいく。だから皆、考えないようにしている。自分に生きる意味が無いと気づいてしまったら、もうどうしようもなくなるから。学校とか、仕事とか、家庭とかで頭の中を埋めて、意識しないようにしている。ただ、その結論に一度気づいてしまったら?それしか考えられなくなったら?戻れなくなったら?一体どこに向かえばいい?
学校の屋上、安全柵を乗り越えて縁に立つ。簡単に落ちないように腕をしっかりと柵に絡めておく。つま先は宙に浮いている。あと一歩、腕を緩めて踏み出せばそれで終わり。四階の高さだから、頭から行けば確実だろう。こんなふうに、くだらないことを考えては考えている。風が薫る。草々の芽が地を突き破り、新緑に満ちているのが分かる。柵にもたれかかり、空に向かって肺の三分の一程度の息を吐き出す。ふぅ。最近、さぼっても良さそうな授業のタイミングで屋上に来て、こうして危険を感じながら物思いにふけるのがトレンドになっている。五限の国語は予習が済んでるし、そもそも国語はいまいち能力の伸びしろが感じにくい。今回はスルーして問題無いと判断してここに来た。授業もつまらない。というより、学校自体に面白味を感じない。いやまあ、全く面白くないわけでもないが。ただ想像の範疇を出ない。テストで良い点を取るのも、学校行事に参加して一体感を得るのも、もはやありきたり。なんだか、こう、明日を生きる活力を上手く得られない感じ。屋上なんて普段人の出入りは無いから、誰にも見つからず、静かだ。最近見つけたお気に入りの場所。こんなことをしても止めにくる人もない。まあ、本気で踏み出す気は無い、今は。未来は分からない、誰にも。柵を越えるようになったのはここ数日のことだ。もっと命を感じていたかった。俺がどれだけ自分の命に執着しているか確かめたかった。それだけなのだが、いつか、本当に、そうなってしまうのかもしれない。俺のことだから。自分に明るい将来が望めないことを再確認したところで、スマホを見やる。そろそろ五限もクライマックスに差し掛かる。嫌だけど、戻るか。六限は選択授業の社会。予習が済んでない暗記科目だから受けた方が良いだろう。最後にもう一度身を乗り出し、高さを実感する。風が顔を掠め、地面までの距離が果てしなく感じる。今自分が持つ位置エネルギーが想像され、少し脚が震えた。肺に残った息を吐き切り、気持ちを落ち着かせる。少し名残惜しいが、柵に足をかけて内側に戻ろうとした。
カチッ
音がした。何の?いや考えるまでもない、この音なんて、ドアノブを回さんとする音以外の何物でもない。ドアが開き、誰かが屋上に来ようとしている。どういう?なぜ?今まで誰も来たことないのに。まずい、間に合わない。この状況をどう説明する?そもそも誰が、授業中に?先生か、生徒か?いやともかくとにかく、今の最善手は、これしかない!
刹那、両手と右足を柵にかけ、一息で身体を持ち上げる。左脚を畳んで柵に乗り上げ、両腕を巻き込むようにして柵の内側に身体を入れ込む。着地は右足、左足。
できた。実に澱みない所作。素晴らしい。RTAがあったら入賞できるだろう。左の膝が痛むが問題無い、最善を実行できた。
できたのだが、
ひょっとしたら、何の解決にも、なって、いないのでは?
冷や汗が噴き出るのを感じる。そりゃそうだ、結局背後にいる人間にはどう対処する?今俺は屋上のドアに背を向けてしゃがんでいる状態。内側に戻ることはできたが、柵越えに必死でドアノブ以降の音は聞いていない。ただ、本当に背後に人間がいるのか?よくよく考えてみると不自然極まりない。なぜ声をかけてこない?目の前で柵越えを披露したというのに。それにしても、思わず音を立てたり、声を漏らしたりするものではないか。それなのに、実に静かで物音もしない。
誰もいないのでは?希望が出てきた。さっきの音は気のせいだったか?そうだ、恐らくそうなのだろう。ここまで全く物音を立てず静観する人間がいるわけがない。きっと振り向いても誰もいないはずだ。そう導き出した結論に一抹の安堵を感じつつ、あくまで自然に、すっとドアの方向に顔を向ける。
肩までかかる黒髪、前髪は綺麗に揃っている。身長百五十半ばほど、体型は普通からやや細めの、女子。制服は普通の着こなし、そして今現在、俺と目がばっちり合っている。ややつり目で、丸くて大きな瞳。青みがかった黒にグラデーションが映える虹彩。黒目もはっきりしている。いつか吸い込まれてしまいそうだ。
ここまでの脳内処理に約二秒。それから約三秒のフリーズを挟んだ後、再起動。うむ、現実はどうも変わらない。そこにはどうやら一人の女子生徒が立っているらしい。一言も発さず動きもしないまま。とりあえず、時間を巻き戻すように顔の方向をドアから柵に戻す。誰かと目を合わせ続けていることへの恥ずかしさに今、襲われた。
うおおおおおおぉぉぉうおうおうおうぉ?!
見られてる、しっかり見られてるぅ!しかも女子、女子!誰?知るか!どどど、どうする、どうするぅ?どんな言い訳を?もういっそのこと、無言で横を通り過ぎるべきか?そもそも、どこまで見られた?柵越えの瞬間からか?それならそこの言い訳だけを考えればいいが、いやもう何を言っても不自然か?それにしても、こいつなんで何も言ってこないんだよ!おかしいだろ!いるならその存在を示してくれよぅ。幽霊だったりしない?!何か、そういう屋上に棲みついているとかそういう、であっ、無理あるかぁ。ともかく、ああどうすべきか、何をすればいい。まずい、本当にまずい。思考を巡らすうちに、全身の血液が首元まで絞られたようで、顔が火照る。耳が熱い。息も上がってきた。頭が回らない。
「まあ、あの。」
どこからか声が発せられた。ん?何?こいつが喋った?誰に対して?俺に?いやそれしかないか。あれ、何て言った?
「ここ使っても良い、かな。私も。」
答えてくれた。別に問題は無いけれどもさ。てかあれ、俺への疑問じゃないのか?屋上の使用許可?このタイミングで?一体何なんだこいつは。少し、話を、する必要があるな。だがその前に、できるだけ顔と耳の赤みを抑えられるよう、細かく呼吸を整えて、顔を作ってからゆっくりと振り返る。
「ぃい、けど。」
声が裏返った。悔しい恥ずかしい。この返事を聞くや否や、こいつ、彼女は何事も無かったかのように、少し離れたところで腰を下ろして柵にもたれかかり、持参した本を読み始めた。そして、静寂が訪れる。彼女の目線はまっすぐに本に向けられている。まるで俺などいないかのように。信じられない。まさか俺が見えてないとかあるか?まさか、そんなわけあるか。軽く頭を振り、まだ熱暴走気味の脳内に鞭打って、沈黙を破るように問いかける。
「ぁ、あの…。」
無反応。目線は本から動かない。思ったより声が出てないようだ。
んん、うん
咳払いし、改めて勇気を出す。
「お、おーい。」
顔がこっちを向いた。再び目が合う。大きくて丸い目。その顔立ちは、SNSで取り上げられがちな猫の顔を連想させる。可愛い系の顔だな。
「はい。」
端的な返事が来た。あ、どうする、何から聞く?勇気を出したものの、いざとなるとたじろいでしまうのはどうしようもないことだろうか。一瞬で質問リストを整理する。色々と聞きたいことはあるが、まずはこれ、か。
「疑問に思わないのか?」
少し濁した感じで問いかけた。彼女は多分見たはずだ。俺の柵越えを。それにも関わらず、静観に徹することができた理由をまずは知りたい。
「疑問、とは?」
ん?濁し過ぎたのか、彼女は素っ頓狂な顔を向けてきた。むぅ、察してもらうにしろもう少し言葉が必要だったか。
「ほら、さっきの…あれだ、あれ。」
「ああ、そういう。」
伝わった。やっぱ見たんじゃん。視線を本からこちらに向け、続ける。
「うん、驚きはしたかな。」
それはそう。
「でも、問いただす気にはならないな。君には君の事情があるんだろう。私はそれを知らない。それなのに、君の奇々怪々摩訶不思議厚顔無恥な行為を咎めるような発言をするのは、あまりに無責任だと思う。だから特に触れなかった。」
言いすぎだろ。奇々怪々なんとやらって、馬鹿にしてんのか。いや、馬鹿にされても仕方ないのか、あんなことしたら。
「まぁとにかく、君は君として、私は私でここを使いたかったから、一応断りを入れた上で気にせず使うことにした、というわけで。あえて触れて欲しいというのであれば、見事なアクロバティックだったよ。ただ、私には関係無いけれど。」
変人だ。言っていることは分かるが、やはりおかしい。いくら無関係だからといって、普通の人間なら完全無視なんてできやしない。世界は広い。いるはいるもんだな、こういう人間が。
少しずつ緊張が解けていく。とりあえず、教師に即刻告げ口するような人間ではないらしい、一安心。しかも変人ときた。あまり遠慮する必要もないかもしれんな。
「なるほど、分かった。優しいんだな。」
「まあ、それなりには。」
「そうか。」
謙虚さもないのか。ますます変だ。
「何年だ?」
次の質問。一応身元を確認しておきたい。このまま教室に戻っても良かったが、目撃されてしまった以上、今後何があるか分からんからな。
「二年だけれど。」
「同じか。」
面食らった。同学年だったとは。顔に覚えが無い。他人に興味がなさすぎる自分のせいだが。
「何組?」
「一組。」
「ということは、理系か。」
「そう。」
うちの学校では二年生から文理でクラスが分かれる。奇数の組が理系で、偶数が文系。一から五までの五組がある。理系が一クラス多い。
俺も身分を明かすか。礼儀として。
「俺は文系で、四組。」
「知ってる。橘君、だよね。」
おや?意外だった。自分が知らない女子に認知されているとは。ちょっと良い気になって鼻の穴が広がる。
あと俺の名前初出か。橘 斎聖(たちばな いつせ)。下の名前が初見では読みづらいし画数が多いから気に入らない。ついでだからプロフィールも紹介しておこう。どこかしらの高校の二年生。学校は共学で、一学年百六十人ほど。電車が一時間に一本程度の田舎に位置する、自称進学校レベル。実家住まいで、徒歩と電車合わせて四十分くらいの通学路。四人家族で、両親と兄と俺。兄は社会人なので、実家を出て一人暮らししている。あんまり会っていない。両親は共働きなので、昔から家に帰っても誰もいない。いわゆる鍵っ子だ。まあ冒頭から分かる通り、俺は協調性が無く一人でいるのが苦にならないタイプなので、一人の時間が多くても問題無くここまですくすくと育ってきた。それでは本筋に戻ろう。
俺の名前を既に知っているのか。嬉しくはあるが、
「何で知ってる?」
「有名だから、頭が良いって。毎回テストでは文系で一番か二番なんだろう?」
やはりそういう感じか。決して自慢ではないが、勉強を不得手だと思ったことはない。必要な知識を付け、問題文の意味を理解し、その上で自分が分かる範囲のことを書き出せばいい。分からないものは諦める。それだけのことだ。それだけのことなのだが、羨望を集めるくらいには良い成績を修めているようだ。決して自慢ではないのだが。うん、知らない相手にも自分の長所が認知されて広がっている事実は、悪い気がしない。褒められ慣れしてないからか、少し照れくさいまである。冷めてきた顔の熱が再燃しそうだ。
「それと、変な人ということでも有名だよ。無愛想だし、目つきが悪い。体格が良いのもあって、特に人相が悪く見えるんだってさ。その上、たまに授業はさぼるし、部活にも入ってないみたいだから、話しかけづらい。ほぼ不良みたいな印象だから、一部からは怖がられているみたい。総括すると、頭が良いけどガラが悪くて近寄りがたい変人、といったところかな。」
台無しじゃねえか。火照りが冷めるどころか血の気まで引いていったわ。つらい。泣きそう。そりゃ人付き合いは苦手だし、興味が持てないものはやとことん避けてきたよ?でも、よもや変人とは。自覚はあった。あったが、それで有名になっている事実なんて知りたくなかった。せめて勉強ができて良かった。これで勉強の取り柄が無かったら、本当にただの不良じゃねえか。てかお前もサボってるし、変人だろうが。変人に変人って馬鹿にされてんの、おかしくね?腹立たしくね?
「後半は知りたくなかった。」
「そうか、ごめん。」
ごめんじゃないが。また暫しの沈黙が流れる。横でページをめくる音が聞こえる。ゑ、もう読書タイムに入るの?胆力すご。いや、まだ聞きたいことはあるんだが。
「名前、お前の名前は?」
猫みたいな顔がまたこっちを向く。少し警戒しているようにも見える。
「辻村。」
辻村、か。急ぎ脳内データベースで検索をかけてみるが、全くヒットしない。向こうは知ってくれているのに申し訳ないが。
「すまん、知らなかった。初めまして。」
「いや大丈夫、初めまして。」
「よろしく。」
「こちらこそ。」
彼女は辻村某というらしい。同じ二年生の理系クラスで、変人。俺と同様授業をさぼって屋上に来たらしい。それはいかんなぁ。そんな不良少女はよろしくない、親が泣くぞ。
「辻村、授業は?受けないのか?」
「それ、君が言うかね。」
ごもっとも。
「そんな大層な理由は無いよ。単に授業よりこの本の続きの方が気になるから、授業を途中で抜け出してきた、というだけ。人に見つからない静かな場所を探していたんだけどね。」
単に本が読みたかった、か。本好きを拗らせて喋り方まで凝り固まった変人のようだ。
「あぁ、そうかい。」
そう言えば、思い出したように時刻を確認する。おぉっと、もう六限が始まるまで時間が無い。話し込んで時間を費やしてしまっていたが、この授業までサボってしまっては、テストの結果、ひいては自分の人生の幸福度にも関わる。それにこれ以上だらだらと話を続けていても、お互いにメリットが無い。気まずい空気が流れるだけだ。それは幸福とは言えない。
「俺は教室に戻るよ。できればで良いんだが、俺がここにいたことは、」
「言わないよ、もちろん。その必要も無いからね。」
食い気味に答えてくれた。ありがたい。話の分かるやつで良かった、放免してくれた。
これで良い、こいつとはこれで十分だ。辻村に背を向け、ドアノブに手をかける。でも、本当に、か?ちょっと、身体が硬直する。何かこいつには、言っておくことが、ある気がする。もう一度、振り返って辻村を見やる。その視線は本に向いたままだ。
「またここに来るつもりは、あるか?」
つい、言葉が出てしまった。さっさと戻ればいいのに。
「うん、あるよ。居心地は悪くないからね。」
「そうか、なら、こっちに来てくれ。ここの鍵の開け方を教える。」
パタンと本を閉じ、とことこと俺の近くまで身を寄せてきた。んん、近。ええと、どうするんだっけ。一度屋内に入り、ドアを閉める。
「普段ここは鍵がかかってる。けど、鍵穴が緩くて、こうして爪を差し込んで右に回すと開け閉めできる。」
鍵穴に小指の爪を突っ込み、中の突起を押し上げながら強引に右に回す。すると、
カチ
「ほう、そうだったのか。てっきり鍵なんてかかってないものかと。君はなかなか狡猾なんだね。」
「褒める気あるのか無いのかはっきりしてくれ。」
やってみろ、と促す。辻村は中腰になり、見様見真似で爪を突っ込んでガチャガチャやってみる。が、なかなか上手くいかない。
「突起を押し開くように爪を回転させるんだ。案外力込めないと開かないぞ。」
「ああ、なるほど、分かった。」
ギチギチと音を立てながら、
カチン
鍵が開いた。ドアが開く。
「今度からはそうやってドアを開ければ良いから。」
「どうもどうも、ありがとう。」
爪をさすさすしながら感謝を述べられる。コツを掴むまでは爪がボロボロになるだろうな。俺もそうだった。
「お人好しだね、君は。開け方を教えなければ、ここはずっと君だけの秘密基地だったのに。」
その通り、教えなければ、次鍵がかかった後、辻村は屋上に入れなくなっていた。なぜ教えた、か。何でだろうな。
「別に良いよ、もう。」
「ふむふむ、とにかくありがとう。秘密を共有してくれた君に敬意を表して、」
ん、何だ。飲み物でも奢ってくれるのか。
「今後君のことは名前で呼ぶことにしよう。よろしく、橘君。」
がっくし
何だそら。膝が崩れそうになったぞ。てか敬意示さないと名前呼ばねえのかよ、こいつ。
「どうした?もしかして、恥ずかしかったりするのかい。」
舐めんな。どうってことないわ。やっぱこいつずれてんな、価値観的なものが。
「分かった分かった。光栄だ、辻村。」
だったら俺も名前で呼んでやろう、ちゃんとな。辻村はちょっと口角が上がって、そうだろうそうだろうと頷きながら、戻って読書を再開した。
はぁ
また溜息が出た。なんか今日は多いな。
今度こそ教室に戻ろう。じゃあ、と声をかけ踵を返す。
「あ、そうそう、橘君も、私がここに来たことは秘密にしてくれると嬉しいな。」
「はいよ。」
秘密、か。何だかこそばゆいな。ドアを閉め、階段を降りていく。今日はいつもと違う。階段を降りるたび、屋上から一歩一歩離れるたび、心の奥底に違和感を抱く。決して恋心ではない。違うけれど、何か勿体無い気がして。でも、戻ったりはしない。したくない。その違和感を解決するより、六限優先だ。そう言い聞かせて教室に近づいていく。ただ、もしいつか再会することがあったら、もう少し話を続けてみても、いいかもしれないな。久々に、主体的に他人に興味を持つことができた。しかも女子。やるもんだな、俺も。そう思いつつ、教室のドアを開けた。
「まだいるじゃねえか。」
「ああ、橘君じゃないか。おかえり。」
放課後、気になって屋上に戻ってみた。そしたらどっこい。辻村、がさっきと同じ姿勢でまだそこにいた。早すぎる再会。よく見ると、足元にペットボトルが二本転がっている。途中で水分もきちんと補給しつつ、放課後まで読書ボイコットを決め込んだのだ。呆れた。そう思いつつ、ほんの僅かに顔が緩む。
「ずっと本読んでたのか。」
「そう。」
「そんなに面白いのか、それは。」
辻村の手元にある本を指差す。カバーが付いているので表紙が見えず、どういった内容なのか察しがつかない。この変人をここまで夢中にさせる内容、少し気になる。
「ああ、面白いよ。展開が読めず、わくわくさせる。」
「へえ。」
「読んでみるかい?」
お、いいのか?読みかけのページに指を挟んだまま、すっと手が伸びてこちらに本を差し出してくる。
「なら、お言葉に甘えて。」
一体どんなものか、拝見しよう。本を受け取り、指が挟まれていたページを開いてみる。なになに、
…弥治郎は愛液で蒸れた叢を掻き分け、赤く染め上がった陰核を露出させる。それを愛しく撫でるたびに、綾香の腰が跳ね上がり、嬌声が漏れる。一層艶目が増していく肢体を前に、弥治郎の欲情はとめどなく湧き上がり、猛り狂った獣のように、息を荒くし、指を…
バンッ
勢いよく本を閉じた。
「おいおい、他人のものなんだから丁寧に扱っておくれよ。」
そんな言葉は耳に届かない。
風は吹いていない。雲も無く、夕暮れの日差し、その矢面に立っている。暖かな風が頭からつま先まで通り抜ける。改めて今目にした文章を反芻し、意味を理解し、情景を思い浮かべる。うんうん、やはり、その通り。
「ふっざけんじゃ、ねえええぇぇぇ!」
吠えた。無遠慮に。自分の大声で意識も飛びかけた。なぁ、官能小説じゃねえか、これ。しかも古めの。こいつは、もう、どうしようもない。思春期真っ盛り、うら若き青年にはとんだ悪影響を及ぼす代物だった。それをこいつは!平然とした顔で!堂々と読んでやがる!しかもそれを隠そうとせず(カバーはつけているが)、他人に勧めてきやがる!どう考えても普通じゃねえ。本を突き返す。辻村は恨めしそうに受け取ると、
「何かまずかったかい。」
ああ駄目だ。自覚が無い。読書する時間も場所も内容も、全て常識に当てはまっていないのにも関わらず、だ。
「…何でそんなもの読んでる。」
恐る恐る尋ねる。
「そんなものとは失敬だね。私用でこれらの知識が必要だったから、とでもいうべきか。とりあえず、興味があったから、ということにしておこう。」
よくもまぁ、悪びれもせず答えるもんだ。どんな私用だよ。痴女か?
「教室でも読んでるのか。」
すると辻村は眉を顰め、むっとした表情になった。
「いや、さすがに無いよ、もうそれは。もし教室でこんな内容のものを読み続けていたら、同級生と気まずくなる、それくらい分かるだろう。」
知らねえよ。何で怒り口調なんだよ。
「だからTPOをわきまえて、こうして隠れるように読んでいる、というわけだ。」
そう高説する顔はどこか誇らしげだ。憎ったらしい。
「俺の前でもわきまえて欲しかったが。」
「君には遠慮することは無いと判断した。クラスも違うし、ここの居場所をくれた恩もあるしね。それに、」
目がちらっとこっちを向く。何だよ。
「それに、君には些か親近感を抱き始めたところだったから、もしや理解してくれるかも、と思っていたんだが。残念だよ。」
親近感か。俺も感じてたよ、ついさっきまではな。
「すまんな、分かってやれなくて。」
「まぁ橘君の人柄を察するに、他人に言いふらしたりはしないだろう。そこも信用しているんだが、ね。」
若干不満げにそう言う。嫌味か?キッズかよ。ううむ、難しい、人間関係とは、げにまっこと難しい。
「いつもこんな本を読んでるのか?」
「必要な時に必要な本を読んでるんだ。さっき言ったろう。」
知らん、不機嫌になるなよ。
「そうか、まぁ誰かに言ったりはしないから。」
「それはそう。是非ともそうしてくれ。」
全く、気分が悪い。一回頭を冷やそう。
辻村を尻目に、柵にもたれかかって夕暮れの風にあたる。程よく冷たい風は、土と草の薫りを微かに運んでくる。さっきと同じ薫りだが、少し瑞々しい感じがする。良い風だ。自分が世界の一部になったようで、乱れた心が少し落ち着く。鼻から息を吸い込み、同等分口から吐く。辻村は本読みに戻ったようだ。マイペースにも程がある。そういう人間なのか。
「いつまでここにいる気だ?」
「そうだね、区切りがいいところまでだから、あと六、七ページ読んだらかな。」
結構のんびりするんだな。
「明日以降も、ここに来るか?」
何となく、期待を持って尋ねる。
「そうだね、来ると思うよ。教室や図書室よりも落ち着いて読めるし、隣人も些か仰々しいが、まあ悪くはないからね。」
誰のせいだと思ってやがる。まぁいいか。これから何度か会うチャンスがある。
こいつは、この辻村というのは面白い人間だ。辻村を通して自分の人生を見直せば、もう少し満足して生きていけるかもしれない。少なくとも今までよりかは、学校生活が色付くものになるだろう。
「俺がいたら気が散るだろうから、帰るよ。」
今日はもう満腹だ。ここから先は今後に取っておこう。
「気にしなくていいのに。元々ここは君の場所だったんだから。」
「親切だな。いや、課題も、あるから。」
「そうかい。」
辻村は目線を本に戻す。本当に読んでんだな、あれ。しかもただのエッティ本ではなく、古風な官能小説を。そりゃこんなのを日常的に読んでたら言葉遣いも変になるし、常識も歪むわな。ドアを開け、屋上を後にする。ドアを閉め切る前に振り返り、
「じゃあ、また。」
「うん。」
手をふりふりしながら簡素に答えてくれた。可愛いかも。ドアを閉め、階段を降りる。
はぁ
溜息が止まらん。どっと疲れた。今日は物珍しいことが立て続けに起きたせいで、体力を使った。されど得たものもある。玄関から校門まで出たところで、振り返って屋上を見据える。角度的に誰かいるまでは分からない。が、恐らくまだいるのだろう。読書好きの変態が。踵を返し、帰路につく。次にサボれる授業はいつになるか、考えながら歩みを進めた。
同時に、目に焼きついたあの変態的文章を忘れるよう努力した。あぁもう、何が弥治郎だよ鬱陶しい。