死ぬほど美味い炒飯
少しばかり肌寒さを感じるような、やはりそうでもないような今日この頃。
猛烈に炒飯が食べたくなった私はそれを求めて昼休みに会社を抜け出し、その斜向かいにある中華料理屋へと歩を進めていた。ちなみに、そこに行くのは初めてである。
何故ここまで自身が炒飯を求めているのかと言うと、実は正直な所私にも明確な理由はよくわからない。
だが恐らく、昨夜就寝前に炒飯の米はパラパラが良いか、少し粘り気のある方が良いかと考えていたのが今の私に大きな影響を与えていることだけは確かだろう。
店の前にまで辿り着いた私は、炒飯との決戦に備え一先ず店先での一服を決め込んだ。
まあ正直に言えば、そこに灰皿があったからというだけなのだが。
そこで立ち込める食用油の匂いと紫煙が混ざり合うのを鼻腔に感じながら、私は中華料理屋のその姿を、佇まいを舐め廻すように見つめた。
まるで、それまでもが一品の料理であるかのように。
店は宴華(えんげ)という名前であり。
その名は真っ赤な暖簾に刻まれていて。
外壁には少々の苔と黒ずみを蓄え。
そして草臥れた置き看板と、迎えを待つ大量のおしぼりを周囲に侍らせているという。
中華料理屋としては大変に、非常にオーソドックスな見た目をしていた。
もし私が料理の評論家かなにかであり、外観も加点減点の対象とするとして評価するのならば。
どちらかといえばこの部分は減点となるであろう。
まあ良い。
とにかく、煙草をやり終えた私は宴華の暖簾をくぐった。
店内は厨房を除けば、カウンターに横並びの赤い丸椅子が八つと奥に四人掛け程の座敷があるだけとなかなかに小さく。なおかつ、これまた途轍もなくオーソドックスなものであった。
店員は初老の、恐らく店主であろう男性が一名。
それとその娘だろうか、という顔と年頃をした女性の計二名がいた。
この店を回すには最適であり、同時に最低限の人数ではないだろうか。
いらっしゃいませと声を上げた二人に対して、私は自身が一名であることを告げ最も奥にある丸椅子を目指し歩いた。
そこは本来一人で来店する者にとっては特等席で、勝ち取るのは容易ではないはずだが。
今現在客は私のみであるらしく、よって我が歩みを邪魔する者は床のタイルに染み込んだ油だけであった。
「ギトギトだな、掃除はされているようだが。
もう、このくらいになるとどうしようもないんだろうか?」
そう小声で独りごち、油に足を取られそうになりながらも何とか無事に席に腰を下ろすことに成功した私は。
メニューに炒飯が存在していることだけを確認すると、間髪入れずにその大盛りを注文した。
目的は炒飯唯一つなのでむしろ当然である。
それに時間が時間だ、あまり注文に悩みすぎていると……ほらな。
ガラガラ!
突如、正面扉が私が開けた時と全く同じ軌道で、まるで数分前の記憶をなぞるかのようにして。
がらがらという音を伴い開かれるのを見た。
そう。やって来たのは私以外の客だ。
まあ当たり前といえばそうだが。
とにかく、こいつが現れる前に注文できて良かった。
でないと一番乗りで来たのがなんだか勿体無く感じてしまうだろうし、当然ながら炒飯が私の元へとやって来る時間も遅れてしまっていただろうし。
そう思い無意味にも、この時私はどこか得意げになってしまっていた。
背後では先程現れた客である、一人の男が席に向かっているのであろう靴音が聞こえる。
……何だと?背後に靴音だと?
こいつ、どこに向かっているんだ?
私が一人用の席では最奥にあるのだから、それ以上行っても意味はないはずだ。
トイレか?
それかまさか、こいつ座敷に行こうとしているのか?
もしそうなのだとしたら、たしかに今は私とこいつだけだが……でもその、何と言うか、それは少し店に悪いというものではないだろうか?
いやまあ、それに対して店主が何も思わず、言いもしないのであれば、それを非道と呼ぶことはできないが……だがしかし、ならば私だってそっちの方が。
心中に浮かび上がり、舞い踊る疑問、困惑。
そして、予感が的中すればより強くなるであろう、私の中に芽生えた少しばかりの嫉妬。
それらに耐え切れなくなった私はとうとう身を翻し。
突如として現れ私の心を掻き乱した元凶へと両の目を向けた。
すると、そうしたことで私の正面に据えられた男は。
トイレに行くでもなく、座敷に行くでもなく。
何ということだろう。
座敷のすぐ脇にあったウォータークーラーを使い、コップに水を入れていたというだけなのであった。
男はコップに八分程、水を入れると私から二つ離れた丸椅子に腰を下ろした。
今ならばこいつが座敷に行くことは絶対にないと断言できるだろう。丸椅子に根を張るとこの男は決めたのだから。
そして、ここで漸く私は水がセルフサービスであるのを知った。男が過去に、最低でも一度はここで食事をしたことがあるのだろうということも……
だがしかし、この規模、この状況でセルフサービスを貫くというのは恐れ入った。
勿論店側にだ。そこまでしなければならないほど、この店は仕込みやその他諸々の準備なんかが忙しいのだろうか?
まあ良い、何であれそれが店のルールというのならば仕方あるまい。
私は少しばかり店主に文句をいいたいような、そんなような気分になっていたが、そこまでする必要もないし、そんな度胸もまたないので大人しく立ち上がって水を。
できなかった。
何故ならばそれは。
私が『この店の仕組みを理解できていない』と公言するのも同義であるからだ。
確かに従業員二名には既にそんなことは知られているだろう。今更隠す必要もなければ、取り繕う必要すらもないのは私とてわかっている。
だが、この男は別だ。
私はこいつにそれを悟られるのがたまらなく嫌で、そしてたまらなく悔しいのだ。
そう、とても耐えられるものではないのである。
私の心を掻き乱した、この男だけには……
しかし、水無しでいけるだろうか?
それは炒飯を食するには最低でも一口分は欲しいものだと個人的は思っており、しかも数分前煙草に焦がされた私の口内は乾き、いがいがとしている。
「しまったなぁ、煙草を吸うならせめて後にするんだった」
疑問、困惑、嫉妬。
それらの感情が全て消え去り、まっさらとなったはずの私の中には。
今度は『一抹の不安』という名の、これもまた歓迎し難いものが影を落としていた。
だが、そこで私はあることを思い出した。
またそれを大変に喜びもし、口元だけでニヤリと笑みを浮かべた。
浮かべる程の余裕が戻って来たのだ。
思い出したあること。
それによってこの時この瞬間に、不安など影形もなく私の中から全て取り払われたのだから。
よくよく考えてみれば、炒飯というものにはスープがついているのが殆ど常識のようになっていたはずだ。
時には小さく刻まれたねぎが、時には溶き卵が。
そのようなものが入った、定番のあのスープが。
そう、それで喉を潤せばいいのだ。
何故こんなにも当たり前のことに気が付かなかったんだろう。
私は不安を抱えていた、過去の自分を揶揄ってやりたいような、小馬鹿にしてやりたいような、そんなような気分になった。
だが、そんな愚かだった私を、私は許すこととする。
もうなにも心配は要らない。
ならば、そんな状態で争う必要などは一切、全く、これっぽっちもないのだから。いや、あるはずがないのだ。
世界は『何を得るか』ではなく、『何も無い』で平和となるのだな。
……と、些か興奮気味になりつつも。
ここからの私は平穏無事な精神をもって、炒飯を待ち続けられたのである。
しかし。私は絶句することとなった。
五言でも七言でもない。言葉に詰まっているのだ。
店主の手を介し、漸く私の元へとやって来た炒飯。
そこには。
汁気が感じられなかった。
というか、存在していなかった。
あるのは結構な量の焼き飯が一皿、ただそれだけである。
いくら探してもそこにオアシスは見当たらない。
ただひたすらに、一面が焼け野原である。
その上、炒飯は大盛りにしたせいもあるのだろうが、他店より大分多いように思える。
まさか、スープはその代価として蒸発させられてしまったのだろうか?
その圧倒的ボリュームの引き換えとなって……今だけはそんな等価交換はやめて欲しかった。
私の中に再び負の感情が蘇ってくるのを感じる。
いや、いや、もういい。
せっかく食欲のいうがままにここまでやって来たのだ。
もうここまで来たら水無しでやってやろうではないか。
気合いだ。
自棄だ。
南無三だ。
ついでに神にも祈っておこうか。
私は全ての感情を押しのけ、排除し。
蓮華を杖として、目の前に築き上げられた山脈を登り始めた。
ご馳走様でした。
私はそう〝言い残し〟、軽い身のこなしで音もなく外へと飛び出ると勝利の美酒、いや一服と決め込んだ。
結果から言うと、登頂には成功した。
しかも容易にだ。
それもあの炒飯が大変に美味だったからに他ならないだろう。それと、この店のものはかなりパラパラとしていたのも理由としては大きいかもしれない。
登頂の疲れは一切なく、むしろ疲労など吹き飛んでしまったくらいだ。私の〝身体がどうしようもない程に軽い〟のが何よりの証拠である。
勿論、喉の調子も実に穏やかなものだ。
こんなことなら余計な心配などせずにどっしりと構えていれば良かった……そうすれば、あの美味な炒飯をもっともっと堪能できていただろうに……
結局、全てを捨て去った私の中に、〝最期〟に残ったのは。
そんなような後悔だけであった。
いや、よしておこう。
せっかくあれだけの炒飯を味わうことができたのだ。
午後も仕事があるのだから、せめて今くらいは幸せなこの余韻に浸っていようではないか。
……加えて、昼寝すれば気分は最高だな。
うん、実に良い考えだ。
全くもってその通りである。
では早速、そうするために会社に戻るとしよう。
幸福に包まれた私は足が踊り、スキップしそうになるのをどうにか抑えながら信号を待ち、青になった所で会社へと向けて歩き出した。
その時まるで先の地面が、アスファルトが。
河面のように輝いて見えたような気がする。
これも炒飯のお陰だろうか?
いや、きっとそうなのだろう。
「ええ、ええ。はい……
はい、救急車を一台。
すぐにお願いします。
お客さんが一人。
どうやら、炒飯を喉に詰まらせてしまったみたいなんです」