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第二話

 一体何がきっかけなのか、涼佑にはよく分からない。だが、樺倉望にはきっとそう見えたのだろう。
 八月も後少しで終わろうという頃、放課後に涼佑は空き教室に呼び出された。今時珍しく、机の中に入れられていた手紙で指定された教室に入ると、そこには一人の女生徒が待っていた。
 その女生徒こそが問題の女、樺倉望だったのだ。顎までの短い髪に、押しに弱そうな光を宿した目、いつも自信無さげに手をもじもじさせている様は、時折周囲から憐れみを向けられるだろうな、と涼佑は思った。一見、大人しそうな樺倉望をこの時まで、涼佑は全く知らなかった。隣のクラスにいたらしいが、行事でも学校生活でも、話したことはおろか、顔すら覚えが無かった。おどおどした態度と俯きがちな姿勢は、普段からあまり目立たないタイプの女生徒だろうと簡単に予想できる。その小動物のような雰囲気に、涼佑は騙されたのだと主張する。

「最初は嬉しいってより、戸惑いの方が大きくて……今まで他人にそういう興味って、持ったことが無かったから」
「今時、珍しいな。――あ、いや、そうでもないか。最近はそういうことに興味が出てこない人間もいるらしいからな」

 確か、アセクシャルとかノンセクシャルとか何とかと言う巫女に、涼佑は少々困ったような顔をした。おそらく、まだ自分が『そう』なのかどうか実感が湧かず、決められないのだろう。自分の性自認は置いておいて、彼は続けた。

「一瞬、これを良い機会として、女の子と付き合ってみるのも良いのかなって思ったん――です、けど。でも……」
「付き合わなかった、と。というか、涼佑。自分の話しやすい言葉で良いぞ」

「私は特に気にしない」と言う巫女に、涼佑は了承の意味で頷き、「あ、じゃあ……」とそのまま告げる。それまで正座していた足も崩していいと言われ、涼佑は素直に座布団の上で胡座をかく。

「……うん。そんな適当な気持ちで付き合おうとしている自分が嫌で、相手にも失礼だしと思って、断ったんだ。それからだよ、あの女に付き纏われるようになったのは」

 告白を断った時、望はひどく傷付いたような顔をしていた。彼女との別れ際にそれを見て、些か心を痛めた涼佑は家に帰ってからも、果たして本当に断って良かったのかとずっと悩んでいたらしい。だが、彼一人が悩んでみたところで、既に結果は出してしまっているのだ。今更、自分が考えることも無いだろうと、半ば諦めてその夜は眠った。それに、望ももう諦めただろうという勝手な推測を持っていた。
 手にしたお茶を一口飲み、お茶と一緒にちゃぶ台に置かれたおかきを一つ取って半分食べたところで、巫女は質問を投げかける。涼佑も彼女に倣って、出されたお茶を少し飲んだ。

「その時点で誰かに相談してみたりしたか?」
「いや、だって、こんなことで他人に迷惑をかける訳にもいかなかったし、こんなことになるとも思ってなかったし……してないよ」
「――そうか。それで?」

 それからすぐに、八野坂町は近年稀にみる大型台風に見舞われた。以前から予報でこちらに来るとは分かっていたので、涼佑が通う八野坂高校も学校前の七津川が氾濫するかもしれないとして急遽、休校となった。学校が休みなので、この日は望に会っていない。幸い大型台風の足は速く、一晩で通り過ぎて行ってくれたので、大きな被害を被ることは殆ど無かったが、涼佑達の学校では犠牲者が出てしまった。
 台風の話になると、それまで神妙な顔をして聞いていた巫女は、ぱっと表情が華やぐ。共通の話題を見つけた時の笑みだった。

「あの時の台風か。あれは凄かったなぁ、童子」
「ええ。しかし、幸い死者は出なかったと記憶しているが……」
「それが一人、いたんだ。樺倉望が……川で発見されたって」

 上げられた遺体は水草や泥で所々汚れていたが、それより奇妙なのは、首に縦に裂かれたヒバカリという蛇の死骸が絡まっていたことだった。薄緑がかった茶色の蛇で、滅多に人を噛まない大人しい性格の無毒な蛇だ。それを頭だけを残して縦方向へ三つに裂いた後、簡単に解けないよう、しっかりと結んでいたようで、発見された当時、死骸には縛った時に付いた癖が残っていたらしい。大人達の噂話からそう聞いた時、涼佑は何とも不気味なものを感じたという。望の死因は事故死として片付けられたが、その日以降、涼佑の周りで妙なことが続いた。
 学校にいるとふとした瞬間、どこからか誰かの視線を感じるようになった。何だろうと思ってそちらを見ると――

「『いる』んだ。そこに……あいつが。樺倉望が」

『それ』は最初、真っ黒い影のように見えた。まるで生気の無い目を見開いたまま、頭から水を被ったような、全身ずぶ濡れで涼佑をいつまでも見つめているのだ。
 最初は気にしないようにした。気のせいだ、疲れてるんだ、幻覚だ。しかし、日を追うごとに『それ』は涼佑との距離を徐々に徐々に詰めていく。最初は帰りがけ、学校のベランダからグラウンドにいる涼佑を見つめていた。次の日は教室にいる時、引き戸越しの廊下から。その次の日は、階段を上がろうとしたその先に。そして、また次の日にはとうとう……。

「家に来た」

 夜、何となく気配を感じて、その正体を確かめようと自室のカーテンを開けた時、窓を隔てているとはいえ、『それ』は間近で涼佑をじっと見つめていた。悲鳴を上げ、腰を抜かしても微動だにしないで、ずっと涼佑を見つめ続ける『それ』を、涼佑はどうしていいか分からなかった。ただただ存在が恐ろしくて仕方がない。どうにかして欲しい。一体、自分が何をしたというのか。彼は『それ』に付き纏われている理由すら知らないのだ。
 この辺りの話になると、それまで興味深そうに聞いていた巫女の表情が神妙なものに変わった。傍らに座している鬼も険しい顔をしている。そんな二人の反応に、涼佑は不安を煽られた。

「……やっぱり、オレ、ヤバいのかな?」
「いや……続けてくれ。まだ分からん」
「まだってなに……!?」
「主人。――まぁ、その、なんだ。まだその妖の正体が分からん、という意味だ」
「あ、ああ。そういうことか」

 思ったことを何でもそのまま口から発してしまう主人の発言を窘めつつ、鬼は上手く誤魔化して先を促した。ここまで緊張と恐怖からやや早口になっていた涼佑は、落ち着く為にもう一口お茶を飲む。

「その時点で友達に話はしないのか?」
「そんな体験しちゃったら、もうするしかないよ。それで、次の日になってから学校で直樹……友達に相談したんだ。そしたら、ここのことを教えてくれて……」

 だが、その時には既に遅かった。影はとうとう涼佑に追いついてしまった。直樹から『幽霊巫女の噂』を聞いた涼佑は、放課後に試してみようと思っていたが、それより早く影の手が彼に迫った。影は涼佑を殺そうとあらゆる紐状の物を従えて襲って来た。学校の中で襲われ、そこから何もかも投げ出して、自分の命を守ろうと八野坂神社まで逃げ延びたが、捕まってしまったのだった。

「そこからは巫女さんに出会った通りで」
「ふむ……確かにその樺倉望とやらはお前の体内に入ってきたのか?」
「うん。あんなに心臓が熱くて痛かったことって無いし」

 今でもあの影がぬるりと口を通った感覚がするような気がして、涼佑はぶるりと震えて無意識に口元を袖で拭った。巫女は真剣な面持ちで涼佑をじっと見ていたかと思うと、徐に立ち上がった。

「お前の話は分かった。取り敢えず、涼佑。脱げ」
「…………はっ!? な、なんでっ!!?」

 思わずシャツの上から胸の辺りを腕で隠し、少し後退る涼佑に、巫女は呆れた顔を向けた。

「誰が男の裸になんぞ興味あるか。胸だよ、胸。痛んだところを見せろって言ってるんだ」
「――ああ、そういう……」
「私だって、どうせ見るなら童子のを見るわ」
「主人、せくはらというやつはお止め下さい」

 ブレザーを脱いだ涼佑がそっとシャツの釦を外し、前を開ける。「中のシャツも上げろ」と巫女に言われながら、がばりとシャツを捲り上げられ、「そっ、そんないきなり……!?」と慌てるも、シャツの隙間から見えた自分の体に涼佑はぎょっとした。

「な、なんだよこれ!?」

 彼の心臓の辺りには黒紫色の痣ができていた。大きさはどこかにぶつけたのかと思うくらい小さいもので、くすんだ汚れのような痣はよくよく見ると、カタツムリの歩みのようにゆっくりとじわじわ広がっている――ように見える。巫女が手で直接そこに触れると、少し冷たかったのか、「うひぃっ」と涼佑の口から情けない声が漏れた。

「…………中途半端な呪いだな」
「んえっ!? の、呪い!?」
「正式な手順を踏まずに、自身が呪いに変じたのか。――涼佑。はっきり言ってこれは現状、祓うのは難しい」

 難しいと聞いて、涼佑は不安げに巫女を見る。少しさわさわと撫でてから巫女はシャツを元に戻し、涼佑とまた向かい合わせに座った。そのまま何やら思案を始めてしまった巫女に、涼佑はおそるおそる口を開く。

「オレ、本当に今、どういう状態なんだ?」

 一瞬「死ぬのか?」と訊こうとした彼だが、自分が既に死んでいたことを思い出して益々、訳が分からなくなる。今この時、正しく死んでいるならば、どうしてここに存在していられるのだろうかと。涼佑の問いに難しい顔をしたまま、たっぷりとした沈黙を貫いた後、巫女は口を開いた。

「さっきも言ったが、お前は死んでいるとも言えるが、同時に生きているとも言える。要するに、臨死体験をしているようなものなんだが……」

 そこで巫女は涼佑を見つめ、興味深そうな目つきをしながら「それにしても、本当に興味深い存在だな。お前は」とそのまま口にした。その発言にまた「主人」と鬼の叱咤が飛び、「はいはい」と巫女は両手を挙げて降参のポーズを取った。なかなか自分のことを教えてくれない巫女に、内心で苛立ちを覚え始めたが、顔には出さないようにして涼佑は続きを促す。

「臨死体験、っていうのはどういう?」
「ほら、よくあるだろ? 仰天なんたらっていう番組。再現ドラマとかで手術中に三途の川を見たとか、死んだ親に会ったとか。今のお前はああいう状態に近い」
「死にそうになってるってこと!?」
「しかし、今の状態の面白いところはな。普通の臨死体験ってのは、肉体から魂が一時的に半分抜け出ている状態のことを言うんだが、今のお前は肉体と魂両方、ちゃんと収まるべきところに収まっているのに、臨死状態に陥っているところだ。私も長年、幽霊巫女をやってるが、こんな事例は見たことが無い」

 そう聞いても、涼佑にはよく分からない。困惑した顔で首を捻ると、どう説明したものかと言いたげに巫女は少々言葉に窮したが、考え考え言葉を続ける。

「小難しい言い方をしたが、簡単に説明するとな、涼佑。その身に宿した中途半端な呪いのせいで、お前は生きている身で『こちら側(彼岸)』に足を踏み入れ、戻れない状態って訳だ」
「いや、それじゃあ、オレは……へっ!? も、戻れないっ!?」
「ああ、今はな」
「なんでぇ!?」

 困惑しきりで、ついには混乱し始めた涼佑を「どうどう」と宥めて、巫女は一つ一つ丁寧に説明を始める。

「正確には戻れない訳じゃない。戻れない訳じゃないが、そのまま現世に戻れば、確実にお前はすぐに死ぬ。今度こそ完全に死ぬ。その中途半端な呪いを解かない限りな」

 自分の胸の辺りを指し示す巫女につられて、涼佑も思わず自分の胸を摩る。それ以上、シャツを脱いでいる状態に不安を感じて、制服のシャツを着直した。涼佑は未だ実感が伴わないまま、茫然と訊く。

「これ、何なの……?」
「本来、呪いとは正しい手順と材料を用いて相手に掛けるものだが、それとは違って、今回お前に掛けられたものは衝動的に強い『思い』をお前自身に直接打ち込んだものだ。普通の人間にできたとは正直、到底思えないし、思いたくないがな。己を人間という枠から大きく外し、ただただ最期に募らせた恨みと縁を辿って、お前を道連れにしようと樺倉望の魂は『妖怪』にまで変質したが、それより早くお前はここに来た。ここでは体の成長という概念は無い。あの世とこの世の狭間にあるからな。だから、涼佑。一歩でもこの神社から生者のまま外に出た瞬間、お前は全身を呪いに食い尽くされて跡形も無くなるぞ」

「さっきは簡潔に『死ぬ』と言ったが、実際は死ぬということすら、生温い『存在の消滅』に繋がる」という無情な巫女の宣告に、頭がパンク寸前の涼佑は、そのままの体勢で再びゆっくりと気絶した。

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