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誰かいる

布団に入って既に30分が経過した。
元々寝つきの悪い人間ではあるのだが、ここ最近は特に酷い。

原因はなんとなく分かっている。
環境が大きく変わったことによるストレスだろう。

4月から私は実家を出て一人暮らしを始めた。
新しい環境というのはどうしても心身に負担がかかる。

しかし疲れている時に限ってグッスリと眠ることは難しいものだ。

この日も私は疲れ果てているというのに、目が冴えてしまって全然眠りにつけなかった。


……。
どのくらい時間が経っただろうか。

意識はまだしっかりしていたが、体の方が限界を迎え、いい加減意識を失いそうになった時、ふと気づいた。
音が聞こえない。

私の住んでいるこのボロアパートは、隙間風によって窓がガタガタと音を立てたり、体を少し動かす度に床が軋んだりして常になにかしら音が聞こえてくるのが普通だ。

それが今はまったくの無音になってしまった。
耳がどうかしてしまったのかと思い、手で触れようとしてもう一つ不可解なことに気がついた。
体が動かせない。

呼吸すら制御できなくなっている。
そしてその呼吸は徐々に浅く、遅くなっているようだ。

私は段々息苦しさを感じ始めて必死に肺を膨らませようとしたが、体は言うことを聞かない。

ついに呼吸がほとんど止まりかけた時、部屋の中に気配を感じた。

奇妙なことに目を開けていなくても、はっきりと存在を認識できる。

誰かいる。

そしてそれは間違いなく私のこと見ている。
不思議とそんな確信があった。

その存在に気がついた瞬間、呼吸が止まりかけていることを忘れるほどの不安が私を襲った。

それが近づいてくる気配を察した時には叫び声を上げそうになった。
しかし、やはり体が動かない。
声は出なかった。

だが結果的にはそれで良かったのかもしれない。

私はその時、場違いにもこのアパートの大家に聞いた話を思い出していた。

曰く、このアパートでもし深夜に何かが近くにいる気配を感じた時は、絶対に寝ていなければならないらしい。

起きていたらどうなるんですかと質問すると、大家は何も答えなかった。

その代わりに、なるべく夜更かしするなということと、気配を感じた時には起きていることが絶対にバレてはいけないということを念押しされた。

その話を聞いた時は気にも留めていなかったが、あれはこのことだったのだろう。

私は身動きが取れないことも忘れて、体が少しでも動かないように気をつけた。

気配はゆっくりと近づいてきて、ついには目の前にまで迫った。
私の顔を覗き込んでいる。

突如、無音になった私の世界に蛇の舌なめずりのような不快な声だけが鮮明に響き渡った。

意味不明な言葉を喚くように話している。
内容は分からなかったが、どこか楽しげで小馬鹿にしているような口調だった。

その時、今までピクリとも動かせなかった瞼が動き始めた。

私の意志に反してゆっくりと開こうとしている。
止めることはできない。
緊張で口の中がカラカラに乾いて喉が痛かった。

薄く開いた瞼から私を覗き込んでいたものの姿が見えた。

それは人体の構造では絶対にあり得ない角度、顎が斜め上を向くほど首を傾げながら、縦長の瞳孔をこちらに向けていた。
口元には歪んだ笑みを浮かべている。

「寝てるのか?」

私をじっと見つめながら訊いてきた。
幸いなことにまだ私が起きていることには気がついていないようだ。

しばらくそのままの体勢だったが、やがて口元に浮かべた笑みを引っ込めながらそれは私の顔を覗き込むのを止めた。
そして今度は私の耳元で囁いた。

「寝てるのか?」

私は何も言わない。
その時、それは私の喉元に触れてきた。
気味が悪いほど冷たかった。

私はその時、息ができないことを思い出した。
今や私の呼吸は完全に止まっている。

苦しさから顔を歪めているつもりだが、実際私の顔はピクリとも動いていないようだ。
私が起きていることに気づく様子はない。

突然、それは狂ったように高らかに笑いだした。
そして氷のように冷たい手で私の首を掴んだ。
少しずつ力が加えられる。

それは私の首を絞めながら楽しそうに言った。
「知ってるか? にんげんは寝ている時、ダエキのぶんぴつ量が少なくなる。だから寝ているにんげんはつばを飲み込まない」

私はそれを聞いた途端に、今までは緊張と恐怖でカラカラに乾いていた口の中が急速に湿っていくのを感じた。

そしてそれが私の首から手を離した瞬間、私の体は勝手にゴクリと唾を飲み込んだ。

耳元で声が聞こえる。

「起きてるだろ、オマエ」

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