9.「(もう一度会いたいなぁ……)」
エリムはガタガタと揺れる馬車の中で、ぼんやり窓の外を見つめていた。
天気は快晴。雲一つない美しい青空が広がっている。
街並みはレンガ造りの建築物が並んでおり、綺麗に整備されたその街は彼にはとても珍しい光景に映った。
なにせエリムはこの世界に生まれ落ちてから城の居住区の外に出た事がほぼなく、こうして馬車に乗るのも初めての経験である。
……無論、彼には前世の記憶があるので前の世界での外の景色は知っていたのだが、この世界は彼にとって異世界である。
街並み一つとっても、前世の記憶にある地球とは全く違うのだ。そんなこんなで初めて見る風景に、彼は柄にもなく心を踊らせていた。
「まだ着かないのかな?」
誰に言う訳でもなし、しかし独り言で呟くには些か大きく聞こえる声量で、エリムは疑問を声に出す。
この馬車に乗っているのは自分一人だけだ。寂しさと虚しさがエリムの心を支配する。
しかし、それももう少しの辛抱だろう。何故ならエリムは……買われたのだから。
「……」
『1000億』
ふと、エリムの頭に昨晩オークションの会場で見た彼女の姿と声が
凛々しくも儚い雰囲気を醸し出す、白銀の令嬢。触れると溶けてしまいそうな可憐な氷細工の女性。
エリムは彼女を見た時から、不思議と目を奪われた。
一体、彼女はどんな存在なのか? 自分が彼女に買われた理由とは何か? どうして自分を買おうとしているのか? 1000億という莫大な金をかけてまで手に入れたいものなのか? あの美しくも儚い令嬢のことを考えるだけで、エリムの心は高鳴っていった。
その金額の価値こそ分からないものの。それがとてつもない金額というのはエリムにも理解出来ていたし、あの女性が尋常ならざる存在であることも察せられた。
「……なんだろう? この感じ」
高揚感か、それとも期待感か。彼女に買われた事に対する不安や緊張よりも、昨晩から感じるこの胸の高鳴りの方が強く彼を支配している。
しかしそれは決して不快なものではなく、むしろ心地よいものであった。
まるで……初恋の時のような胸のときめき。
その感情が意味する感情がなんにせよ。エリムは彼女のことをもっと知りたい。そう思わずにはいられなかった。
そうしてエリムを乗せた馬車は順調に進み続け、やがて貴族街への入り口である検問所へと到着する。
エリムは窓からちらりと外を見て、その仰々しい門の様子に驚愕する。
天を穿つような巨大な門の前に物々しい武装を携えた兵士たちが隊列を組んで、検問所で検査をしている。
なんだここは?まるで戦争でも始まるかのような厳戒態勢だ。
そんなエリムの心配を他所に、馬車はそのまま検問所へと進む。すると検問所の兵士達が、エリムの乗る馬車に気付き近付いてきた。
「お止まり下さい。許可証及び身分証、所属国家と家名の申告を」
エリムはその兵士達を見て、なんだか奇妙な感覚に陥った。
兵士達の言っている言葉がおかしいのではない、その外見……もっと言うと性別である。
ーーー兵士は皆、女性であった。
エリムの感覚からすると兵士のような荒々しい職業というのは主に男性が行うもので、女性が行うというのはあまり聞いた事がない。
勿論エリムが知らないだけで彼の前世の世界では女性の兵士も少なからず存在する。しかしその比率が完全に逆転しているのがこの世界の奇妙なところなのだ。
凛々しく、そして猛々しい女性の兵士達。不思議に思いながらも、ここはこういう世界なんだと納得するしかない。
エリムがそんな事を思いながらもポケーっと窓から様子を見ていると、馬車の護衛の人物だろうか?全身甲冑に身を包んだ騎士が兵士達に対面し、声を上げる。
「オルゼオン帝国ノーヴァ公の御荷物である。許可証、身分証はここに。ステージ1の機密荷物故、検査は2名までとさせて頂きたい」
黄金に煌めく全身鎧に身を包んだ騎士がそう言った。
検問される側だというのに、このような要請が出来るのは公爵家という身分のお陰もあるが、この騎士の存在が大きかった。
エリムの乗る馬車を護衛しているのはラインフィル自治勢力(支配勢力とはまた別)が擁する騎士団の一員で、金色に輝く荘厳な鎧を纏うのは最上級の騎士の証である。
騎士の存在こそがこの馬車の身元を証明するには十分すぎる程のものなのである。
オルゼオン帝国、ノーヴァ公、そしてこの黄金の騎士の存在を目の前にした兵士達はたじろいだ。
しかもステージ1の機密荷物という事からこの馬車の中にはとんでもない荷物……あるいは人物が乗っているに違いないと予想する。
「……許可証、身分証拝見いたしました。で、では御荷物の検査の方に入らさせて頂きます……」
兵士達とてあまり厄介事には首を突っ込みたくないのだが、これも仕事だ。
帝国の公爵という最高位の身分の馬車だ。粗相をして機嫌を損ねるわけにはいかないと兵士達は重い足取りで検査の準備を始める。
騎士の言う通りに、2名の兵士がおずおずと馬車の扉に手を掛けた。
ガチャリ、と扉が開かれる音にエリムは身体を硬直させる。まさかここで自分の姿を見られるとは思ってもいなかったからだ。
「(ど、どうしよう……)」
なにがどうしようなのか分からないが、エリムは何故だか挙動不審になってしまった。
冷静に考えると彼は別に悪い事もしてないし、ただ普通にしていればいいだけの話なのだが混乱したエリムはそれに気付かない。
「失礼致します……」
その内に兵士の声が聞こえ、馬車の扉が開かれる。
そして馬車の扉が開かれて、二人の兵士は馬車の中の存在を目撃し、そして言葉を失った。
「……」
馬車に鎮座していたのは、まさしく美の化身とも言える可憐なエルフであった。
金色の髪が靡き、透き通るような碧眼が二人の兵士を見つめる。
身体つきは細く華奢で、煌びやかな貴人が着るような衣服に身を包んだエルフの青年。
まるで絵画の中から飛び出してきたかのような非現実的な美しさに、二人の兵士は見惚れて言葉を失った。
──なんという美しいエルフなのだろう。
──この美しさ、神が造った芸術品に違いない。
2人の兵士は馬車の中に佇む美青年の姿に見惚れながら、ただそんな感想を抱いていた。
更に彼女達の心を鷲掴みにしたのは、その青年……エリムが彼女達に向かってエリムに微笑んだ事だ。
「!」
見目麗しい天上の天使が、微笑んだ。
普通の男ならば女が視界に入るだけで嫌な顔をするだろうが、あろうことに目の前の青年は微笑みを返してきた。
この世界ではあってはならぬその出来事に、彼女達の思考は真っ白になる。
「あっ……」
何も言えず、ただエリムを見つめる事しか出来ない二人の兵士。
彼女達は今、人間という種族が定めた価値観の中で最上の位にいるエルフの美に思考を奪われていた。
……しかしエリムには彼女達を見惚れさせる意図などなく、ただ緊張から笑みを浮かべてしまっただけであった。
エリム視点ではニチャア……と口角が不気味に吊り上がっただけである。
ただそんな笑みでも彼女達からすれば、今までのどんな男よりも心を奪われる程の魅力があったのは言うまでもない事である。
そんな二人の兵士の様子を不思議に思いながらも、エリムは首を傾げながらただ時が過ぎるのを待つ。
しかし、不意に兵士の一人が手を伸ばしてきた。それは意識して行われたものではなく、この世界の女の本能が彼女にそうさせたのだ。
そしてそれはもう一人も同じであったようで、気付いた時には彼女達は手を伸ばし、エリムに近付こうとしていた。
その時である。
「検査はもう十分であろう」
黄金の騎士が二人の手を制止し、そう言った。
ハッと我に返る二人の兵士。彼女達は慌てて身を引き、そしてエリムに一礼したかと思うと馬車からそそくさと離れていった。
「……??」
なんだったんだろう、今のは。なんか手をこちらに伸ばしてきたような……?もしかして握手がしたかったのだろうか?
そんな暢気な事を思い浮かべるエリムであったが、彼は今貞操の危機にあった事に気付いていなかった。
エリムの容姿は彼自身が思うより遥かに優れている。そんなエリムの美貌にやられて彼女達は無意識に動いてしまったのだが、もし護衛の騎士がいなかったら彼は女性達に無理矢理手籠めにされていただろう。
「……」
黄金の鎧を着た騎士はエリムを一瞥するとそのまま馬車の扉を閉めてしまった。
再び馬車という狭い空間に閉じ込められるエリムだったが、彼はそんな事など気にする事なく先程の兵士達の姿を思い出していた。
「どうでもいいけどあの2人のお姉さん……美人だったな」
本当にどうでもいいエリムの呟きが馬車に響いた。
♢ ♢ ♢
「……」
「隊長、あのエル……あ、いや荷物すごかったですね」
エリムを乗せた馬車が門を通った後、馬車の中を検めた2人の兵士は恍惚の表情を浮かべそんな話をしていた。
まさかあんな至上の美がこの世に存在していただなんて……。彼女達は心ここに在らずと惚けた顔で言葉を交わす。
「あぁ、あんな美しいものが存在するだなんてな……」
未だに目に焼き付いて離れないエリムの姿。普通に生きていたら目にする事はなかっただろうその美貌に彼女達は心奪われた。
それと同時に隊長の女性は自分がしでかしてしまった事を思い出し、血の気が引く。
「しかし危なかったな。あのまま彼に手を伸ばしていたら、我々はどうなっていた事か」
隊長の言葉に部下の女性は首を傾げる。
はて、なにが危なかったのだろうか。確かに自分達は天上の美を前にして理性を失い、エルフの青年に手を伸ばそうとした。
それが何故、危険なのだろうか?疑問の表情を浮かふべる部下の兵士だったが、その疑問に答えるように隊長は語り出した。
「あの黄金騎士はこのラインフィルで唯一、殺傷行為を認められている者達だ。我々があのまま彼に不敬を働いていたら、間違いなく斬首されていただろう」
「えっ……」
思わず閉口する部下。困惑する彼女を横目に隊長は言葉を続けた。
「しかもあの馬車と青年は帝国公爵家の所有物……。そんな御方達の荷物に触れてなにか粗相があったりしてみろ。我々は一族郎党根絶やしにされるぞ」
「ひぇ……」
オルゼオン帝国の名はこのラインフィルでも知らぬ者はいない。
大陸の覇を競うオルゼオン帝国とヴィンフェリア王国の両国は、中立の場のラインフィルの地であってもその存在感は他国を圧倒している。
その帝国の公爵家の所有物に手を出したとなれば、その者達がどんな罰を受けるかなど想像に容易い。
「はぁ、貴族様はいいですね。あんな美青年を侍らせれるんたから」
部下の兵士は溜め息を吐きながらそんな事を言った。その様子に隊長は呆れたような表情を浮かべ答える。
「お貴族様でも彼のような美貌の男性を側に置く事が出来るのはそう多くないだろうさ。さ、愚痴言ってないで仕事に戻ろう」
「はいはい、了解です」
隊長の言葉に部下の兵士は気怠そうに返事をした。
しかし、彼女の中では先程見たエルフの青年の姿がまだ残っており、未だに心を捕まれていた。
──あの美しいエルフは、一体何者なのだろう?
オルゼオン帝国の公爵とどういう関係なのだろうか?
そんな考えがぐるぐると巡り、彼女の中で彼の存在は大きくなっていく。
「(もう一度会いたいなぁ……)」
そんな叶わない願いを心の中で呟きながら、部下の女性は晴天の空を見上げたのだった。