隈、そして発破をかける
ライゼ村へ出発する朝を迎えた。迎えてしまった。こうして律儀に毎日毎日飽きることなく昇る朝日の爪の垢を……。
割愛
ただの朝日が烈日のように眼球を疼かせる。思考に靄が掛かったように世界が判然としない。脳が頭蓋骨の中で縦横無尽に回転して、中の水を掻き混ぜ泡立てている。
脳の皺は混ざるギモーヴのマーブル模様に似ているなとか、普段は如何して脳を固定しているのだろうかと想像思索に耽る内に、段々と意識が明瞭になってきた。
体を起こし、すぐ傍の化粧台に首を回すと、瞼の下に落ち窪んだような青い隈が横たわっている。昨夜の、静謐を彩り彼女を世界から浮かび上がらせた月の青とは異なる、いわば沈降の青だ。
しかしながら、なかなかどうして俺はこの隈を厭わしく思いきれない。いや、むしろ気に入って撫でまわしてすらいる。愛撫だ。自慰かもしれない。
昨夜の光景が脳裏を過る。
普段の幼さは鳴りを潜め、年齢や身長といった煩わしい情報を捨て去った、ある種の神々しさが俺の意識を奪った。神的な美の顕現を目の当たりにし、俺の体は歩き方を忘れたが、幸運にも呼吸と瞬きだけは忘れないでいてくれた。そうでなければ危うかっただろう。
俺もハティも動かない時間が続き、先に動きを取り戻したのはハティだったと思う。呼びかけられたような気がして、「っ、――あぁ」とかろうじて生返事が口から滑り出た。
「どうしたの? ぼんやりして」
「いや、それはこちらの台詞だ。お前こそ、なにやら熱心に月を見上げていたようだが?」
ハティは首を傾げて「う~ん……」と唸る。涼やかな風に撫でられる彼女は、一転、あどけなさを取り戻して日常に返り咲いていた。
「自覚がないのか?」
確かめるように続けると、彼女はコクンと頷き、次の瞬間には先を歩きだしていた。「おい! ちょっと待っ――」追いすがるように伸ばした俺の手は、彼女の後ろ姿に触れることは叶わなかった。
会話も無く母屋に戻った俺達は、それぞれの寝室の前で分かれた。おやすみ、と挨拶をすると、無性に重く感じられるドアノブを捻りベッドに飛び込んだ。
専属メイド兼護衛の彼女の部屋は俺の左隣で。壁一枚隔てた、有って無いようなその距離が酷くもどかしく感じて。そうして俺は悶々とした一夜を過ごすことになったのである。
こういった経緯で生み出された隈は、昨夜の幻想的な光景が焼き付いたものと言ってよいだろう。だからこそ愛おしく感じるのだ。
本当に何もないのだろうか? 狼獣人らしいと言えばそこまでなのだろうが、忘れているのは気がかりだ。
――設定資料集に載っていないことの方が多いなんて、考えてみれば当然だよな。俺ことマック・キュイジーヌがこうして真面目に生きてるのも、シナリオに想定されていないわけだし。
あと一年を切った国立聖剣学園入学に向け、この一挙手一投足が生存に繋がると信じて。
頬を張った俺は、声を出すでもなく、彼女と共有している壁を殴りつけた。すぐ向こうで小さな音がすると、部屋のドアがけたたましい音を立てて開いた。「おはよう!」「あぁ、今日も頼むぞ」
玄関前の空気は、ピンと張りつめていた。ギリギリで小隊と呼べる三十人の騎士達は、緊張を顔に貼り付け、腕を背後で組み直立している。これから向かう先はオークの根城。つまりは死地。
ボールスは騎士達を再度ねめつけると、「準備、完了致しました」と俺に向けて敬礼した。
「――諸君」
玄関の階段を数段上った俺は、頭一つ分高い位置から騎士達を睥睨する。春嵐が満座を無遠慮に撫でて走り抜けた。後頭部で括った銀髪が靡き、しかしすぐに元のように垂れる。
――こういうの苦手なんだけどな……。マックの記憶にそれっぽいものがあったかな?
貴族の三男が与えられる教育は大したものではないが、それでも気位は貴族相応だ。父上の出陣式を眺めていた記憶を引っ張り出し、前世の名言と悪魔合体させてみる。
「――魔物の蔓延るこの世界に生を受けた我々は、戦闘を不可避のものとして受け入れなければならない。その覚悟を持てば、相手の決意のほどが、我々の決意には到底及ばないということが理解できるだろう。
また、今一度思い起こしてほしいのは、都市や個人にとって、大いなる危険には大いなる名誉が伴うということだ。
周知の通り、我々の父祖達は時に汗の雫を舐め、時に血を流し、このキュイジーヌ領を平定した。
父祖達は運より洞察、力より大胆さを発揮して野蛮な魔物の脅威を撃退し、我々が暮らすこの地を築いてくれた。
彼らの示した模範に恥じない生き方をし、勝利のためにあらゆる手立てを尽くし、既存の領土を微塵も損なうことなく、子孫たちに継承しようではないか。
今我々は戦うことにより、この地に深く根を下ろした誇りが、反抗の意思が、存続することが可能か試しているのだ。
我々は勝利せねばならないのだ、この笑えるほどの寡兵でな。
諸君、私に付き従う戦友諸君。君達は一体何を望んでいる?
――栄えある討ち死にか?」
「「「「「「「否! 断じて否!」」」」」」」
軍靴が地を打ち据える音が響く。鎧が擦れ軋む。戦意が満ちた。
「諸君。私は戦闘が好きだ!
戦うべくして生まれたような、恵まれた肉体を持つ魔物共を殺すことが大好きだ!
奴らの四肢を切り落とし、耳障りな命乞いを踏み躙る愉悦に浸りたい!
諸君らの軍靴が街道を均し、下卑た豚共の死骸を踏み潰す湿った音が楽しみでならない!
諸君らの剣が、槍が、弓が、敵を打ち倒す姿がありありと脳裏に浮かび、高揚を禁じ得ない!
綺麗好きな我々は、血で汚れた鎧を血で磨き、脂で馬鹿になる刀身を敵の骨肉で研ぎ上げようではないか!
そして魔物の血肉を喰らい、髄を啜り、次の魔物を打ち倒す血潮に変えるのだ!
我らの祖先が守りぬいた領地を、領民を、何より誇りを。魔物共に滅茶苦茶にされるのが大嫌いだ!
業腹だ! 虫唾が走る! 反吐が出る! 憤懣やるかたない!
村々が蹂躙され、無辜の人々が殺されていく様は耐えがたく悲しい!
この悲しみは勝利でしか癒せない。
ならばどうする?
単純明快に虐殺だ。目を覆うことすら無意味な殺戮だ。
空気に血の香りがこびりつき、断末魔が反響する地獄を生み出せ!
奴らの細胞一つ一つに俺達への恐怖を理不尽に植え付けるのだ!」
「「「「「「「―――――――――!!!!!!!」」」」」」」
獣のような熱狂の中、ライゼ村奪還作戦はその幕を開けた。