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道中、そして騎士

 空を覆い隠すようにして枝葉が茂り、その絡まりから時折漏れる光が、凸凹とした地面に幾何学的な模様を作る。不確かなそれらですら、今この暗がりでは有り難い。

 精々が立派な獣道程度の細い森道を、一台の馬車が派手な音を鳴らして駆け抜ける。その前後には騎乗した騎士が数名ずつ付き、木立の向こうを透かさんとばかりに鋭い目付きで警戒にあたる。馬達も耳を動かし、主の手伝いを買って出るようだ。

 ――本当にご苦労さんです。

 俺は馬車の側面、ガラス越しに護衛達の仕事ぶりを確認し、嘆息と称賛を視線で贈った。日頃の鍛錬で培った頑強な肉体を金属鎧で包み馬に乗るというのは、人馬共に疲弊することだろう。

「そろそろ休憩したいところですね」

 俺の対面に腰掛けるカロリーヌが、一目で良い物だと分かる見事な皮装丁の本を膝の上で閉じ、そう呟いた。この薄暗さでは読めやしないのだろう、足元に立てかけた背嚢に本を押し込んだ。

「ああ。――皆に伝えてくれ。地図ではそろそろ野営も可能な開けた箇所があるはずだ。そこまでの辛抱だとな」

 馬車のドアから手近な騎士に声をかけ、伝令に走らせた。騎士たちに「あと一息だ」と言い聞かせるようでいて、自分を奮い立たせるようでもあった。

 手持無沙汰で腐っていた俺は、顎を拳から下ろして首を回した。カロリーヌも肩を動かしてお疲れモードのようだ。それも仕方のないことだ。王都を出て、かれこれ三週間が経ったのだから。最後にベッドで寝たのは二日前に寄った宿場町で、それすらタウンハウスの最高級ベッドに甘やかされた体には苦行に感じられた。

 サスペンションもダンパーも無い馬車の乗り心地は最悪で、腰がジンジンと痛くて堪らない。同乗している使用人達の目線が無ければ、腰を叩いていたことだろう。

 前回の休憩からどれくらい経っただろうか。森に入る数時間前よりいくらか太陽が傾いたであろう空を見上げると、強固なスクラムからアトランダムに覗くそれは、幻想的な美しさがある。空が朱に染まる素振りを見せていないのなら、夕方までは今暫くありそうだ。

「ハティ、お前はメイドだろうが。俺を置いて寝るとは何事だ。――って、そろそろ起きろ!」

 右隣の職務怠慢狼少女は、木の根や石に浮かされる馬車の中であってもすやすやと寝入っていた。時折頭上の耳をピクピクと動かしてはいるものの、肩を叩いてもピクリともせず、ちょっとやそっとのことでは起きそうにない。

 幸せそうに寝ているのを起こすのは申し訳ないが、シャツの右袖にこれ以上涎の版図を広げるわけにはいかない。俺はハティの顔面に掌を突き出すと、スキルを発動させた。

 ――【流水】

 水球が彼女の寝顔を包む。ぽこぽこと寝息の泡が鼻から出ると、音を立てて球の表面で弾けた。次いで息を吸おうと胸が膨らんだその瞬間、異変に気が付いたらしい。満月を思わせる金の瞳を見開くと、「ボコボコガボガボ!?」と水球の中を泡だらけにして手足をバタつかせた。何を言っているのか聞き取れないが、焦っていることだけは伝わってくる彼女の名演技に満足した俺は、スキルを解除した。

 開放されたハティは、口と鼻から水なのか鼻水なのか分からない、とにかくばっちい液体を垂らしながら、肩を上下させて必死に酸素を取り込んでいる。

「はぁ、はぁ、死ぬかと思った……」

 俺は人を殺したりしない。そんなことをすれば、人間社会で生きることが難しくなってしまう。

「普通、貴族の服を涎塗れにすれば殺されても文句言えないわよ。師匠が優しい御方でよかったと思いましょ、ハティ」

 髪を拭いてやりつつカロリーヌがハティを穏やかに窘めるが、納得いかないとばかりに、なんとも恨めしい視線が俺に突き刺さる。

「カロリーヌの言う通りだ。感謝されど恨まれる筋合いは無いぞ?」

「鼻と口を押える! 人、死ぬ!」

「まぁ、寝てる人の鼻と口を押えるってよくある悪戯ですけど、される側は真剣に命の危機を迎えてますからねぇ……」

「自業自得と言うやつだ。貴族という人種の恐ろしさが骨身に沁みて理解できただろ?」

「うぅー!」

 ハティが抗議の声と共に振り上げた右拳は、俺に届くことなく空中で掴まれ、その動きを止めた。

 それは騎士だった。大きな体躯を白銀の鎧に詰め込み、馬車の狭い戸から半身を差し込むようにしてハティの細腕を止めていた。

「それ以上はやめておけ、メイドよ。場合によっては……」

 男は両の目を細め、視線だけで相手を射殺せるほどの圧迫感を少女に向ける。その声は厳しく、しかし同時に戒める優しさも込められたものだった。

 ハティは呆気にとられたように目を見開くと、鬱陶しいと言わんばかりに力づくで戒めから脱した。まさか腕を抜かれると思わなかったのか、次は騎士が目を丸くする。その様子が何処かコミカルで面白く、思わず小さく吹き出してしまった。

「ふっ……。助かった、ボールス。流石の動きだ」

「勿体なきお言葉」

 この男の名前はボールス。キュイジーヌ騎士団副団長を務める偉丈夫である。肉体だけでなく、動く馬車に取り付き状況に即応する判断力を持ち合わせた、優秀な騎士だ。

「何があったのかは知らないが、お前は強者だろう。力ある者は、その振るい方に美学を持て。団長の受け売りだが、そのことを努々忘れぬようにな」

その言葉に、ハティの目が一瞬揺れたように見えた。少女に教授し終えると、「そろそろ休憩地点です」と言い残し、騎士は馬車に並走させていた愛馬に飛び乗った。

 体積を失った空間に森の空気が流れ込み、その勢いで戸を閉じた。

「ですって」とカロリーヌがおどけて茶化すと、ハティは「ふん! わかってる!」とそっぽを向いた。

 御者が停車を告げた。

 戸が開くと、俺達は久しぶりに地面に降り立ち気を緩めた。辿り着いた休憩地点は、深い森の中で唯一人の手が入っていることを示すようにぽっかりと開けている。俺は太陽が見えると無性に安心してしまい、爽やかな光風を思うまま肺に満たした。

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