人違い
ぐうの音も出ないとは正にこのことかと思うほどの沈黙の中、先に折れたのはアイの方だった。それまでの沈黙した分を取り返すような深く大きな溜め息を吐いて、少し離れてくれた。緊張が解けて、近くにあったソファに腰掛ける。
「まさか、人違いだとは……」
「――あの……」
「しっ、喋るな。今、考えている」
いや、喋るなと言われましても、私もせめてここがどこだかくらいは知りたいんですがと目で訴えてみるも、ものの見事に完全無視を決め込まれた。いくら何でも目当ての人じゃなかったからと言って、初対面の人間に対する態度じゃない。
失礼の擬人化みたいな男アイは、こっちにわざと聞かせる為だけなんじゃないかと思える程、大きな舌打ちをする。本当に態度が悪い。これが就職活動の面接だったら絶対落とされてるなと半分現実逃避をしていると、彼は前髪をぐしゃぐしゃ手で乱してからこっちを睨み付けて言った。
「一度、下ろした魂は還すことはできない。それがたとえ人違いでも、次あちらを覗けるのは一年後の今日。……それまで此奴で耐えるしか無いか?」
全部聞こえてるんだけど。もしかして、わざと聞こえるように言われてる? 喧嘩売られてる? 『耐えるしかない』って言い方はどうかと思う。仮にもそっちの手違いで人違いをした挙げ句、他人の人生を無責任に奪っておいて、この言い草。
私は段々怒りが湧いてきた。いや、これは正当な怒りだと思う。次、何か失礼な発言を聞いたら、思ってることを思い切って言ってしまお――
「それにしても、こんな下品な女とアストライア様を間違えてしまうとは、俺も焼きが回ったな」
……………………は?
悔やんでも悔やみきれないみたいな顔をして深い溜め息まで吐いて言いやがったこの男の態度に、とうとう頭の中で「ぷちん」と何かが切れる音がした。ソファから立ち上がり、「何それっ!?」と大声を出す。声が大きいと彼に注意されたけど、そんなの関係ない。そのまま勢いに任せて言ってやった。
「間違ったのはそっちなのになんで私が責められないといけないワケ!? さっきあんた、言ったよね? 自分が間違えたって! それなのに謝りもしないのっ!? 他人の人生、無責任に奪っておいて言うことがそれっ!?」
「ちっ。ああ、煩い。ギャアギャア喚くな。貴様の声を聞いていると頭痛がしてくる」
心底うんざりしていると表情で物語るアイ。それを受けて私の正当な怒りは益々増長される。もうこうなったら、絶対に謝らせたい。謝らせて帰る方法を聞き出してやる!
謝る気が全く無いどころか反省すらしていないアイに向かって、不満を露わにすると彼に「アストライア様の顔でコブダイのような顔をするな」と言われてしまった。よりによってコブダイと言われるとは思っていなかった私は咄嗟に言葉が出てこず、「は、はあっ!?」みたいなことしか言えない。後から湧いてきた更なる怒りに身を任せることにした。
「コブダイって何よ! 失礼にも程があるでしょ! 謝りなさ――」
腹が立ち過ぎてずんずんと近寄り、そのままアイに掴み掛かろうとしたところで、今度こそ彼は剣を抜き、私の喉元に突き付ける。喉を鋭い切っ先で押さえられた私は息苦しさに嘔吐いた。
「だが、別の方法もある。魂が間違っているのなら、今すぐここでアストライア様のお体から貴様の穢れた魂を抜き取り、時が来るまで御身は神殿にて保存する、という方法だ。俺はアストライア様がお戻りになられればそれでいい。貴様の魂など、知ったことか」
「くっ……う……。じ、自分の主人を手に掛けるつもり……?」
「お前は俺の主人ではない」
ぐっと柄を握る手に力が込められて切っ先がほんの少し押し込まれる。つう、と首筋に血が流れていると感触と匂いで分かった。ここに来た時とはまた違う、はっきりとした死の予感に額に脂汗が伝うのを感じる。嫌だ、怖い。死にたくない。ぎゅっと目を瞑ると、アイはゆっくりと剣を収めた。
「そうやって大人しくしていれば、危害は加えん。精々、こちらの言うことを聞いてもらおう」
「……」
解放されたばかりでまだ恐怖が体に残っていたけれど、言葉にしなくても思っていた。こいつ、最低野郎だ。謝らないばかりか、自分の思い通りにならないと暴力に走る。典型的なDV野郎だ。絶対彼氏にしたくないタイプ。
心中で思い付く限りの罵詈雑言を浴びせていると、ステラが戻ってきた。どうやらお風呂の準備ができたらしい。一度、あすとらいあ様本人ではないとバレてしまっているので、ステラにも話しておいた方がいいのかなと思っていると、アイにバラされた。しかも、「ステラ、実は……」とか神妙な雰囲気ではなく、「ステラ、すまない。間違えた」から始まる何の謝意も悪気も感じられない暴露話を聞かされてまたキレそうになったが、また剣を抜かれるのは嫌なので、黙って耐えておいた。
暴露話が終わると、ステラは信じられないという顔をしていたが、試しにアイが容赦なく「何か話してみろ」と言い、何とか誤魔化そうとした私だったが、見事に失敗した。大切な人の体に人違いで別の魂が入っていると理解したステラは「そんな……では、アストライア様は……」と非常にショックを受けて涙ぐんでいた。私が全面的に悪い訳じゃないけれど、これはこれでしっかり罪悪感を刺激される。私が何も言えずにいると、涙を拭ったステラは自分の頬をぴしゃりと叩いて私にドレスを渡してくれた。その下には下着も入っている。
「それは、大変でしょう? さぞ不安でしたでしょうに。ごめんなさいね、あなたの分からないお話をしてしまって……」
「あ、いえ、そんな……大丈夫です」
「あ、それでしたら、あなたのお名前は何て言うのかしら?」
「私の名前は……古永杏奈」
「アンナ……良い名前ね」
「名前が下に来るのか……お前、式詩術を扱う者達に似ているな」
「しき?」と何とか聞き取れた部分だけオウム返しに訊くと、アイは呆れながらも簡単に説明してくれた。この国にも多く住んでいる人々のことで黒髪に黒や焦げ茶の目が特徴の者が多く、式詩術を得意としている者が多いという。「シキシジュツ?」と首を傾げると、二人共珍獣を見るような目つきで凝視してきたので、私はアイを睨み返した。それを宥めるようにステラが間に入って止めてくれた。
「では、アンナ。改めて、初めまして。私はステラ。アストライア様の身の回りのお世話をしている侍女です。アストライア様とは幼馴染みで、こう言っては何ですが、自分でもアストライア様の信頼を得ていると自負しております。よろしくね」
そう言って、にっこり笑ってくれるステラに、私は心から救われた。天使だ。天使がいる。隣の嫌な男とは大違いだ。「ほら、アイ様も」とステラに促されて、アイも自己紹介をする。正直、あんたは別にいいと思ったが。アイは優雅な所作で一礼し、先程まで嫌味を言っていたとは思えないくらい爽やかな微笑みを浮かべてゆっくりと話す。
「私はアイビー。アストライア様の近衛詩術騎士だ。アストライア様には大変お世話になっている。ので、くれぐれもそのお体に傷など付けるなよ、女」
『くれぐれも』の辺りから嫌味っぽく強調してくる。天井突き抜けて大気圏に突入しそうな程偉そうな態度に、自然と眉間に皺が寄るのを感じた。自分でも飼い主の言うことを絶対に聞かない犬みたいな顔をしているという自覚を持ちながらも、何とか無視することができた。いつか覚えてろよと復讐を胸に誓いつつ、私はステラに連れられてお風呂へ向かうのだった。