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 ドアを開けた先は学校前の橋だった。あの嵐の日、望は欄干の向こうに立ってこちらに背を向けていた。手には何か物を持っているのか、そっと手元に視線を落とし、右手は欄干を掴んでいる。欄干を越えた場所に立っているせいで彼女の表情は見えない。その背を見つめていると、涼佑の頭の中にふ、とある一文が思い浮かんだ。

 私を拒むなんて許せなかった
 だから、呪いを掛けることにした

「……何だよそれ」

 望は自分の告白を断られたから、涼佑を呪うことにした。そういうことらしい。それも、頭の中に浮かんできた文が彼女の本心だとしたら、これ程くだらない理由も無い。逆恨みもいいところだ。怒りが、憎しみが自分の中に着々と募るのを涼佑は感じる。一瞬、目の前の光景が真っ赤に染まろうとした時、涼佑はふとある一つの行動を思い付いた。
 両手を殆ど無意識に胸の辺りまで上げる。そのまま彼女の背を押せば、これまでの恐怖が、理不尽が帳消しになるのではと涼佑は思った。じりじりと近付く。後少し、もう少しで望の背中を押せる。そう思った瞬間、彼女の両足から力が抜け、そのまま望の体は橋の下へ落下して行った。後に残ったのは、彼女が掴んでいた欄干の柱にこびり付いた血とはっと我に返り、自分の行動に絶望する涼佑だけだった。
 今、自分は何をしようとしたのか。涼佑は自分で自分の行動が信じられなかった。そのショックからよろよろと欄干から後退し、やがてその背は何かにぶつかった。びくっと驚愕に身を震わせて反射的に振り返る。そこにはまた木製のドアが佇んでいた。入れ、ということだろう。その表面にはまた文章が書いてある。

 お前のせいだ

 そこで涼佑は望の言わんとしていることが分かった。自分が死ぬに至ったのは、涼佑のせいだと。お前が私を殺したのだと。

「………………………………んで」

 絶望に沈もうとした彼を救ったのは、やはりそれを超える怒りだった。現実で味わった恐怖と不安、真相を知ったこの瞬間に感じた理不尽さ。それら全てに反発しようと、腹立たしさを拳に乗せてドアに思い切り叩き付ける。今だけ望をもう一度殺す手段が無いか、知識もアイディアも無い頭で必死に考える。しかし、当然そんな策が出てくる訳も無く、ただ彼は怒りのままに喚き散らした。

「なんでオレがこんな目に遭わなきゃいけないんだよっ!!!! ふざけるなっ!! 全部、全部全部全部……!! 何もかもお前のせいじゃないかっ!! お前が自分で勝手に決めつけて死んだんだろうがっ!!!!!!」

 何度も何度も。涼佑はドアをあらん限りの力で叩き、蹴り付け、現実であればドアを破壊する程の力で暴れた。しかし、憎たらしいことにドアには傷一つ付かない。とうとう精神に限界がきて、その場に頽れる。そうしながら彼はこの理不尽に嘆いた。

「返せよ、いつもの日常を返せ……。なんでオレがこんな…………なんでぇ……っ」

 何故、自分がここにいるのか。何故、望などに執着されなければならないのか。何故、日常を失ってしまったのか。もうよく分からなくなっていた。ただ、こんなことは早く終わらせたい。その一心で、涼佑は頬を伝う涙を乱暴に拭い、立ち上がった。

「――とにかく、開けよう。開ければ、そのうちあの女のところに着く……。……その時は地獄に突き落としてやる」

 もうほとほと疲れてしまった。ドアの表面はなるべく見ないようにして、涼佑は殆ど投げやりにドアを開けた。



 いない。校舎の中を駆け抜けながら、巫女さんは望を探していた。気配はするのにそれらしい姿を全く見ないのだ。彼女が探し回っている間も黒い水は校舎全体に広がっていき、その水位を着実に高めていく。足を取られる気持ちの悪い感触に顔をしかめ、彼女は一度外に出ようと昇降口へ向かう。広い場所に出れば、望も自ずと巫女さんを狙う為に出てくるしかないと踏んだ為だ。
 しかし、その動きをどこかで見ているらしく、誰も何も無いのに巫女さんの行く先にある窓が全て割れていき、宙を舞った破片が全て彼女目がけて雨のように降ってくる。それら全てを自分の背丈程もある太い注連縄を一度横に凪いで、打ち落とした。

「どうした、臆病者。私を殺すんじゃなかったのか?」

 暗に「この程度を避けるのなんて容易い」と煽る彼女の態度が怒りに触れたのか、またどこからか今度は泥のような黒い水でできた腕が伸びてくる。蛇のように細長いそれは巫女さんの首を狙ったようだが、最小限の動きで避けられ、抜けられる。彼女は尚も煽ることは忘れない。

「ノーコンか、ノロマ。それとも能無しか? お前みたいなケツの青いガキに捕まってやる程、お人好しじゃないぞ、私はな」

 言いながら昇降口に入った途端、またガラスが全て割れ、飛んでくる。中には細長く割れたガラス片もあり、それらは巫女さんを串刺しにしようと一直線に向かってくる。それも先程と同じように注連縄で一掃するついでにガラス片諸共、彼女は引き戸を下駄箱諸共、吹き飛ばした。
 やっと外へ出られた彼女は密かに息を吐き、走るスピードを緩めず、そのままグラウンドへ向かう。彼女の後を腕は追って来ているようだった。グラウンドに入ろうかというところで一度背後へ振り返った巫女さんは、また細長い注連縄を袖から取り出し、追ってきた腕に巻き付け、結界を叩き込む。腕を伝っていった結界は望本人に繋がっていたようで、校舎の方から獣の唸り声のような悲鳴が上がる。

「引きこもってるような奴は、無理矢理私の前に引きずり出してやる」

 結界を緩衝材に腕と結界の上から刀を突き刺した巫女さんは、そのまま切っ先を深く地面に突き立てる。腕を固定すると、直ぐさま注連縄を掴み、一気に引いて予告通り、引きずり出そうとした。その引力に引っ張られて校舎の窓という窓、ドアというドアから一気に黒い水が溢れ出し、津波のように襲いかかってくる。最早災害と言っていいその現象に、巫女さんは瞠目し、弓を構える。破魔矢を迫り来る水面に何本も放ち、手応えがあるかどうか探るが、効いている様子は無い。
 判断を誤った。そう思った時には既に彼女の体は黒い津波に飲み込まれ、その細い首と四肢を水に拘束されていた。その状態のまま水から持ち上げられ、巫女さんは初めて望の本体を見た。元は人間の体だったろう上半身は全て蛇となり、人間らしい部分は足元に広がる黒い海に溶けている。好き勝手にあらゆる方向を見ていた蛇の頭達はまるで互いに談笑でもしているかのように時折舌をちろちろと出し入れしながら顔を見合わせたりそっぽを向いたりしていたが、ゆっくりと一斉に巫女さんを見上げたかと思うと、その目を細めて勝ち誇ったように笑った。



 どうやら、それが最後のドアだったようだ。涼佑が怒りと憎しみをぶつけたドアを潜ると、真っ暗な空間が彼を迎えた。上下左右も分からないその中でただ一人、望は蹲って泣いていた。幼い子供のように嗚咽を抑えることもせず、ぼたぼたと涙を流すその姿に涼佑は益々怒りと憎しみを増長されただけだった。さも自分の方が被害者であるかのように出てきた彼女を今すぐにでも殺してしまいたい。そんな今まで抱いたことの無い激しい衝動が彼を支配しようとしていた。今なら、背後から首を絞められると思い、また涼佑は慎重な足取りで近付いて行く。
 彼の近付く気配にでも気が付いたのか、望が振り返った。彼女と目が合うと、涼佑はそれ以上近付こうとせず、黙って立ち止まる。彼女は、何にも知らないような顔をして口を開く。

「涼佑くん?」

 呼ぶな、下の名前でと思った彼だが、これは望を成仏させる為、否、地獄に叩き落とす為と自分を律し、笑顔を貼り付ける。今までやったことの無いことだが、互いによく知らない相手なのだ。何も問題は無い。最初に見せられた幻影の自分を演じるのは、虫唾が走る思いだったが、仕方ないと涼佑は優しく微笑み、望へと近付いた。

「樺倉……いや、望。もうこんなこと止めよう。お前の気持ちは分かったよ。でも、こんなことを続けてもお前の気持ちは晴れないだろ?」
「――涼佑くんっ……!」

 感極まったように駆け寄ってきた彼女を涼佑は抱き留める。ああ、嫌だ嫌だ。できることなら今すぐ突き飛ばしてしまいたい。必死にその衝動を抑え、彼は諭すようにこれ見よがしに強く抱き締めて言った。

「もう大丈夫だ。もうこれ以上、辛い思いをしなくていいんだ」
「うんっ……! うんっ……! やっぱり、あなたは私の王子様だったのね! 大好き! 涼佑くんっ!」

 気色悪い。何が「大好き」だ。悍ましい。一気に胸の内にそんな思いが噴き出して来たが、後もう少しの辛抱だと無理矢理抑えつけ、引き攣った笑顔を崩さないようにする。

「だから、な? 望。どうすればいいか、分かるよな?」
「うん……。一緒に死のうね? 涼佑くん」
「………………は?」

 ばっと弾かれたように涼佑は望を引き剥がす。そして、その顔に眼球が無いことに気付いた彼は「ひっ」と引き攣った悲鳴を上げ、突き飛ばそうとしたが、それより早く望が口に手を突っ込んで来た。

「一つになろう? 涼佑くん。あなたと一つになれば、地獄でも天国に昇る思いができるから」

 咳き込み、吐き出そうとするが、無理矢理ぐいぐいと手を喉奥へと進められ、腕が入ってしまう。魂だけの存在と言えど、これ以上許せばただでは済まないと彼は本能で察していた。頭の中で狂ったような望の笑い声が響いている。その中に遠くから何度も何度も聞こえる言葉があった。

 死ね
 死ね
 死ね
 死ね

 笑い声に混じって望の声で何度も何度も告げられるその言葉に何とか抵抗しようと涼佑は彼女の体を押し止める為、手を突き出す。だが、それよりもっと早くずるり、と爪先が入り、涼佑の体内へ望が丸ごと入っていった。瞬間、彼は半ば強制的に断片的な映像を見せられる。それは自分より少し背の低い視点で、学校の廊下で転んだ視界に少年の手が差し出される。その手を辿ると、それは心配そうな顔をしている涼佑だった。その映像を最後に口から黒い血を吐きながらその場に膝を付いた涼佑は、ぷつりとまるで刈り取られるように意識を失った。



 ばしゃん、と形作られていた望が霧散する。突然、全ての力を失った黒い水は最初から無かったかのように全て溶けて消えてしまった。その様を見て巫女さんは安堵とはほど遠い思いに襲われる。自分は望の核を破壊していない。それどころか、無様に捕まっていた。周囲の様子を見ると、妖域が崩れ、消え始めている。急いで立ち上がり、人気の無い場所へと彼女は走り去っていった。
 体育館倉庫まで来ると、彼女はそこで疲れた両足を漸く止め、体育館の壁に背を預けると、涼佑に交代する。途端に胸の辺りを押さえて苦しみだした彼を見て、巫女さんは予感が的中したことを確信した。

「これは――呪いか!? 涼佑……!!」

 みるみるうちに涼佑の体を黒蛇の形をした痣が覆っていく。このまま呪いに取り込まれ、存在を抹消されると理解した巫女さんは、殆ど後先を考えずに霊体のまま彼の胸に手を突っ込む。彼の体に広がっていた痣が巫女さんの腕を伝ってせり上がってきた。

「死なせはしないっ! もう二度と……誰も死なせるものかっ!!」

 黒蛇が体を這い回る度、激痛に襲われる。魂を焼かれる苦しみに彼女は歯を食いしばって必死に耐えていた。
 胸の痛みも苦しみも治まったと涼佑は胸から手を離し、どうしたのかと自分の体を見る。さっきまで体中に痛みと共に痣のようなものが広がっていたような気がすると思っていた彼は、シャツのボタンを外して見てみた。しかし、そこには心臓の辺りに僅かな染みのような痣があるだけで何も異常は無い。首を傾げていると、傍らに現れた巫女さんへ顔を向けた。

「巫女さん、だいじょう……ぶ……」

 彼女の姿に涼佑は絶句した。彼女は右半身の殆どが黒い蛇に覆われていた。痛むのか、時折右手がびくびくと痙攣している。自分がそんな状態なのに、彼女はそれでも安心したようにほっと安堵した。

「大丈夫か? 涼佑。痛みは?」
「あ、ああ。だい、じょうぶ。もう、どこも痛くないよ」
「そうか。良かっ……いっ! つぅ……!! はは……ざまぁ無いな、私も」
「巫女さん。巫女さんはそんな風になって、だい、大丈夫、なのか……?」

 どう見ても大丈夫ではない。彼女の姿が他者にも見えたなら、誰の目にも明らかだったろうが、彼女の身を心底案じている涼佑はそう訊かずにはいられなかった。青ざめる涼佑を少しでも安心させようと、彼女は努めて優しく微笑む。しかし、それも少しの間のことで、すぐに決意したように表情を引き締めて言った。

「望は、成仏しなかった。代わりにお前を殺そうとした」

 望が自分を殺そうとしたことは魂をもって十二分に思い知っている涼佑は、「ああ」と諦観に満ちた返事をする。彼の様子から巫女さんにもあの空間で何があったのか、少しは勘付かれたようで彼女も涼佑と同様の表情を浮かべる。

「望は消滅しなかった。代わりに呪いとなってお前を殺そうとしたが、私が半分阻止した」
「……半分?」

 ぶるぶると震える右手を見つめて巫女さんは頷く。右の目蓋が生理現象のようにびくっと震えた。

「そうだ。お前の心臓を食い潰そうとした呪いを私が自分の身に半分取り込むことで、何とか即死は免れた。だが、放って置けば確実にお前は死に至り、その魂は望だった呪いに食い尽くされ、私も消滅する。これは謂わば、半強制的に時限爆弾を抱えさせられたようなものだ」
「ご、めん……オレの、せいで…………」

 それ以上、言葉が出てこない涼佑に巫女さんは静かに首を振る。彼のせいではないと。実際、そうだった。今回のことは涼佑には落ち度が無く、彼は被害者なのだから、当然だろう。

「お前のせいじゃない。今回のことは決してお前のせいじゃないが、この呪いを解く方法を探さなくちゃならない。あんな奴の為に涼佑が死んでやる必要は無い。分かるか?」
「……うん」
「――これから、私達は一心同体だ。この呪いがある限り、お前が死ぬ時は私も一緒に消える。……これから呪いが解けるまでよろしくな、涼佑」

 そう言って、改めて握手を求める巫女さんの手を、未だ現実を受け止め切れていない涼佑は呆然と、その細い手を見つめていることしかできなかった。

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