10
何故、今が令和だと分かったのかと涼佑が訊くと、巫女さんはこれまでも何人もの人達に憑依して守ってきたので、彼らと関わっていく中で、今が西暦二千二十三年で年号が平成から令和に変わったことも知識として知っているのだという。彼の知らないところで、案外と彼女は忙しい日々を送っていたようだ。
夕食の準備をするから席で待っていてと言って、先に階段を降りて居間へ向かう真奈美に皆付いて行く。その道中、巫女さんは涼佑に非常に興味をそそられているようでやたらと話しかけてくる。
「おお、夕食か! 誰が作るんだ?」
「青谷……あー、髪の長い女の子が作るって」
「よし、なら、手伝ってやれ。涼佑」
「ああ、それはもちろん。そのつもりだけど」
涼佑が巫女さんと話していても、このメンバーだとそっとしておいてくれる。それが彼にとっては有り難かった。涼佑が手伝うつもりと言った瞬間、巫女さんはふ、と微笑して「良い子だな」と呟いた。その表情が一瞬だけ何だか彼の母親を彷彿とさせて、少しドキッとした。外見は自分と同い年くらいなのに、ふと見せる表情から実は彼女は自分よりずっと年上なのではないかとすら思ってしまう。居間へ向かう中、窓の外を見ると、もうすぐ夜になろうとしていた。
居間に着いてすぐ、電気を点けて台所に向かう女子三人と時間を確認する涼佑と直樹。針は五時を少し過ぎた辺りを指していた。そういえば、真奈美の祖母が帰ってくるはずの時間はとうに過ぎている。一応、玄関の電気も点けておいた方が良いかと真奈美に訊き、「お願い」と許可をもらった涼佑は絢の「気が利くじゃん」の声を背中に受けながら、玄関へ向かった。
玄関は彼と直樹が入ってきた時のまま、鍵も掛かっていなかった。今更ながら、それなりの人数がいるとはいえ、少し不用心だったかと思った涼佑は電気を点けて一番上の鍵だけでも掛けておこうと自分の靴を履こうとした。
「涼佑、あれか?」
「え?」
巫女さんが玄関扉を指す。その指先を目で追った涼佑の目に、玄関扉のガラスに顔を付けて中を見ようとしているあの影が映った。顔の両側に手を付いて陰を作って中をよく見ようとしている。近すぎるせいか、いつもより顔が微かに見える。顔立ちはまだ幼さが残る少女のようだが、死人の目と言うのだろうか、全く光の無い目で射貫くようにこちらを見つめていた。
「っ!?」
咄嗟に涼佑は後退りして玄関扉から離れる。その隣で巫女さんが静かに鯉口を切る気配と音がした。彼にとっては有り難いことに、彼女はそのまま静かに話しかけてくれる。
「離れて正解だ。こっちが開けない限り、中には入れない」
断定的な物言いにいくらか安心して、今の涼佑は以前よりはずっと落ち着いて物事を考えられるようになっている。せめて鍵を掛けたいと考えているが、巫女さんの様子からそれもやらない方が良いのではないかと思ってしまう。その気配を察して、巫女さんは刀から手を放さずに簡潔に告げた。
「涼佑、ゆっくりだ。ゆっくり静かに近付いて鍵を掛けろ。私が見張っててやる」
声すら出してはいけないような気がする涼佑は、一度だけ頷いて言われた通りにする。そっと彼が鍵を掛けると、途端にばんっ、と扉の向こうにいる影が扉を強く叩いた。びくっと体が震えて一歩鍵の掛かった扉から離れる。その間もあの影は続けてばんっ、ばんっ、と叩き続けている。無表情で両手を拳の形にして叩き続けている姿を見ていると、また恐怖が限界を迎えようとしていた。呼吸が浅くなり、今にも叫び出しそうになる。
そんな彼の目の前にふわりと進み出た巫女さんが、涼佑と影の間に立つように割り込む。彼に背中を見せたまま、彼女は言った。
「なぁに。ガキがお前に拒絶されて、癇癪起こしてるだけだ」
少し腰を落とした巫女さんは身を低くして刀を抜く、かと思われた。
唐突にガチャリ、と玄関扉が開かれて「ただいまぁ」と恐らく真奈美の祖母であろう女性が顔を覗かせた。物凄い勢いで叩かれている最中に開かれたので、一瞬涼佑は何が起こったのか認識できなかった。「どうしたの?」と真奈美の祖母に声を掛けられて、やっと我に返る。
「あ、えっと……お、邪魔して、ます」
「あら、もしかして、真奈美のお友達?」
「と、友達って言うか……」
「いつも仲良くしてくれて、ありがとうね」
「あ、はい」
「じゃあ、真紗子さん。また明後日、迎えに行きますね」
恐らくデイサービスの職員だろう若い女性が開けっぱなしにされている玄関扉から少し中に入って、深々と頭を下げる。まるでさっきまでの異様な空気など無かったかのような光景に、大丈夫なのかと心配になった涼佑だが、段々心臓の鼓動は落ち着いてきた。巫女さんは中から開けなければ、大丈夫と言っていたが、外から開けられた場合はどうなんだろうと考えを巡らせる。
職員と真紗子の朗らかな会話が終わるまで、ただ一人何となく気まずいような油断ならないような気持ちで待っていると、涼佑が待っていることに気付いた真紗子がキリの良いところで会話を終わらせて、玄関扉を閉める。扉が閉められる様をぼうっと見ていて、そこで初めて涼佑は彼女が杖をついて歩いていることに気付いた。玄関の邪魔にならないところに杖を立てかけて、靴を脱いで玄関に上がろうとしている真紗子を見た涼佑は思わず、手を差し出す。
「大丈夫ですか?」
「あら、ありがとう。優しいのね」
「いえ……玄関、締めておきますね」
「悪いわねぇ」
あの影が見えないので、そのまままた鍵を掛ける。夕食を食べたら帰るので、上の鍵だけ掛けておいた。さっきまで扉をばんばん叩いていたあの影はどうなったのか、家の中に入っていないのか、気になった涼佑は小声で巫女さんに確認する。
「今はまだ外にいる。安心しろ」
彼の隣に浮いている彼女からはそれだけ返ってきた。彼女の話だと、中にいる人間が招かなければ、外から人間が来ても霊は入れないのだという。
「基本的にはな。例外の場合もあるが」
今回はその例外の場合ではないようだ。なら、彼女が傍にいてくれる間は本当に大丈夫なのだろう。真紗子の手を取った涼佑はそのまま居間まで手助けすると、夕食を作っていた女子三人に遅いと怒られたが、真紗子を手伝っていたと報告すると、「なら、よし」と許された。
許されたついでに手伝えと直樹に言われて、涼佑は彼と一緒に真奈美が事前に味付けをしておいた鶏肉に粉を付けて、ぽふぽふと余計な粉を落とす作業に入る。粉の付いた鶏肉を真奈美は油を少し多めに引いたフライパンに入れていく。揚げてるのか、焼いてるのかよく分からない料理に涼佑は思わず「これは揚げ? 焼き?」と訊いてしまう。
「今日は元々絢達が食べに来る予定だったから、鶏の揚げ焼き。カロリー低めで唐揚げが食べたい時に良いから」
なるほどと彼が頷いていると、絢に呼び出され、今度は彼女らと一緒に手でレタスを千切って人数分のサラダを作った。今日は鶏の揚げ焼きとグリーンサラダとスープにご飯というバランスの良いメニューのようだ。でも、恐らく自分と直樹はバランス悪く食べるんだろうなと思うと、涼佑の口元に苦笑が浮かんだ。
直樹はお湯で溶かすスープの準備をしている。レタスがたくさん入ったサラダが出来たら、箸、スプーンと一緒にテーブルに並べ、取り皿も持って行く。テーブルに次々と食事の用意がされていく様を見て、ソファに座ってテレビを見ていた真紗子は「今日はご馳走ね」と嬉しそうに微笑んだ。
夕食はついさっきまでの幽霊騒ぎなど無かったかのように、和やかで楽しい時間だった。途中、何度か巫女さんが物欲しそうな目で涼佑に訴えてきたが、彼にしか見えない彼女には少しの間、我慢してもらうしかない。最初に大福と麦茶を食べて飲んでいたので、やっぱり普通の食事にも興味があるのだろう。真奈美に巫女さんの様子をこっそり話すと、無言で唐揚げを別の皿に取ってくれた。