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 咄嗟に僅かに目線を下げて見ないようにする。目を合わせたらダメだ、と涼佑は自分に言い聞かせる。今は授業中で席を立つ訳にも叫ぶ訳にもいかない。他の生徒や田南部には何も見えないのに、一人だけ狂乱すれば、どういう目で見られるか涼佑は重々分かっているつもりだ。この時間中は何としても耐えねばならない。
 体の震えも極力周囲に分からないように努力しつつ、一瞬だけ固まった体を解して誤魔化そうとわざとらしく両肩を回した。ノートの続きを取ろうと、上目遣いでなるべく教壇を見ないようにして黒板を見た。
 涼佑は声を出さなかったのが本当に奇跡だと思った。彼が見ていないうちに全身を現した影はいつの間にか天井に立っていた。重力を完全に無視したその姿は常軌を逸していて、恐怖で変に鳩尾に力が入る。気持ち悪い。込み上げてくる吐き気に必死に耐え、目を合わせないようにと俯いた。しかし、それが悪かったのか、途端に視界の端で影が動く気配がし、体を左右にゆらゆら揺らしながらこちらに向かってくる。影が一歩踏み出す度にぐじゅ、ぐじゅ、と水気を含んだ嫌な音がし、ゆっくり着実に涼佑との距離を詰めてくる。一歩、一歩と影が近付いてくる度、自然と涼佑の呼吸は緊張と恐怖から浅くなっていく。
 もう影との距離は殆ど無く、少しでも目線を上げれば、影の顔が間近にある状況だ。すぐ左隣から痛いくらいの視線を感じるが、どうしても怖くて涼佑は左を見ることができない。それどころか、視線を上げることができない。上げれば、その動線に影の顔が入ってくるからだ。あの薄く細められた気持ちの悪い目と目が合ってしまったら、今度こそ気絶してしまうという確信が彼にはあった。目線も顔も、上げる訳にはいかない。じっと焼き付くように見つめてくるその影に、涼佑は心中で「オレが何したっていうんだよ」と泣きたい気持ちを必死に押し殺して、ただただその身に降り掛かる恐怖と戦っていた。そして、そんな姿を田南部に見付けられ、声を掛けられた。

「どうしたの? 新條くん。具合悪い?」

 彼女は涼佑の顔色が悪いことに気付き、黒板に数式を書いていた手を止めて声を掛けてくれたが、当の本人はそれどころではない。必死に左を見ないように且つ、教師に心配を掛けまいと僅かに顔を上げて「だ、だい、じょぶ……です」とだけ言った。恐怖を抑え込みつつ、受け答えをしなければならない状況に彼はこれは何の拷問だと頭を抱えた。田南部は涼佑の様子がおかしいことに気が付いたらしく、黒板から離れて彼の傍に来て再度顔色を確かめた。

「顔色が悪いわ。誰か、保健室まで付き添ってあげて」
「先生。じゃあ、俺が行きます」

 すぐにぱっと手を挙げたのは直樹だった。涼佑の後ろの席に座っている彼はいち早く涼佑の様子がおかしいことに気付いてはいたが、体調不良とも違う様子にどうしたらいいか分からずにいたのだった。田南部に言われた直樹に手を引っ張られると、途端に今までの重苦しい空気は霧散し、涼佑はやっと顔を上げることができた。弾かれたように自分の左側を見ても何もいない。いなくなったんだと分かると、途端に体から力が抜けてへにゃへにゃと床に座り込みそうになったが、直樹にぐいと腕を引かれてそれは叶わなかった。床にへたり込みそうになった涼佑を見てやはり具合が悪いのだと思い込んだ田南部は、直樹に言って早く涼佑を保健室へ連れて行くよう促した。
 涼佑が心配なのと体良く授業をサボれると思った直樹は二つ返事で涼佑に肩を貸す。こういう時は少々大袈裟なくらいで丁度良い。そうして涼佑を教室から連れ出した直樹は、未だ顔色が悪い彼を連れて保健室を目指した。



 肩を貸すのを止めるよう言う涼佑に「いいからいいから」と言って宥め、保健室に着いた直樹はいる筈の校医に声を掛けるが、どうやら出かけているようで中には誰もいなかった。涼佑を空いているベッドの傍まで連れて行くと、「先生来るまではいるわ」と言って漸く腕を放した。疲弊した様子でベッドに座る涼佑の隣に何気なく座り、「で、どうしたよ?」と訊く。

「お前があんなんになってたの、今まで見たことねぇし。何かあった?」

「話聞こかぁ~?」と冗談っぽく言う直樹にいくらか緊張が解かれた涼佑は、「オレ自身でもまだ信じられないし、頭おかしくなったのかもしれないけど」と前置きしてから先程の授業中に出会ったことも含めて、あの影の存在を話した。認めたくないが、もう認めるしかないと半ば諦めの境地で涼佑は相談してみたのだった。
 直樹は口を挟むこと無く全て聞き終えると、「そっか」とだけ呟いて暫く黙っていたが、やがて「俺はさ」と話し始める。

「俺はお前の話を聞いてるだけだから、正直全部は信じられない」
「……うん。オレも、逆の立場だったら、そう思う」
「でもさ、そうなると二通り考えられるんだよ。一つはお前の言う通り、本当に心霊現象に襲われてる場合と。もう一つは、さっき言ってたみたいに本当にお前の頭がどうにかなって幻覚を見てる場合。でも、そうなるとオレにできることって限られてくるワケ」
「…………うん」

 直樹の答え方を静かに聞いて、理解してもらえないかもしれないと内心で意気消沈し、俯いてしまう涼佑だったが、彼はそうは言わなかった。

「だから、可能性は全部潰せば、原因は自然と分かるだろ? だから、まずはお前が正常だと思う方から攻めてみようぜ。お前がおかしくなったなんて思いたくねぇもん」
「直樹……」

 普段のおちゃらけた彼から出てきた言葉とは思えないことを聞いて、涼佑は胸が温かくなるのを感じ、顔を上げて直樹の方を見た。間近で逆さになったあの影と目が合った。

「わぁぁあああああああああっ!!?」

 死に物狂いで直樹を突き飛ばし、殆ど飛び上がるようにしてベッドから離れ、半狂乱で保健室の出入り口へ向かう涼佑。突然、錯乱した涼佑に戸惑いつつも何とか落ち着かせようと直樹は「なにっ!? どうした?」と声を掛けながらも慎重に近付く。未だにベッドの上で逆さまになっている影から目を離せない涼佑は、枯れた声で悲鳴を上げ続け、怯えている。がたがたと震え始めた涼佑の傍に来た直樹は「大丈夫、大丈夫だって」とその背中を擦ってやる。
 そのすぐ後に涼佑の悲鳴を聞きつけたらしい校医と教頭が非常に慌てた様子で入ってきた。入り口で縮こまっている涼佑達を見付けた校医は、不審者でも入って来たのかと強張った顔をしていたが、部屋の中に何も異常は無いと気が付くと、「どうしたの? 大丈夫?」と優しく声を掛ける。気難しい顔をした教頭は眼鏡の奥から不審そうに涼介達をじろりと一瞥して「何もいないじゃないか。無闇に騒ぐのは止めなさい」とだけ言って、去って行った。どうやら、ふざけて騒いでいると思われたようだ。しかし、大事にされるよりは都合が良いと思った直樹は一瞬先程聞いた涼佑の話をしようかと迷ったが、信憑性に欠けると思った彼は涼佑の具合が良くないから連れてきた旨だけを話した。先程の様子から瞬時に察した校医は「ええ、そうね。少しベッドで休んだ方が良いかもしれないわね」と言って、すぐ近くのベッドを指す。先程まで二人が座っていたベッドだ。咄嗟に直樹は奥の方のベッドにしてもらうよう言い、特に断る理由も無い校医は好きなようにさせようと頷いた。

「だい、大丈夫だって、直樹。な? もう大丈夫だから。治ったから。だから、教室戻ろう? 大丈夫だから」

 瞳孔が開き、辺りを警戒し切った目つきで見回しつつもどこかびくびく怯えている涼佑をベッドに寝かせる直樹。しきりに「大丈夫だから」と譫言のように呟く涼佑に直樹はその顔を指して言った。

「お前は少し休め。先生もいるから大丈夫。寝ちまえば何も分からねぇよ。目閉じて、耳塞いでさっさと寝ちまえ」
「ひ……ひ……い、いやだ。一人にしないでくれよ……」

 絶望する涼佑に直樹は「しっかりしろ!」と喝を入れて、縮こまって震えているその背中をばんっ、と叩く。いつもなら多少なりとも痛がる涼佑だが、今はその余裕すら無いのか、興奮しているせいで痛みを感じないのか、しきりに周囲をきょろきょろと眼球を必死に動かして何かを捉えようとしている。

「放課後までに何か対策考える。その間にお前は休める時にしっかり休んどけ。何も考えるな。何も見るな、聞くな。気にするから見えるし、聞こえるんだよ」

 殆ど無理矢理涼佑をベッドに突っ込んでその上に薄い毛布を被せ、非情にも直樹は出て行ってしまった。

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