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「樺倉望は自殺なんじゃないか」

 一限目が始まるまでの休み時間。誰かが言い出したその説に、涼佑は密かに嫌な顔をした。朝から樺倉望が行方不明だと聞かされて、涼佑を含め、皆衝撃を受けて動揺している。だから、気持ちを落ち着かせる為にどうしても冗談にしたがる輩というのはいて、その生徒もそういったうちの一人だった。そして、そんな生徒に対して嫌悪を表し、持ち前の立派な正義感で以て注意する生徒もいるので、一人がもう一人に突っかかっていく光景が涼佑達のクラスでは度々あった。その様を横目に何て醜いんだろうと涼佑は厭に冷静になった頭で考える。あの告白を断ったのが原因で彼女が行方をくらましたのなら、その場合なら自分に原因がある。けれど、もし、そうじゃなかったらとどうしても考えてしまう。そうじゃなければ、もっと他に原因があるのではないか。そうだ、原因は何も自分だけに限った話ではない。
 そこまで考えて、はっと我に返った。醜さで言ったら、自分だって同じじゃないか、と。結局、自分も含めてこの教室には樺倉望という生徒をよく知っていて、心から心配している生徒なんていないじゃないかと涼佑は愕然とした。なら、全くその気が無くても彼女を受け入れるべきだったかと自問する。そうじゃない、とすぐに結論は出るのに折り合いが付けられない。樺倉望にそんな感情は抱いていない。つい一昨日まで彼女のことを知らなかったのだから、どのような感情を抱きようも無い。やはり、まだ頭が混乱しているのだろうかと涼佑は思う。まだ気持ちの整理が付かなくて、一見ぼうっとしているように見えても、頭の中は思考の大洪水だった。
 その時、唐突に耳に飛び込んで来た名前に涼佑はついそちらへ目を向ける。窓際にいた二人の女子生徒達が何やら話していたことが少しだけ聞こえたのだった。

「やっぱり、梶原さんが何かしたのかな」
「ね。あの子、付き纏われてたみたいだし。いじめられてたんじゃないの?」

 そこで唐突に肩に手を置かれ、びくっと驚いて振り返る涼佑に、後ろの席の直樹が言った。

「どうした? 大丈夫か?」

 心配の声に涼佑は動揺を隠そうと「ああ、うん」とだけ返す。そこでやっと一限目の授業開始のチャイムが鳴り、皆雑談を止めて自分の席に座り始めた。



 授業も中程まで進んだ頃、ふと誰かの視線を感じた涼佑は、そちらへ目を向けた。教室の引き戸、閉め切られているその窓から誰かが覗いていた。廊下から目立たないようにそっと覗き込んでいるその人の顔は涼佑にはよく分からない。真っ黒だからだ。顔の造作はもちろん、体と手の境界すら見えない真っ黒なシルエットがこちらをじいっと見つめていた。何だあれ、と涼佑は不思議な気持ちになる。あまりにも現実味を帯びていない存在に、却って恐怖は呼び起こされなかった。シルエットの背は小さいものらしく、引き戸の窓には丁度顔しか見えていない。廊下の窓から差し込む日光を遮るように、光を吸い込むように、そこだけが人の形に黒く染まっている。正体を見極めようとじっと見つめ返すと、あちらも涼佑に気付いたのか、ゆっくりと顔の角度が変わっていき、遂に目が合った。

「あ……」

 ヤバい、と本能が警鐘を鳴らし、思わずそんな声が彼の口から出た。理由も無く、気付かれてしまったと確信した。途端に体の自由が一切利かなくなり、指の間からシャーペンが零れ、ノートの上に転がる。指一本も動かせないのに意識だけははっきりとしていて、引き戸から目を逸らすことができない。金縛りだとは思った涼佑だが、どうすれば解かれるのか分からない。今まで金縛りになんて掛かったことが無いから尚更だ。涼佑がそうしている間にも、シルエットはゆっくり引き戸に顔を押し付けるような、妙な動きで涼佑の方へにじり寄って行こうとする。聞こえる筈が無いのに、彼の耳には確かにずり、ずり、とあの影が這っている音が聞こえていた。何故、教師もクラスメイト達も反応しないのかと眼球だけで周囲を見回す。彼らは数秒前と何ら変わらず、進む授業に板書を書き写しながら、ついて行っている。中には教師にバレないようにサボっている生徒もいるが、概ね真面目な生徒が多い。時間が止まった訳ではない。流れる時間の中で自分だけが異質なものを見て固まっているのだと、涼佑は感じると同時に恐怖を覚えた。もう一度、廊下へ目をやるとまた突然金縛りが解かれ、あの影もどこにもいなかった。
 それから放課後まで涼佑は度々、あの影を目撃した。廊下の角からこっちを覗くように立っていたり、ベランダからこちらを見つめていたりと、気が付くと『いる』のだ。最初に金縛りにあってからは、見つけても意識してそちらを見ないようにしようと思っていたが、何故か恐怖心故に見てしまう。そして、目が合うと必ずと言って良い程、金縛りに遭う。あれがまだ生きている人間が立てない場所に現れるのなら、幽霊だと判断し、お祓いにでも行こうと思えるが、そうではなかった。違和感を生まない場所からこっちを見つめるあれは、幻覚だとも思えるのだ。涼佑は「きっと疲れてるんだな」と無理矢理自分を納得させようとしていた。祖母の葬式に同級生からの突飛な告白、そして、今日の行方不明事件と立て続けに色々なことが起こったからだろう、と。その日は直樹に「帰ろうぜ」と声を掛けられて、涼佑は家路につくことにした。



 翌日、やはりあの影は学校でしか見えないようだった。昨日、家に帰っても文字通り、影も形も無かったので、涼佑は「あれは学校でしか見えないものなのではないか」と予想していたが、それが当たったようだ。正直、あの影が見えるということ自体、不気味で仕方ないが、それも学校にいる間だけ、しかもただ見つめてくるだけとなれば、まだ少し我慢できると彼は思った。なるべく無視する方向で今日一日を過ごそうと、涼佑は穏やかな生活を心がけた。そんな態度を取っていたからだろうか。遂にあの影は強硬手段に出た。 昼休みが終わってすぐの授業は移動教室なので、直樹と一緒に勉強道具を持って二階への階段を昇っている時、あの影は現れた。踊り場まで昇り、次の階段に足を掛けようとして感じた気配に、涼佑は何気なく目線を上げた。

「ひっ……!?」

 階段の一番上からこちらを真っ直ぐ見つめるような形でぼう、とそこにあの影が立っている。動くでもなく、ただそこにじっと立って、こっちを見つめていた。急に足を止めた涼佑を不思議そうな顔で振り返った直樹は「どうした?」と聞いてくるが、涼佑の耳には一切届かない。ただ、目の前の有り得ないものに釘付けになっているばかりだ。
 下りて来るんじゃないか。一瞬でもそう考えてしまうと、もうそうとしか思えなくなってくる。逃げようか。でも、どこへ? そもそも逃がしてくれるようなものなのか? そこまで素早く考えてどうするべきか途方に暮れていると、急に直樹が動いた。

「何してんだよ、早く行かないと怒られるだろ」

 昨日のクラスメイト達と同じように、直樹にもやはり全く見えていないようで、急に近寄って来たかと思うと容赦なく手を引っ張ってくる。止めろ。止めてくれ。そっちには行きたくない! 止まりかける呼吸を無理矢理機能させようとした涼佑は自分でも思ったより大声が出た。

「やめろっ!」

 叫んだ瞬間、あの気配は消えた。嫌な重い空気が去ったと思い、涼佑は恐る恐る階段の上を見る。そこには誰もいなかった。

「どうしたよ、マジで。急にデカい声出すからビビったわ」

 少し落ち着きを取り戻した涼佑はいつの間にか荒くなっていた呼吸を整えつつ、「ごめん。何でもない」と誤魔化して、足早に階段を昇った。その後ろから直樹が付いてきて、「先行くなよ」とか何とか言っている。だけど、それより彼の頭を占めていたあることで背筋が寒くなった。
 あの影、最初に見かけた時より距離が縮まっている。

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