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第百二十九話 火の守り(5)

 あの日からエリッツは緊張を強いられる日々を送っていた。何しろ視察の日がいつか教えてもらえないのだ。ダフィットには出発する日の早朝に連絡すると耳を疑うようなことを言われた。極秘の任務というのは常にそういうものなのかもしれないが、のんびりとした気質のエリッツには負担が重い。ただ特別な手当てがつくというのでそれはうれしかった。何だか期待されている気がする。そうとなったら手当に見合う仕事をしなければならない。
 とりあえずシェイルにもらった短剣をいつでも持ち出せるようにして、外出先でも報告書の下書きができるように持ち物を整えた。毎日気を抜かないように体を鍛え、仕事もこなし、「明日かもしれない」と心の準備もしながら眠りにつくのだ。
 中の間の離れで行われた打ち合わせの雰囲気からそう遠くない予定であることは予想でき、日が過ぎるごとに緊張が高まってくる。
 さすがにもうそろそろだろうかと思っていたある日、執務室にふらりとアレックスがやってきた。
 やはり丸い。室内で見るとより大きく感じる。
 エリッツは戸口にいっぱいなっているアレックスをじっと見つめてしまった。誰か付いていないのだろうか。仮にも王女様だ。エリッツは首を伸ばすがどうやら一人のようだ。
「私用で来たのよ。入ってもいいかしら」
 エリッツの疑問を察したようにアレックスはにっこりとほほ笑みかける。
「私用……と、言いますと」
 視察の件かと思ったが、お茶でも飲みに来たのだろうか。
「エリッツ、入ってもらってください」
 いつの間にか背後にシェイルが立っている。そうだ、王女様を戸口に立たせたままというのはすごく失礼ではないか。エリッツはあわてて一歩下がった。
「お邪魔します」
 アレックスが通り過ぎるとき何だか香ばしい匂いがした。
「お茶をいれてきます!」
 もうお茶のいれ方は覚えていた。前にアルヴィンにバカにされたおかげですぐに勉強したことの一つだ。ここでは客によってお茶のいれ方が違う。――と、いってもあきらかに違うのは殿下くらいで、決まったお茶の種類、お茶菓子など都度シェイルから指示があるので間違いようがない。だがアレックスはラヴォート殿下のお姉さんだ。殿下に出しているちょっといいお茶を出した方がいいのではないか。
 ちらりとシェイルを振り返ると、エリッツに小さくうなずいた。どういう意味だろう。まさか客人の前で「いいお茶を出しますか」と聞くわけにはいかない。
「どうぞ」
 相変わらずこぼさないようにお茶を出すのが苦手だ。
「あら、ありがとう」
 アレックスはふくふくとした指でカップの持ち手をつまむ。
「エリッツもかけてください。ついでに休憩にしましょう」
「え、でも……」
 私用といっていた気がするが、同席してもいいのだろうか。
「エリッツくんに会いに来たのよ。これ、この間のお礼」
 アレックスがガサガサと紙袋を取り出してエリッツにさし出す。何だかしっとりとあたたかい。それに先ほどの香ばしい香りが袋からただよっている。
「わぁ、いい匂い」
 紙袋をあけてみると、ぽってりとした大きな丸パンが二つ入っていた。持っている手のひらがほこほことあたたかい。
「この間、お昼ごはんのパンをもらっちゃったから」
「でもあれは……」
 落したパンで、しかも食堂で買ったさほど値の張らない小さなものである。人前で食事をするときは少ないじゃないかと心配されるのできちんと食べるようにしているが、一人で昼休憩をとる時はかなり適当だ。よく見もせずに売れ残っていた小さなパンを買ってきていた。
 ところがこのパンは焼きたてで大きくふっくらとして見るからに上等そうである。こんなものもらってしまってもいいのだろうか。困惑してシェイルを見ると、ちょうどエリッツの方を見てうなずいていた。
「エリッツ、せっかくなのでいただきましょう。いい香りですね」
 あのパンのお礼には過ぎたものだとは思うが、せっかくの心遣いを無駄にはできない。エリッツは「ありがとうございます」と袋を抱いて礼をいった。
「私の分もちゃんと持ってきたのよ。お昼には少し早いけどカウラニー様もご一緒にいただかない? 焼き立てのうちに食べないともったいないわ」
 アレックスは別の紙袋をとりだしてエリッツに見せるように掲げる。さらにピクニックにいくようなバスケットまで取り出してテーブルに置いた。バスケットを開くと中からカトラリー一式とジャムやバター、その他こまごまとしたものがぎっしりと収納されているのが見えた。本当にピクニックに出かけられるくらいの装備である。
「さ、パンを出して」
 エリッツはもらった紙袋からパンを取り出し、アレックスがさし出した皿にのせた。それをナイフで一口大に切ってくれる。断面からふわっと湯気があがった。
「どうぞ召し上がって。ここにバターとジャム、甘いクリーム、鶏肉のパテ、煮豆のペースト、野菜のグラッセも酢漬けも、まだまだいろいろあるわよ」
 アレックスはバスケットにしきつめられていた瓶詰を順番に取り出してテーブルに並べる。
「パーティみたいですね」
 シェイルがくすくすと笑った。確かにいつも書類でいっぱいになることが多い応接のテーブルが別世界のようである。
「カウラニー様の分もお切りしますわ」
「恐れ入ります」
 本当にアレックスはパンを食べて、ひとしきり世間話をしただけで帰っていった。
 アレックスの「世間話」はゼインとは違って上品で教養が感じられる内容だった。しかも小難しくなくておもしろい。
 エリッツがサムティカの出身だと聞くと、最近あの辺りで新しい花が見つかったという話をしてくれた。学者の話によると土の中で咲く花なのでずっと人に知られていなかったらしい。どんな花なのか見てみたい。毎年咲く花なのか、実はなるのか、まだまだわからないことがいろいろとあるらしい。他にもめずらしい動物や、気象現象など様々な話をしてくれた。
 視察の話題が出るのではないかと身構えていたエリッツは肩透かしをくった気分だ。ただ楽しいだけだった。
「さてちょっとゆっくりしてしまいましたね。午後は会議も入っていますから、早めに書類を片付けてしまいましょう」
 何ごともなかったかのように仕事を再開しようとするシェイルをエリッツは呼びとめた。
「あの、何だったんでしょうか、今のは」
 アレックスは何をしに来たのだろうか。昼食のパンのお礼だといわれても何だか腑に落ちない。シェイルは一瞬、考えるようなしぐさをしてから口を開いた。
「エリッツと仲良くしたいんですよ」
「それは……」
 政治的な意味合いだろうか。この間の打ち合わせのときにアレックスは点数稼ぎをしたいのだとダフィットがいっていた。シェイル、いや北の王がラヴォート殿下としか動かないという話だからエリッツを?
「何の得にもならない気がしますが」
 どう考えてもいいことがあるとは思えない。エリッツが首をかしげているのを見て、シェイルは小さく笑った。
「エリッツはアレックス様をどう思いますか?」
「え? まだよくわかりませんが、いい人ですよね。話もおもしろいですし」
「では仲良くしてさしあげてください。難しく考える必要はないんです。気に入った人と仲良くすればいいだけですから。誤解のないように言っておきますが、わたしもアレックス様のことは好きなんですよ。平和的な思想を持った器の大きな女性ですし、ラヴォート殿下に負けないくらいレジスのことを懸命に考えている方です。ただ王座はひとつなんです。わたしはラヴォート殿下に王座についていただきたい」
 シェイルとアレックスの間に特段軋轢があるようには見えない。むしろおだやかに会話を楽しんでいるようだった。シェイルもアレックスが好きだというのは嘘ではないのだろう。だが王座に関わるような決定的なところではアレックスの味方をしてあげることができない。シェイルはそういいたいのではないだろうか。
 エリッツはほっと胸をなでおろした。
 エリッツがアレックスのためにいれたお茶は殿下のための「いいお茶」ではない方のお茶だった。おそらくそれで正解なのだ。
「エリッツも自分でいろいろと考えて行動していいんですよ。わたしに気をつかう必要はありません」
 それはもしエリッツがアレックスの方が王座にふさわしいと考えたらシェイルを裏切ってもいいということをいいたいのだろうか。
「おれはシェイルのことが一番好きなのでシェイルと一緒にいられる方を優先すると言ったらおかしいですか? もちろん、ラヴォート殿下のことはレジスの王にふさわしい人だと思っていますし」
 頭の中がピンク色で何も考えていないと思われても困るので、あわててつけたした後半はおまけのようになってしまったが、シェイルに付いてラヴォート殿下と仕事をしてみて、すごい人だと実感したのは本当だ。これまで口が悪くて乱暴な面ばかり見えていたが、そっちの方が本当にリラックスしているときにしか出さない裏の顔だった。
 表では真面目で、立ち居振る舞いも優雅、指示は的確で、一を聞いて十を知るがごとく反応が早い。できる反面厳しさもあるが、行動を近くで見ているとやさしさがあるのに気づく。それが感じられるからなのか周りの人からはかなり慕われている様子であった。カーラからも事務官で悪く言っている人がいるという話は聞いたことがない。まるで絵にかいたような王子様である。このままレジスの王を継ぐと噂する人たちがいるのも納得だ。だがこのラヴォート殿下しか知らない人は裏でお菓子を食べながらエリッツを「クソガキ」と罵っているのを見たら卒倒してしまうのではないだろうか。
「エリッツ、ありがとうございます」
 何に対しての礼なのかわからないが、シェイルは軽くエリッツを抱きしめてすぐに身を離した。シェイルの体からはまだ焼き立てのパンの香りがする。
「え? 今のは何のご褒美ですか?」
「ご褒美って……」
 シェイルは笑いながら書類仕事に戻ってしまった。

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