前編
デペイズマンとは、シュルレアリスムに代表する表現方法の一つで、ある物質を通常では考えられない状況である場所に出現させ、見る者に驚異を与える──というものだ。空に浮かぶ唇、暖炉から飛び出す機関車、などがそれだ。
それから、ドラマや映画で飽きるほどよく出てくる手法──ある人とある人の中身が「入れ替わる」というものもある。
実はこの二つの表現が重なり合ったような出来事が、とある姉弟が住む世界に奇蹟のように現れたのである。今回は人ではなく、物と物が入れ替わった。それにより費用にささやかだけれど、デペイズマン──のようなもの──が生まれた、というわけだ。わけもなく剥ぎとられ、きまぐれに押し込まれた不可思議な文脈が、一体どんな効果を二人にもたらすだろうか。流れる血の鮮やかさまで浮かんでくるような痛々しい驚異でなければいいと私は願う者である。私だけがその奇蹟を知っているのだ。
一幕。
六畳のワンルーム。天井まで届く本棚にはマンガ本がびっしり。若い男がいて、彼の周りにも山と積まれている。
ふかふかのソファーが厚ぼったい彼の体を支えてくれ、美麗なキャラクターたちが隙間風が鳴く心を支えてくれる。誰がなんと言おうと、理想的な午後の読書タイムを彼は過ごしていた。この瞬間だけ、他のものはなに一つ必要ない──憚らずそう思えるのは、瞬間とは、めくられるページと同様にはかなく過去へ送られあっけなく消え去るものとわかっているから。
玄関のドアが二回叩かれる。男はたいてい居留守を使う。この貴重な午後はめくられるページのごとくはかなく消え去るものとわかっ──ドアが開き、女が──彼の姉が入ってきた。
男は首だけ起こして姉を見る。ひどく驚いているってことは伝えなければ。なんとしても伝えたい。
「いい天気ねー」女は機嫌よく言った。「こんな天気のいい日に家でゴロゴロマンガ読んでるってか? あんた本当に大学生? 青春は
「姉さん!」声にありったけの非難を込める。
「骨壺が見当たらないわね」わざとらしく辺りを見回す仕草。「本しかないじゃない」
「青春という言葉が若者のイメージカラーに違いないと疑いもなく口にするそなたの、及び世間の貧相な感性に哀悼の意を表します。断固として表しますよ。あなたの想像力こそ火葬場に行ったのではないかと、灰になったのではないかと──」
「この部屋、なんか臭くなーい?」
二幕。
女は「はい」とお土産の紙袋を差し出したが、弟がソファーと本の山から出てこようとしないので、テレビの前の小さなテーブルの上に置いた。
男はもぞもぞと微動した。顔はずっとしかめっ面。しかし「土産はなんであろうか。甘いもの?」と譲歩を見せる。
「そんなとこに埋もれていないで、こっちに来て……ほらっ」女はテーブルを指差す。「茶でも
「ちゃんと聴かせてください。あんこ系なのですか? クリーム系なのですか?」
「見なさいよ、自分で」女はため息をつく。
男が冷蔵庫を開けるなどの準備をしている間、女はマンガで築かれた
「良いものは良い、時代を超える全十八巻。今日はゆっくり『シグルミ』の世界に浸るつもりだった。それなのにそなたが約束もなく突然来てしまい──」
「私は断然、
男は一人さっさと席に着いて、早くも包みを剥いたひと口ケーキをむさぼり食いながら、喉に詰まらせながら言う。「姉さんはなにもわかっていない、なにも。ケホッ! ……男女の切ない機微が。ときに憎しみと愛情は同居し、二つは離れがたく密着するものなのです。愛しながら激しく憎む。万重はその葛藤から兵之助に清流を切ってほしいと
「あんた、彼女いたことないでしょう。それで愛だの語るわけ?」
女は本を元に戻して弟の前に座った。
「たまにはあんたの顔見ないと、生きてんのか死んでんのかもわかんないじゃん? 全然連絡よこさないしさ。それに、ちょっと相談もあってね……」
急にやわらぐ声色。自分を見つめる優しげな目。男は意表をつかれる。
「な、なひ……いやっ、なに。なによ。相談とか、聞いてないし突然だし」
「今言ってんのよ。事前に聞くとかどうやるわけ?」女は頬杖をつく。「あんたはさ、こうやって結構読書家だし……マンガでも。ちっちゃい頃から頭良かったもんね、意外に。大学はどうでもいいようなとこに入ってどうでもいいライフ送ってるけど。だから、なにかの折にはいいアイディアとか、おもしろい着想をしてくれるんじゃないかと期待していたのよ、私は。私は母さんや父さんや親戚や、その他あなたを取り巻くすべての人とは違ってちゃんとあなたに期待していた──」
「めちゃくちゃディスりますか、自分だけ持ち上がってますけど」
男は湯呑みのお茶をぐいっと飲んだ。落ち着こうという動作だった。
「ケーキ、おいしい?」
「相談って、」男は荒い息を吐く。「お、お金とかじゃないよね?」
女はにっこり微笑む。「間に合ってます。言ったじゃん。ただ意見を聞きに来ただけなんだって」
三幕。
男がケーキを四つ食べ終えても、話は先に進まなかった。プラスチックボトルから注いだだけの緑茶を女はちびちび飲み、部屋のどこか宙を眺めたり、ケーキをむさぼる弟を見ている。
「なんか、なーんか気になる。相談って言ってなんにも言わないし。人のことじっと見てさ。嫌だな。不快です。僕の顔になにかついてますか?」
女の息が聞こえた。「その、『顔になんかついてる?』ってさ、変な質問よね。ほんとについてたら黙って見てないで教えてあげない?」
「それは、常套句というか決まり文句のようなものであり──」
「目くそとか鼻くそがついてるんで言いづらいとか、そういうのはありそうだけどさ」
男は膝を揺らした。「ねえねえ、僕は『シグルミ』にも時間を使わなきゃならないので、こういう焦らすようなのはやめにしてほしい!」
「なに言ってんの! あんた!」女の方がより激昂する。テーブルが叩かれた。「さんざんケーキ食っといて。姉さんが僕の顔じっと見てるなと、それがわかってるならあんたも想像しなさいよ。なぜ黙っているのか。なぜ突然やってきたのか」
「ええーっ……」
四幕。
コンビニにマンガ本を買いに行って帰ってこられるくらいの沈黙の時間が流れたように男には思えた。意を決して口を開く。
「さっき世間の感性を死んでると大口叩いた手前へたは打てないというか、自分のハードルを上げてしまって汗にじんでるところなんだけれども、とりあえず、可能性は色々ありそうなんで三択にして発表してみたいと思うのですけれど、いいかな?」
女は先ほどとは違った目、なにか覚悟をした目、同時に、この状況をおもしろがるような目を弟へ向けた。
「いいわよ」ひと呼吸おいてから言った。「言ってみて」
男はコホン、と空咳をする。「えっと、一つ目は、なんか相談するつもりだったんだけれども、この弟を見て急に嫌気がさしてきて、もうやーめた、ばかばかしいわ、なに悩んでたかも忘れてしもうたわ! って感じ。で、二つ目。この前会社の健康診断で不治の病を宣告された。三つ目。実は不倫している」
姉はすぅーっと、少し背を反らせるまでして息を吸い込んでから、言った。
「最近の私、冴えてるのかね? ここに来て正解だったって気がしてる。あんたね、私の見込んだとおりだったわ。今の三択、ちゃんと正解があるわよ」
「えっ?」男は身を乗り出し、次の瞬間には眉が八の字になった。「姉さん、不治の病だったの?」
「ちが────────う!」