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第百十二話 真昼間の追跡(5)

「今出ていこうとしてるのに、そこの兄ちゃんがどいてくれないんだが」
 男は小馬鹿にしたようにニヤついている。
「頭が悪いね。そっちから回ればいいでしょう」
 イゴルデはまったく動じずに親指で別の通路を指す。
 ひゅうっとどこからか口笛が聞こえた。パーシーが周りを見ると、刺青の男がただ騒いでいただけのときは無視していた連中がギャラリーのようにこちらを眺めている。
 パーシーもこの店によく来るので知っているが、陽気で気風のいいイゴルデは荒くれた客たちにもかなり人気があった。イゴルデの雄姿を見ようと客たちはゲームを中断して野次を飛ばしている。
 都合が悪くなったのは刺青の男の方だ。怪しげな取引を終えさっさと帰ろうとしていたところで、これ以上にないくらいに目立ってしまっている。パーシーにとっては足止め成功といったところか。
「兄ちゃん、そんなヤツやっちまえ!」
「早く片付けろ!」
 つかの間時間が稼げたことに安堵していたパーシーは野次を聞いてうろたえた。
 どういう意味だ。辺りを見渡すと、酒を片手に客たちが煽るように口笛を吹いたり、手を打ち鳴らしたりしている。
 何を要求されているんだ。まさか役人のパーシーに暴力的解決を期待しているのか。見回りという仕事上多少は体術などを履修するが、基本的には自分の身を守りつつ軍に通報するまでの仕事だ。
 助けを求めるように、席を見るとジェフもザグリーもあきれたような表情でパーシーを見ているだけで、助けてくれる気配はない。当然だろう。役人が問題を起こせば査定にかかわる。
 さらに座敷犬はこの騒ぎの中でも姿勢よく眠っているし、ゼインは我関せずとばかりに背を向けたままだ。
 なんだこれは。どうしたらいいんだ。
「なんかごめんね」
 イゴルデはあまり申し訳なさそうではない表情でパーシーに笑いかける。
「みんな退屈してるんだよ。ちょっと遊んでやれば満足すると思うから」
 そう言いながらカウンターの方へ行ってしまう。
「うるせぇぞ、てめぇら黙ってどきやがれ」
 癇癪を起した刺青の男はもはや通路を埋めてしまっているギャラリーを無理やり押しのけようとして、押し返されるという無為な動きを繰り返していた。
「観念しろ。もうやらなきゃどうにもならん」
「騒ぐなよ。かえって目立つ」
 先ほどの取引相手と思われるボードゲームの二人も困惑の表情で刺青の男を見ている。
「ここではね、喧嘩はゲームで勝負をつけるの」
 イゴルデがボードゲームの台をパーシーの前のテーブルにどんと置く。
「いや、あの、喧嘩というほどのことではないんですが。困ったな」
 ダウレの盤だ。ルールは知っているが、その程度だ。だが時間さえ稼げればそれでいいと思いなおして、しぶしぶ席に着く。そもそもゼインが動かないので、時間を稼いでどうすればいいのかわからない。
 パーシーが席に着くと、周りから歓声があがった。本当にみんな暇なんだな。
 見るとジェフとザグリーもパーシーを指さして興奮したように声をかけ合っている。知り合いがショーに引っ張り出されているのを遠くから眺めるのはさぞおもしろいだろう。
 観念したように刺青の男も舌打ちしながら席に着く。その途端、波立つようにギャラリーが動いた。
 賭けている。
 背後で紙幣やコインが行き交っている気配を感じた。
 刺青の男は不機嫌そうにしながらもダウレの駒を手早く並べている。時間が稼げると思っていたが、駒を扱う手際を見る限り強そうだ。先ほどボードゲームを熱心に観戦していたのも演技だけとは思えない。おそらく好きなのだろう
 パーシーは改めて男を観察する。やはりこの店の中では取り立てて目立つ要素がないが、もしかしたら元軍人なのかもしれない。中肉中背だが引き締まった体をしている。それに軍人にはボードゲーム好きが多い。
 時間を稼ぐどころか恥だけかいて瞬殺されるかもしれない。もたもたと駒を並べていると、さっそく「早くやれ!」という野次を浴びる。
 なんでこんなことになったんだろう。
 パーシーの手つきを見ていたためか、刺青の男が余裕の表情で先手を譲ってくれる。先手をとったところで、定石すらたどれるかどうか怪しい。
 案の定、パーシーが駒を進めるたびにギャラリーから落胆の声がもれる。同僚の前で上官から叱責を受けるよりも居心地が悪い。
「やり直せ! 別のゲームか、蛇男の駒を抜け!」
 おそらくパーシーに賭けたのであろう野次馬から怒声があがる。当然、周りを巻きこんでの騒ぎが勃発した。パーシーが弱いばかりにより騒がしくしてしまったが、この状況では刺青の男も席を立てない。イライラと足をゆすってパーシーを睨みつける。
「弱くてすみません」と、パーシーは肩をすくめてそれに応えた。
「まだ詰んでないですよ」
 耳元で誰かがささやく。この声は――。
「座敷犬さんっ」
 ふり返るとさっきまでお行儀よく眠っていたゼインの連れが背後にいた。やはり外套を羽織りフードを目深にかぶっている。もしかして指名手配犯だったりしないだろうか。
「座敷犬……」
 何だか少しかなしそうな声で反芻するので、パーシーは申し訳ない気持ちになってしまった。そう呼んだのはゼインである。
「相手に恥をかかせるための手筋です。かなり強いみたいですが、おれ、こういうの好きじゃないです」
 背後ではまだ「ゲームをやり直せ」という連中と「待ったなしだ」という連中でもめていて、座敷犬とパーシーの会話に気づいている様子はない。
「さしつかえなければ、言うとおりに打ってくれませんか」
「さしつかえるものなんて何もないよ」
 別にパーシーはボードゲームにそこまで思い入れはない。恥をかかせるための手筋というのもまったく気づかなかったどころか、こんな一方的に負かされそうになっていてもさして恥とは感じていない。
「時間を稼いで欲しいと言っている人がいるので、少しまわりくどい打ち方になりますが」
 座敷犬は申し訳なさそうな声でささやくと、パーシーの背後から椅子の足を軽く蹴ったり、椅子の背で指をはじく振動で進める駒と盤の位置を伝える方法を提案した。少し時間はかかるが、いけそうだ。後は背後がこれまで通り大声で騒いでいてくれれば問題ない。
 時間を稼げと言っているのはゼインだろう。やはりこの方針で間違っていなかったようだ。
 静かに椅子から振動が伝わってくる。集中してその数を数え、間違えないように慎重に駒を進めた。
 しばらくギャラリーはパーシーがゲームを再開させたことすら気づいていなかったが、やがて「まだやんのか」「やめとけよ」と揶揄するような声があがりはじめる。しかしそれは徐々に困惑の声に変わっていった。
「なんだぁ? 案外やるじゃないか」
「あそこから巻き返したのか」
「おい、さっきの賭けまだ生きてるよな。俺はあの兄ちゃんに賭けたぜ?」
「さっきのは余興かよ? オツなことしてくれる」
 ギャラリーは先ほど以上の盛り上がりを見せる。このイカサマに気づかれる心配が減って何よりだ。どうやら座敷犬は相当な腕前らしい。
 刺青の男も椅子に斜めに腰かけて面倒くさそうに打っていたくせに、いつの間にか座り直して前のめりに盤を睨んでいる。真剣そのものだ。
 パーシーには盤上で何が起こっているのか詳細にはわからないが、勝ちに手が届くところまで来ているのは感じる。
「おい、さっきから何だ。なぜ詰みに持っていける手を外している。気づいていないわけないよな」
 刺青の男はテーブルを叩いて怒鳴る。
「それで九回目よ」
 すかさずイゴルデが注意するが、男は聞こえていないような態度でパーシーを睨む。
「いや、うーん、気づかなかった。どこで間違えたかな」
 パーシー自身は本当に気づいていない。おそらく座敷犬はゲームを長引かせようと詰ませないように打っているのだ。かなりの余裕である。
「あのさ、馬鹿にされてんじゃないの。まどろっこしいよ。そこ、代われよ」
 刺青の男の後ろで観戦していた取引相手の一人が強引に席を奪う。強い相手とゲームがしたくて仕方ないらしい。だがそんなことをしたら刺青の男が立ち去ってしまうではないか。
「それはずるいよ。ねぇ?」
 パーシーはなんとか交替を阻止しようとギャラリーに問いかけるが、パーシーの思惑通りにはいかない。
「蛇男より強いなら面白いもんが見れるな」
「このままじゃ負けが見えてたから都合がいいぜ」
「いやいや、あの兄ちゃんは相手が代わっても勝つだろうよ、なぁ?」
 だが席を押し出された刺青の男は食い入るように盤上を見ていて立ち去る気配がない。駒から駒へと視線を走らせ未練がましく活路を見出そうとしているようだ。みんなどれだけゲームが好きなんだろう。
「ずるいのはどっちだよ」
 交代した男は真っ直ぐに座敷犬を指さす。
「さっきから打ってるの、その人だよね?」

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