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第百三話 黒い狼(2)

「これはどういうことだ!」
 手近にいた兵の腕をひっぱる。もう少し背丈があれば、胸倉をつかんでいただろう。
「あ、殿下、いや、これは、その」
 何を責められているのか理解できないようで、兵はしどろもどろになり周りに助けを求めて視線をさまよわせる。
「まだ子供ではないか。なぜあんな惨い真似をするんだ」
 捕虜で騒いでいるというので帝国軍の将軍でも捕らえたのかと思って見ればラヴォートとそんなに歳の変わらぬ少年である。
 確かに帝国軍の軍服を着ているが、体中に怪我を負い衣服は破れ半裸になっている。特にわき腹の裂傷はひどく骨が見えるのではないかと思われるほどだ。
 そんな大怪我にもかかわらず、少年はその白い肌に鎖を食い込ませ太い丸太にしばりつけられていた。しかも鎖は何重にも厳重に巻かれ、怪我負っているところもお構いなしに鎖が食い込んでいる。
 左腕はさらに細い鎖と麻ひもで一切動かないように固定されていた。
「あれでは血が通わない。すぐに怪我の手当てを。捕虜とはいえあのように扱っていいはずがないぞ」
 ラヴォートは兵に激しく詰め寄るが、兵は困ったように周りをうかがい、魚のように口を開いては閉じることを繰り返している。
「――ルゥ、お前は何をしている」
 見ればルーヴィックはうっとりと少年を見つめてため息などをついている。
「ラヴちゃん、あの目を見てよ。あの狼の目と一緒だ。美しいなぁ」
「何を悪趣味な――」
 突然、ラヴォートの視界がかげる。
「ラヴォート殿下、これを差し上げますので、お部屋にお戻りください」
 見ればかなりの大男が、油紙に包まれた菓子らしきものをさし出している。汚れた装備や軍服で今日戦地から戻ってきた兵の中の一人だと思われた。
「無礼な。誰だお前は」
「失礼しました。この隊の隊長を任されております。ラウルド・シャンディッシュと申します。この人ごみは危険です。さあ、これを持ってお戻りください」
 ぐいっと油紙をラヴォートにさし出す。包みはきちんとルーヴィックの分と二つあった。
「――何だ、これは」
 菓子で釣ろうという発想は頭にきたが、気にはなる。
「トフィーです。王城では手に入りませんでしょう。内密に願います」
 木の実と飴とバターで作った市井の菓子である。ラウルドの言う通りこういった下々の者が口にするような菓子などラヴォートが手にする機会は少ない。食べたことがないこともなかったが、偶然従者から入手したひとかけらだけだ。
 おそろしく甘いが木の実とバターのコクが豊かでただ甘いだけの菓子ではない。大男の手のひらにすっぽりとおさまっているそれは決して小さなものではなかった。少なくともひとかけらということはない。
「うむ。もらおう」
 ラヴォートは素直に包みを受けとった。ずっしりとした重みに笑みがこぼれそうになり、あわてて唇をかみしめる。
「だが説明はしてほしい。シャンディッシュ隊長、我が国は捕虜にこのような非人道的な扱いを許しているのか」
 ラウルドは大きく眉根を寄せた。
「後ほど従者に報告させますが、理由があってのことです。殿下のお耳に入れるにはいささか問題がありますが、あの捕虜は殺し過ぎました」
「あの子供ひとりに我が軍の兵が多くやられたというのか」
 ラウルドは大きくため息をつくと、ラヴォートの手から菓子の包みを取り上げた。「ああっ」と思わず悲痛な声がもれてしまい、その恥ずかしさに小さくうつむいた。
「殿下、約束を違えるのも人道的とはいえません。ちなみにあの子供が殺したのは帝国兵です。おそらくですが師団ひとつをほぼ壊滅させ、今回の小競り合いが一時的に収まったということになりますね。さあ、部屋に戻ってください。あの捕虜の命はわたくしラウルド・シャンディッシュが保証します。後できちんとした報告もさせていただきますから」
 そういってラウルドは再度ラヴォートの手のひらに菓子を持たせてくれる。
「うむ、邪魔をしたな。報告を待っている。くれぐれもあの捕虜の命をおびやかすことがないように頼む」
 ラヴォートは受けとった菓子をしっかりと胸に抱いた。
 ルーヴィックはまだ熱っぽい目であの少年を見つめている。ラヴォートもちらりとそちらに目をやった。
 先ほどは体に負った痛々しい傷にばかり目がいっていたが、たしかにルーヴィックのいう通り美しい少年だ。血液で固まった黒髪が白い頬に張りついている。肌の白さと黒髪と血液の赤が絵画のようにあざやかだ。おびえた様子はなくむしろ冷めきった目でひたと前方を見すえていた。
 言われてみれば野生動物にも見える。あんな怪我を負っているのに命乞いする気配は微塵もなく、それどころか手を出せば噛みつかれそうだ。まるで手負いの獣。あのように縛りつけた兵たちの気持ちもわからなくはない。
 バイリヨンの黒い狼か。見ていると妙に居心地が悪い。
「ルゥ、もう行くぞ」
 意外にもルーヴィックは素直にうなずいてラヴォートの隣を歩きはじめる。
「ラヴちゃん、お菓子をもらえてよかったね。ボクの分もあげるからね」
 あんなに熱心に捕虜を見ていたのに、ラヴォートとラウルドの会話もきちんと聞いていたのだ。
「お前のほどこしは受けない」
 ラヴォートは胸に抱いていた菓子の包みをひとつルーヴィックに押しつける。
「そう? ああ、あの狼は菓子を食べるかな。どうやったらボクのものになるだろうか」
 ルーヴィックの考えていることはやはりわからない。
「ルゥが言っているのはあの捕虜の子供と友達になりたいという意味か?」
 ルーヴィックは歩きながらもぽかんとした顔でラヴォートを見る。
「そうじゃない。ボクのものにするんだ。ラヴちゃんは子供だからまだわからないとは思うけど。想像してごらんよ。あのバイリヨンの黒い狼をすっかり手懐けて足元に座らせるんだ。ぞくぞくするよ」
 何を言っているのかまったくわからない。そもそもあれはどう見ての狼ではなく人間の子供だった。
 今度はラヴォートの方がぽかんと口をあけているのを見て、ルーヴィックはケタケタと妙な声をあげて笑い出す。
「ラヴちゃんはかわいいなぁ。ほら、やっぱりお菓子をあげるよ。ちゃんとお部屋に戻って勉強するんだ。あのおじさんにはラヴちゃんを返すと言ってしまったけどこんな騒ぎになっては仕方ないよね」
 一方的にそういうと菓子の包みをラヴォートの手に押しつけて、上機嫌でどこかへ行ってしまった。
 兄に子供扱いをされてもさほど腹が立たない。なぜなら理解できないのは兄が真正の奇人であるためで、ラヴォートが子供だからではないという確信があったからだ――と、そのときはそんな風に思っていた。

 その夜、ラヴォートは夢を見た。
 昼間に見た光景の刺激が強すぎたのだろう。大怪我を負い鎖でしばりつけられたあの捕虜である。あの時はラヴォートの方を見てはいなかったが、夢の中ではじっとあの獣じみた目でラヴォートのことを見ている。白い肌についた傷は生々しく血で濡れ、鎖の食い込んだところは桃色に色づき、呼吸のたびにその色味を変化させた。
 見ていると体の中心で炎がくすぶっているかのような熱いうずきが生じてくる。鎖を解いてやりたいがずっと見ていたいような気もする。
 どうすることもできず、ずっとその少年を見つめていた。目をそらしたら負けだと直感的に知っていたが、ラヴォートは居たたまれなくなり目をそらした。少年が笑ったよう気配がした。

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