第百二話 黒い狼(1)
大勢の人間が騒ぎながら走っている気配がする。
稽古場の兵士たちはあえて加重した訓練用の剣でいつ終わるともわからない素振りを繰り返していた。稽古場を取り仕切るドイデュエル指導長官が「やめ」と言うまで素振りは続くはずだったが、騒ぎで兵士たちの気もそぞろになる。
「貴様らは戦場でもそのように気を散らすのか。死ぬぞ!」
ドイデュエルが活を入れる。いつもよりも素振りの時間が長い気がする。
現レジス王の血を引きまだ幼いラヴォートであっても扱いは同じだ。大人に混じっての訓練は厳しいものだったが、机にしばりつけられての勉学の時間よりはいくぶんマシだった。
しかし兄のルーヴィックは逆のようで剣の稽古は早々にやめてしまい自室で怪しげな研究にうつつを抜かしている。いや、学ぶべき学問をすべて履修してしまい手持無沙汰に何かやろうと模索しているという方が状況としては正しいのかもしれない。
「まだ騒いでいるのか。一体何ごとだ。お前ちょっと様子を見てこい」
ドイデュエルのイラ立ちは頂点に達したようたようで最前列で剣を振るっていた新兵に向かって言い放つ。
その兵はもう限界だった。もうずいぶん前から腕があがっていない。ドイデュエルは単なる鬼長官ではなかった。人をよく見ている。
やはりほっとしたようによろめきながら隊列を離れていく新兵の後ろで数人が「あいつ助かったと思っているぜ」「これでもう出世はないのにな」と陰口を言い合っている。
その通り。
単なる鬼長官ではなくクソ鬼長官である。明日の稽古場にあの新兵は現れないだろう。
「殿下、私はそのように教えましたか? 利き腕の力に頼り過ぎてはいけません。それから腰をもっとしっかりと据えてください。足で立つのではなく腰で立つイメージで」
ドイデュエルはラヴォートの周囲をまわりながら細かいところを直してゆく。鬼だが指導に関しては定評が高い。特にラヴォートに対しては王子ということもあり熱心に指導する。ラヴォートにとっては煩わしいことであったが、勉学もさして興味がないのでせいぜいこちらに打ち込んでいるふりをするしかない。ラヴォートに期待を寄せる母や母の実家の者たちには申し訳ないが王位にもさして興味をもてなかった。
ただ陛下ゆずりの才覚があるようで何をやってもうまくいくし、母ゆずりの美貌にも自覚がある。ラヴォートは十一という年齢で既に自身の万能さを持て余し、適度に手を抜き歳相応に子供らしく振る舞う方が楽であることを学んでいた。
だがこのままではラヴォート以上に王位に興味のないルーヴィックをとびこえて、蛇のように王位を狙う姉のエイミアに睨まれることになるだろう。
レジスでは長く男が王位を継いでいたが、エイミアは実力主義を前面に押し出しわずか十五にして大人顔負けに議論を戦わせ法改正にまで乗り出している。
そもそも男が王位をつぐことに関して過去の資料から明確な根拠が見当たらず、それどころか遥か大昔にさかのぼったところ何人かの女王の存在が確認されたと聞く。
命を狙われず平穏に過ごすためにはもう少し愚かな子供を演じた方がよいのかもしれない。
「ドイデュエル様!」
先ほどの新兵がやはり足をもつれさせながら戻ってくる。
「まだ騒いでいるな。それで何があった」
「数日続いていたラインデル帝国との国境での小競り合いが一旦収まったようで一部の兵たちが戻っています」
「それだけのことか」
戦時である。ラインデル帝国との小競り合いなど日常茶飯事だ。帝国はレジスに侵攻しようと連日仕掛けてくるが、レジス側では防衛を第一としている。そのためまだ余力がある。このように一部の兵が訓練をしながら待機し、交代で戦地に赴く。帝国も大国であるため決して楽観はできないが今すぐにどうこうということはない――と、大人たちは子供のラヴォートに説明していた。
「あ、その、帝国軍の捕虜が――」
「それが騒ぐようなことなのか」
ドイデュエルは短気だ。
「兵が国境から戻ってそこに帝国の捕虜がいるのだな。それで皆は何を騒いでいる。ゆっくりでいいから言ってみろ」
ラヴォートが剣をおさめつつ新兵に問うと、ドイデュエルは勝手に素振りを中断したためか軽く眉をひそめながらも「殿下にご説明しろ」とうながす。
新兵がとまどいながらも口を開きかけたところで、遠くから間の抜けた声が聞こえてきた。
「ラヴちゃーん、大変だよぉ。ラヴちゃーん、剣なんて振りまわしてる場合じゃないよ」
ドイデュエルが今度は盛大に眉をひそめる。ルーヴィックはとにかく大人たちからの評判が悪い。もはや普通の大人では太刀打ちできないほどの博識だ。もっとうまく立ち回ればいいものをと思うが、根っからの変人でそういった常識的な話がまったく通じない。
「ちょっとそこのおじさん、ラヴちゃんを借りていくね。後で返すね」
「お、おじ……」
さすがのクソ鬼指導長官も青筋を立てたまま言葉を失う。ルーヴィックはすでにそちらには見向きもしないで、ラヴォートの手をひっぱり駆け出す。
「ボクはね、美しいものが好きなんだ。あれは絶対にボクのものにするよ」
話が見えないがかなり興奮している。よくあることで説明を求めてもまともな返事は期待できない。
「ラヴちゃん、狼だよ。いつかパパと狩りに行ったときに見ただろ。バイリヨンの森の王、黒い狼だよ」
そういえばそんなこともあったとラヴォートは思い返していた。鷹狩りには関心がなさそうにしていたルーヴィックが急に「あれをとってくれ」と大騒ぎしたのがその大きな黒い狼だった。森に詳しい従者があれは森の王で狩れば障りがあるのであきらめて欲しいと、こんこんと説いたがルーヴィックは泣いて食い下がった。
周りはそのやりとりに辟易し無視していたが、それは長いこと続いていた。結局肝心の狼の姿が見えなくなったことで決着し、ルーヴィックは泣き疲れて眠ってしまったのだ。
しかしこの戦時に誰が森に狼など狩りに行くのだろうか。それとも何かの比喩だろうか。聞いてもどうせ理解できる言葉で返事はこない。ラヴォートは黙ってルーヴィックに手を引かれていた。
そうこうしているうちにも、辺りから騒ぎながら人が出てきては走ってゆく。兵舎の方だ。
「ルゥ、どこへ行くんだ」
「あっちだよ」
やはり稽古場の裏にある兵舎を指さしている。そこはすでにかなりの人だかりになっていた。何人かの兵たちが野次馬を追い払おうと躍起になっていたが、ほとんど功を奏していない。
「なんだ。何事だ」
ラヴォートがその兵の一人をつかまえて問う。
「殿下、このような人の多いところにお一人では危険です。護衛をお呼びしますので……」
「わかった。頼む。だが、何の騒ぎなのか確認したらすぐに戻るつもりだ」
兵は一瞬言葉に詰まるが、説明をした方が早いと判断したようだ。
「――兵舎の庭に帝国兵の捕虜を一時的に置いているのですが、野次馬が多すぎて牢まで運べないのです」
「捕虜がそんなにめずらしいのか」
「めずらしいよ、とても美しい狼だもの」
ルーヴィックがうっとりと目を潤ませる。
「ルゥ、黙っていてくれ」
「ラヴちゃんだって、見ればわかる」
人ごみなどお構いなしにどんどん入っていってしまう。ラヴォートはあわててルーヴィックがかき分けた人々の間を進む。
「殿下、お待ちください。護衛を――」
先ほどの兵の声はすぐに人々のざわめきにかき消されてしまう。
「なんだあれは」
ラヴォートはあまりのことに息をのんだ。