第八十一話 頼み
帝国軍がいるであろう山道とは別の道を使いエリッツは精鋭の術兵たちとコルトニエスを目指していた。
てっきりマルロの方へ行くように指示されると思い込んでいたが、そちらにはジェルガスがいるため話がややこしくなるとコルトニエスの方へ回された。確かに将軍の弟とはいえまったくの素人である。エリッツのことをそれなりの軍人だと信じ込んでいる歩兵たちとは離れて行動したい。取りつくろうにも限界がある。エリッツ自身は恥をかいても構わないが、兄たちに迷惑がかかるのは避けたかった。
道は細く険しい。それに暗くなってきている。進めるのもあとわずかな時間だけだろう。エリッツは無意識に胸のあたりに手を当てた。考え込みがちだがそんなに悲観的な方ではないエリッツもさすがに気がふさぐ。
シェイルやアルヴィン、そしてダフィットもコルトニエス行きだ。マルロは囮であるとわかった以上、あちらの人員は必要最低限であればいい。ただおろそかにはできない。
ラヴォート殿下は今いる兵たちと町内会の人々を率いてマルロまで引き、ジェルガスと相談のうえ一部の兵をレジス市街へ回せないか検討するといっていた。もしコルトニエスをとられた場合、例の近道を通った帝国軍がレジス市街へなだれ込んでくるだろう。その万が一の事態にそなえる必要がある。
カルトルーダは山道にも強い。役目はほぼ終わったので、兄に返すことになるだろうと思っていたがこのままエリッツが乗っていてもいいらしい。いい馬なのでありがたいが例の衣装もそのままである。単純に着替えたり馬を変えたりするくらいなら少しでも先に進めということなのだろうが、この衣装の派手さには辟易する。間違って首を狙われるのではないだろうか。いや、「間違って」ではなくあたりまえのように狙われるだろう。エリッツが敵兵でも目立つ兵が指揮の要と見て討とうとするに違いない。
北の王の姿をしたシェイルがすぐそばで馬を走らせているが、あれからずっと黙っている。移動中はしゃべる余裕がないとはいえ、いつもなら何か言ってくれるような場面でも無言である。
ロイの王弟の話題が出てからずっと様子がおかしい。
エリッツは先ほどの一連の会話を思い出す。さすがのエリッツもあれこれ質問をさしはさめる雰囲気ではなかった。ラヴォート殿下は帝国軍のはっきりとした証言でレジスの汚名をすすぎたかったのだろう。捕虜となったフィクタールがかつて王弟を討ったラインデルの第四師団であったのはまたとない機会だったに違いない。しかもロイの人間が聞いている前だ。
だがエリッツの気鬱の原因はあの後のことだった。
突然殿下に呼ばれ「将軍の馬を見せろ」と言われたのだ。カルトルーダは確かにいい馬だが見ている暇があるのかと首をかしげていると、即刻その藍色の目ににらみつけられたので無言で従った。とはいえカルトルーダは兵に預けてしまったのでどこにつながれているかわからない。
「あ、あの、えーっと、どこかな」
エリッツがきょろきょろと辺りを見渡しているとラヴォート殿下がエリッツの腕をつかんだ。
「馬はいい。少し頼まれてくれないか」
殿下にそんな風にいわれると身構えてしまう。頼みごとなら側近のシェイルにしてくれたらいいのに。エリッツとは桁違いに仕事ができる。それに失敗して叱られたくない。
「なんでしょうか。おれにできることなんですか」
こわごわとその長身を見上げると、ラヴォート殿下もエリッツを見ている。おそろしくて目をそらしたくなる。
「ずいぶんと顔色がよくなってきたな」
「おかげさまで。肉を食べるようにしていますし」
ラヴォート殿下にははちみつをもらった恩がある。そういえばやせていると心配してくれていたとシェイルから聞いた。思い返してみれば娼館でもやたらと食べろ食べろと言われていた気がする。わりと本気で気にかけてくれていたのかもしれない。
エリッツが恐縮しているのもさして気にとめず、ラヴォート殿下は懐を探り何かを手に取った。
「これを持っていろ」
エリッツが手のひらを出すと、殿下はシンプルな作りのリングをそこに転がす。
エリッツとてそこまで鈍くはない。今まで見聞きしたことを鑑みるにこれはレジスの術兵が使っているものではないか。だが先ほど見た術兵たちがつけていたごついものよりもずっと細くて繊細なつくりだ。
「これが何かわかるか」
「わかりませんが、術兵のものですよね」
ラヴォート殿下は軽くうなずく。
「ヒルトリングという。レジスの術士が他国より圧倒的に統率が取れている理由がこれだ。ちなみに開発したのはルーヴィック王子だが、残念ながらすでに他国でもこのリングは模倣されもはやレジス軍のみの兵器とはいえない。いや、ド素人のお前に一から説明している暇はないな。とにかくそれを持っていろ。何かあったらあいつに渡せ」
エリッツは手のひらに熾った炭でも置かれているように手を引っ込めた。
「何をやっているんだ」
「これってさっきシェイルが指切り落としてでも拒否しようとしていたものではないんですか」
ラヴォート殿下は無言で人差し指を地面に向ける。落したリングを拾えということだろう。しかたなくエリッツはしゃがみこんでリングを拾う。ラヴォート殿下に返したかったが当然のことながら受けとってくれる気配はない。
「前も聞いたんですが、シェイルは術士なんですか」
「術士ではない」
リファの娼館で聞いたときと同じ答えが返ってくる。
「ではなぜこれがいるんですか」
先ほど術士の使うものだと言ったではないか。エリッツは思わず唇をとがらせてしまう。殿下の口が悪いのでつられてしまった。
ラヴォート殿下は面倒くさそうに大きなため息をつく。
「うるさい。黙って持っていればいい」
そう言うと思った。エリッツもあきらめのため息をつく。どうせ理解力がないし、殿下の頼みごとを断る権利もない。エリッツはぎりぎり許されるであろう反抗の表現としてことさらゆっくりとヒルトリングを懐にしまう。
「そうだな。『術士ではなくなった』と言うべきか」
エリッツの心中などお見通しなのだろう。ラヴォート殿下が明後日の方を向いたままさりげなく言葉を足した。飛びつくのは癪だが好奇心が抑えられない。「術士ではなくなった」ということは術士だったということか。
「術士って途中でやめられるものなんですか」
ラヴォート殿下はぐっと顔を寄せてエリッツの目をのぞきこむ。その輝かしいかんばせにまぶしさを感じてエリッツはぎゅっと目つぶった。
「あいつがわざわざそばに置くだけあって、お前はかわいいな」
完全に遊ばれている。
「あいつの指を見たことあるか。左手の中指、術士たちがヒルトリングをしている指だ」
エリッツはハッと目を見開いた。はちみつのついた指をたっぷりと堪能させてもらった際に気づいた。シェイルの左手の中指には深い傷跡が残っていたのだ。
「その顔は知っている顔だな。あいつは前にも今日と同じことをした。陛下の目の前で術脈を絶ったんだ。理由は本人に聞けよ」
「術脈……?」
新しい言葉にエリッツはさっそく首をかしげる。
「ここが術士の要だ」
ラヴォート殿下が左手を大きく広げて中指の付け根をとんとんと右の指先でたたく。シェイルほどではないにしろわりと好みの手だ。手のひらが大きくて形がよい。指先の形が特にきれいだ。
「おい、なんだその目つきは」
ラヴォート殿下の鋭さは尋常じゃない。エリッツはあわてて顔を引きしめる。
「中指に通っている術脈を絶てば、術は使えなくなる。ヒルトリングはもともと外傷から術脈を守る防具だった。だが今その話はしない。あのデブにでも聞いておけ」
呼吸するようにアルヴィンをデブ呼ばわりする。
「とにかくヒルトリングがあれば、術脈を絶った者でも術を発動させることは可能だ。絶たれた脈をリングがつなぐ」
「でもものすごく嫌がっていたじゃないですか」
エリッツはシェイルに嫌われたくない。こんなものを渡そうとしたらさっきの殿下のように首を絞められるのではないか。
「あいつが嫌がっているのはレジス軍の正規のヒルトリングだ。力が増幅される代わりに公式の術式以外は発動しないよう制限される。しかも指揮官の許可なく攻撃することはできない。まさに首輪だ。だがそれは違う」
ラヴォート殿下はエリッツの胸元を指さす。反射的にエリッツもヒルトリングをしまった懐に手を当てた。
「いいか。絶対に落とすなよ。俺がそんな違法なリングを側近に下賜したとバレたら一巻の終わりだ」
あまりにも重大すぎる頼みごとだ。エリッツのことを信用し過ぎではないか。早くも胃が痛みはじめる。