第五十八話 土産
計ったようなタイミングでエリッツは窓の外に人影を見つけた。兄の部屋を出てすぐのことだ。
あれはリークに違いない。
別に不審なことをしているわけではない。庭の片隅で跳躍をしたり、体を伸ばしたりしている。眠れないのだろうか。ただ体を動かしているだけだ。やがてどこから調達したのか木の棒を短剣のようにふりおろす動作をくり返す。
エリッツは気が重くなった。ローズガーデンは明後日で、それが無事に済んだらリークたちはコルトニエスに帰るのだろう。エリッツが今さらリークと話をして何になるのか。明後日すべてが明るみに出る可能性も高い。ただ、そのときはクリフが職場を失い、悪くすると処罰の対象になっているということもありえる。見なかったことにして寝てしまおうかとも思ったが兄の頼みを無視することができなかった。
夜はやはりまだ冷えこむものの春の気配は濃厚だ。薔薇の香りが庭にただよっている。月の光も明るくていい夜だった。
「リーク、眠れないの」
おそらくエリッツが話しかける前から気づいていただろうが、リークはかまわずに膝を曲げてから跳躍するという運動を続けていた。ほれぼれするような軽い動きだ。
「何の用だ」
リークは動きをとめることなくぶっきらぼうにいい放つ。いつものエリッツだったらこれだけですごすごと部屋に戻るところだったが兄の頼みがある。
「用というか、今日は急に仕事を抜けちゃって悪かったなって思って」
聞いているのかいないのかリークはまた棒を手にとり素振りをはじめる。空気を切るするどい音にエリッツは身をちぢめた。
「いてもいなくても同じだろ」
やはり動作はとめることなく的確なことをいってくる。
「あの後どうだった」
リークはようやく運動をやめて大きく息をつく。エリッツと話をするためというよりは予定していた運動をすべて終えた様子だ。
急に静かになりどこからともなく薔薇の香りが漂ってくる。
「別に普通だけど」
やはりリークはエリッツと話をするつもりがないらしい。
「普通って……ほら、ゲームはどうなったの。どっちが勝った?」
リークも興味深そうにベリエッタとアイザック氏のゲームを見守っていたはずだ。
「アイザック様が勝った」
リークは「様」を強調する。雇い主だということを意識してのことだろうか。いい方に尊敬の念はこれっぽっちも感じない。雇われの護衛というのはそもそもそういうものなのかもしれないが。
「そうなんだ。序盤はベリエッタさんが勝っていたのに」
「娼婦が勝つわけないだろ」
リークは小バカにしたようにエリッツを見る。月明かりがあるとはいえ、何を考えているのか表情は読みにくい。エリッツが意味をとりかねて首をかしげた。
「そこまでがサービスだ」
「ベリエッタさんがわざと負けたってこと?」
リークはエリッツとの会話を面倒くさがっていることを隠そうともしない。「知らねぇよ」と大きく肩をすくめると、その場を立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
エリッツはあわててリークを追いかける。まだ何も聞いていない。というか何をどう聞けばいいのかもよくわからない。
「なんだよ。まだ何か用か」
「用というか、時間があったらおれの部屋にこない? 一緒にお菓子でも――」
アルヴィンだったらこれで釣れるだろうが、さすがにリークはいぶかしげな様子である。
「噂には聞いてたけど、本当に節操のないやつだな」
「え、何それ、どういう噂?」
とんでもない誤解をされているような気がしてエリッツは余計にあせってしまう。
「心当たりがないのか。確か二人の兄貴とそれから――」
リークはそこで言葉をとめて一瞬真顔になる。すぐに「まぁ、どうでもいいか」と、勝手口の方へ向かっていってしまう。
エリッツが噂になるといったらシェイルに弟子入りしたことくらいだ。そもそもそれがグーデンバルド家の人間だと知る者は少ない。どうしてリークがエリッツと兄たちのことを知っているのか。この家のことを調べなければわからないはずだ。フィアーナがちょこちょこと動き回っているといっていたのはこのことだったのか。なぜただの護衛がうちのことを調べる必要があるんだ。
「ちょっとリーク、待ってよ」
「おっと、お坊ちゃんがこんなところから出入りしないでくれよ」
そういうとリークはエリッツの鼻先でぴしゃりと勝手口の木戸を閉めてしまう。エリッツは未練がましく木戸を見つめた。ちょっと尻尾をつかんだような気がしたが、そう簡単にはいかないようだ。
だがローズガーデンは明後日。ここであきらめるわけにはいかない。リークの目的はよくわからないが日がないことは彼も同じはず。エリッツは限りなく少ない可能性に賭けることにした。
わずかに聞こえる物音に体を緊張させる。息を殺して目を凝らすと月明かりの中、野生の動物のように機敏な動きで庭を移動する人影を見た。建物の中から見つからないように壁や樹木の影を音もなくぬってゆく。あれから一刻ほど、エリッツにしてはめずらしくねばった。
間違いない。リークが出てきた。
当たりをつけたとおりリークはエリッツたちも利用した塀のレンガが欠けたところを足がかりにひらりと塀をのりこえていく。本当に身が軽い。
エリッツも音を立てないように塀にのぼり慎重に辺りを見まわす。
早い。
リークはすでにエリッツの視界ギリギリをすべるように移動していた。見失ってしまう。エリッツは急いで、しかし気づかれないよう慎重に塀をおりてリークを追う。
やはりオグデリス・デルゴヴァ卿の邸宅の方向だ。アイザック氏の指示でオグデリス氏と接触するのか。それとも別の目的があるのか。焦る気持ちをおさえてリークの背中を追う。
足音をさせないように走るのは筋力がいる。すでに足は疲労の限界だ。しかもリークの動きは夜陰にまぎれるように月明かりの陰を渡っていく。リークが二つ目の角で消えたあと、エリッツはその背中を見失った。
目的地はオグデリス氏の邸宅ではないかと予測はつけたものの確証はない。変なことをして逆に兄たちに迷惑をかける可能性もある。おとなしく戻ろうかとも思ったが、もう少しだけリークを探してみようと、せまい路地に入った瞬間、突然背後からとらえられる。ひじで首元をしめられ苦しくて動くことができない。
「お前はなんのつもりだ。死にたいのか」
リークの声が耳元で低く響く。さっきの会話とは違って冗談をいっている様子はない。のど元が冷たいと思ったらナイフが押しあてられているようである。大きさからいつもの短剣ではない。
「こんな夜中にどこにいくのかと思って」
エリッツは精一杯平静を装いあえて軽い口調で返えしたが、変な汗が次から次へと背中をつたっていく。本当に切りつけられてもおかしくない気配が背後から針のようにささってくる。
「今すぐお家に帰って寝な」
当然対話をする気はないらしい。
「リークが何をするつもりなのか確認するまで帰れないよ」
ぷつと皮膚のさける感触がした。しばらくしてぬるりと生温かなものが首元を伝う。エリッツはただ黙った。リークが激昂していないこと雰囲気でわかるがこういう時は無闇に刺激しない方がよい。単純に逃れようとして暴れると傷は深くなる。張り詰めたような緊張が続く。実際には数秒のことだっただろうがエリッツにはずっと長く感じられた。すっぱり切られる恐怖で暴れ出しそうになるのを堪えていると、ふいに背後の気配がゆるりととけた。
「まったく、馬鹿なのか肝が座っているのかわかんねぇやつだな。お前を消すのは簡単だが正直にいうと事後処理が面倒くさい。お前のバックにしつこそうなのが何人かいるからな。お土産をやるからおとなしく帰れ」
耳元で聞こえるリークの声は小さいが庭先で話をしていたときと同じような調子に戻っていた。
「お土産?」
「どうせ兄貴に頼まれて空手じゃ帰れないんだろ」
ダグラスが何らかの情報を得るまで戻ってくるなといったわけではないがエリッツの気分的にはまさにそのとおりだった。ここでリークに勝てる気がしないし、もらえるものならもらいたい。
「いいか。兄貴に伝えとけ。俺を調べてもグーデンバルド家で得することは何もない。このまま余計なことをしなければ何事もなく全部終わる。もちろんグーデンバルド家においてはという話だ」
リークはエリッツののどに当てていた刃物をおろす。