第三十一話 鬼ごっこ
気まずい思いで長い廊下を歩く。
寝坊したことをリークという少年になじられるような気がしてならない。窓の外の光はまだ早朝のものである。エリッツが寝坊したのではなくみんなが早起きなのではないか。
きちんと手入れされた園庭には小鳥たちが遊んでいる。エリッツには鳥の名前がわからないが跳ねながらしきりに何かをついばんでいる姿はかわいらしい。一角には薔薇の花が咲きはじめていた。
ローズガーデンはまもなくである。
ダグラスは「ローズガーデンまで護衛をやれ」といっていたが、ローズガーデンには同行することになるのだろうか。「よくないこと」が起こるらしいが、噂にきく薔薇の庭はみてみたい。そして北の王や帝国の使者はどんな人たちなのかも興味がある。
そういえばシェイルはずいぶんと早い時間にここに来たことになる。ややもすれば他家を訪問するには失礼な時間帯ではなかったか。確実にエリッツが寝ている時間をねらってきたのかもしれない。そうするとワイダットの「印象」というのも信憑性をおびてくる。
シェイルを困らせるのは嫌だ。
しばらくはこの家でおとなしく護衛をしていよう。
そんなことを考えながら長い廊下を進んでいると前方からフィアーナが歩いてくるのに気がついた。朝早いのにきちんと髪を結い簡易なドレスに身を包んでいる。春先らしいあわいピンク色の裾が足の動きに合わせてふわりふわりとゆれている。
しかし相変わらずの無表情だ。エリッツのことに気づいたはずだが眉ひとつ動かさない。すれ違いざまになんと声をかけたらいいのかエリッツの方が変に緊張してしまう。
フィアーナのことを義姉さんと呼ぶべきか。フィアーナさんの方がいいだろうか。
「おはようございます」
内心の逡巡を出さないようにエリッツは大げさな笑顔で声をかけた。だがフィアーナの方はするりと目をそらす。エリッツの声は廊下にむなしくただよった。小鳥の声がやけに大きい。
数秒、背後のフィアーナの足音をただ聞いていた。
好かれてはいないだろうなと漠然と思っていたが、どうやら嫌われているようだ。
しかもフィアーナがむかっていった方向にあるのはエリッツがここ数日自分の根城のようにしていた書庫である。これからは行くのを控えた方がいいのだろうか。
もやもやと考えながら階段をおりている途中、吹き抜けのロビーにたたずむアイザック氏の護衛のひとりと目があった。アルヴィンである。
「ああ!」
アルヴィンはエリッツと目があった瞬間、突然大声をあげた。
エリッツは驚いて足をとめる。
「ああ!」
長い袖から少しだけ出た人差し指でエリッツをさし、また大声を出す。
次の瞬間猛烈な勢いでエリッツに向かって走ってくる。本能的にエリッツは逆方向にかけだした。書庫の方はフィアーナがいる。ロビーをぐるりとかこっている回廊をひた走り、先ほどの階段とは別の階段でロビーへかけおりる。
相変わらずアルヴィンはエリッツを追いかけてくる。
一体何なんだと思いながらもなぜか足をとめることができない。ロビーからエントランスを抜け、庭へとかけだした。すれ違うメイドたちが各々顔をしかめたり、くすくすと笑ったりしている。どうせ子供が遊んでいると思っているんだろう。
「まだ追いかけてくる」
エリッツは広い園庭の果樹が育てられている一角に逃げ込んだ。観賞用に植えられた様々な果樹は複雑な林を作り、ベリー類の藪がからみあっていて身を隠しやすい。――というか、なぜ身を隠さねばならないのか。
足音と藪の葉音でアルヴィンも果樹園に入ってきたことがわかった。
遊歩道のようなタイルを敷いた細い道があるがそこを走っていてはすぐに見つかる。適度に距離をかせいでから横手の藪へ入り、果樹園の入口におおまわりしてひき返す。毎日暇だったため、果樹園の中は何度も散歩した。当然アルヴィンは初めてだろうから地の利がある。
もう少しで果樹園の入口に抜けられると思っていたら、アルヴィンの方でも足音がする方向に違和感を抱いたのか方向転換をしたようだった。こちらは入口へまわりこむ経路をとっているのでこのままでは鉢合わせになる可能性がある。
エリッツは瞬時に判断し入口でも出口でもない明後日の方角へかけだした。すぐにアルヴィンもきづいたのか、律義に藪をかき分けてくる音が背後からせまってくる。
「しつこいな」
エリッツは幹がしっかりと太い木を選んですばやくのぼり枝の上で身をひそめた。
やがてアルヴィンがその木の下に姿をあらわす。足音が消えたことに戸惑っているのか辺りを見わたしながら慎重に進んでいる。
アルヴィンがエリッツのひそむ木に背を向けた瞬間をねらって上からとびかかった。
「つかまえた!」
暴れられないようにしっかりと羽交い絞めにしてようやく鬼ごっこを終わらせられると安堵した瞬間、見えない何かに強くおされ、したたか背中を木にぶつけていた。
地面に両手をつき激しく咳きこむ。
エリッツは自分の体に何が起こったのかわからなかった。
「大丈夫?」
アルヴィンは息を切らしながらエリッツに手をさしのべる。
昨日同様目は楽しそうに輝いていたが走り続けたためかさすがにびっしょりと汗をかいていた。少し長めに切りそろえられた黒髪がふっくらとした白い頬にはりついている。
咳きこみすぎて目じりに涙をためたままエリッツはとにかくこの状況への疑問を口にした。
「聞きたいことはいろいろあるんだけど。まず、なんで追いかけてくるの」
「暇だったから」
それは予想の範囲内だった。ロビーでエリッツを指さしたアルヴィンの目は確実に子供がおもちゃを見つけた目だった。
「あと、さっきの。きみをつかまえたとき、すごい力で押されたんだけどあれは何」
その質問にアルヴィンはきょとんとした。
「僕が術士だというのはアイザックさんから聞いてないの」
術士というのは確か、生まれつき自然の理を曲げる力を持っているとかいう話ではなかったか。国家機密だったはずだし、軍事的な訓練をうけた軍人ではないのか。
エリッツがしきりに首をひねっているとアルヴィンはあきれたようにため息をついた。
「お坊ちゃんはほんとに何も知らないんだな」