第二十話 娼館
シェイルが足をとめたのは、かなり高級な部類に入る娼館の前である。気取った看板に「虹の館」と書かれている。以前、主にきいたところ「いろとりどりのいい女がいるってこと」といっていた。暴利をむさぼっているわりにきれいすぎる屋号だ。
「やっぱり売るんじゃないですか」
エリッツはすでに涙声だ。娼館の前で売るだとか大きな声で騒がないでもらいたい。
この国では表向き人身売買は違法である。もちろん裏ではいまだに奴隷のようなものや人身売買のようなものが存在している。
たとえば娼館でも人を「売る」だの「買う」だのという言葉が飛びかう業界だ。しかし書類上はほとんど本人との契約のようになっている。その実情は様々で本当に本人の希望で契約書を交わしている場合もあれば、悪質な脅しや借金等のどうにもならない状況に追い込まれ強引に奴隷のような契約を結ばされている場合もある。境界線は曖昧だ。
つまりシェイルがエリッツを強引に金にかえようとすれば不可能ではないといえる。受け取った金に「紹介料」という名前がつくというだけのことだ。
それはさておき昼間の娼館は密談には具合のいい場所である。しかも知り合いの店となるといろいろ融通がきく。ただしここの店で客の相手をしているのは女性だけなのでエリッツは「売れない」はずだ。せいぜい小間使いとして雇ってもらえるかどうかというところだが、家事という仕事の存在すら気づいていないエリッツにはどだい無理な話に違いない。
シェイルはもはやエリッツの言を否定することすらあきらめて営業前の店へと躊躇なく入っていく。
界隈では名の通った娼館である。入ると貴族の邸宅のホールのようになっており部屋の中央は上階まで見渡せる高い吹き抜けだ。そこには一目で値が張るものであるとわかる調度品が置かれていた。異国の宮廷のハーレムのようなイメージで統一されているためそれらは極端に華美である。ここまでやるとむしろすがすがしいほどだ。
店の性質上窓は少なく昼間にも関わらず店内は薄暗い。夜はあちこちに置かれている特殊な玻璃製のランタンに灯がはいり幻想的な空間に演出される。
少し奥にはバーカウンターがあり座り心地のよさそうなソファとテーブルがいくつか置かれている。ここで指名した女性と一杯酒を飲むだけで平役人の十日分ほどの給金が吹き飛ぶ額が請求されると聞いた。あくどい商売だ。もとより平役人レベルを客としては想定していない。金が余っている豪商や高官からむしりとるのだ。店にはそれができる手練れの女性たちがとりそろっていると聞いた。
シェイルは戸惑いからか言葉を失っているエリッツの腕をひっぱって店の奥へと進んでいく。カウンターの脇の長椅子にしどけなく体を横たえていた女がチラリとこちらを見た。横になったまま帳簿をつけていたようだ。
この店の主、リファである。
腰のあたりまであるつややかな黒髪をたらし涼やかな切れ長の目をしている。スタイルのいい体は露出の多いドレスを危なげなく着こなしているが、シェイルはリファが四十路をとうに過ぎていることを知っていた。
そこに人がいることに気づかなかったのだろう。エリッツは驚いて声をあげる。ホールが吹き抜けになっているのでその声は反響して店全体に響きわたった。
リファが無言で自身の鼻先に人差し指を立て切れ長の目をキュッとつりあげる。「黙れ」ということだ。ここで働いている女性たちにとってこの時刻は真夜中だ。エリッツも有無をいわせぬ圧力を感じたのかすぐに口元をおさえた。
目をつりあげていたリファだったがエリッツを一目見るなり帳簿を置き、身をのりだして全身をなめるようにじっくりと見る。とうとうサイドテーブルに置いてあった眼鏡までかける。エリッツは怯えたように一歩ずつ後ろにさがっていった。
シェイルは気づいた。商品を見る目だ。ここに置けなくても転売して稼ぐつもりか。そのたくましさに感心してしまう。
しかし油を売っている場合ではない。リファの視線を遮るようにエリッツの前に立つとそのままカウンターの奥にある扉へ進んでいった。背後から「ふん」という荒い鼻息が聞こえたが無視する。
扉の先には地下への階段があり、その先は長い廊下になっている。余計な装飾はなく上の店舗に比べてかなり質素だ。両側には織物がかかった扉がいくつかあり、その織物の色で部屋の識別をしている。屋号の「虹」からきているのだろう。ゼインを通して予約した部屋は赤色の織物がかかっているはずだ。
昼間の娼館は密談に最適ということを金のにおいに敏感なここの主もよく承知していた。
もちろん「密談用」などという露骨な宣伝はしないが昼間に馴染みの客だけに静かな部屋を提供するという商売をしていた。馴染みの客だけというところがポイントで金払いがよく身元がしっかりしているのでトラブルが起きにくい。しかも店の主は口が堅く、使用用途について深く追求しないのも好都合ということで需要はそこそこ多いようだった。
「さっきの女の人はなんなんですか」
相変わらず置き去りにされまいとするようにエリッツはシェイルの外套を後ろからしっかりとにぎっている。
「この店の主ですよ」
シェイルはそのままを答えるが、エリッツが問うているのはあの値踏みするような目つきはなんなのかということだろう。男娼としてどこかに転売する気だろうといえば怯えるだろうから気づかないふりをする。
「髪が黒かったですね」
「黒髪がめずらしいんですか」
確かに他の街にはいないだろうが、このレジスの街だけは例外的にいる。
「おれが住んでいたところでは一度も見たことがありません」
そのわりに気味悪がっている様子がないから不思議である。エリッツが住んでいたところというとグーデンバルド家の本家があるサムティカの町だろう。レジスの街から馬で二日かかる。そういえば歩いてきたと言っていなかったか。
エリッツはレジスの街に来てから日が浅い。ほとんど家にこもっていたからレジスの街中に出てくるのは二度目だ。シェイル以外の黒髪を見慣れないのもうなずける。
「特に軍部には多いですよ」
廊下のつきあたりに赤い織物がかかった扉がある。
ノックをすると軍人らしき男が扉をあけてくれる。そこは控えの間のような小部屋になっていて奥にもう一つ扉がある。
男はシェイルと目が合うと深々と頭を下げた。今はラヴォート殿下の護衛をやっている男でシェイルもよく知っている人物だ。名はダフィットといい、護衛としてはもちろん、無駄口をたたかずよく働くところを殿下に気に入られているようだ。
エリッツは興味をひかれたようにダフィットをじっと見ている。
そうか、彼も黒髪だ。
エリッツの好奇心をむきだした子犬のような視線をまったく気にとめずダフィットは奥の扉をノックする。
「入れ」
中からいら立たしげ気なラヴォート殿下の声がした。
ダフィットにみちびかれて入った部屋は地下とは思えないくらいに高級感がある。使用目的上あまり広いわけではないが、使われている資材、調度品は文句のつけようもない高級な品だ。もちろん上階の店とは違って落ち着いたデザインのものばかりである。
「呼び出しておいて遅刻とはいい度胸だな」
「申し訳ありません」
遅刻は思いがけずエリッツがぐずったせいだったが、どのみち遅刻がなくとも殿下の機嫌が最悪なのは織り込み済みだ。
「なぜそのクソガキがいる」
書記官代わりにエリッツを同行させることは事前に連絡していたが、いわずにはいられない性分なのだろう。
「まあいい。とにかく座れ」
エリッツはまた子犬のような目をして殿下を凝視している。
何を気にしているかわからなくもない。娼館に王子が来ることが信じられないのだろう。だが今日はその辺の通行人と同じような、いうなれば粗末な服に身を包んでいる。豪奢な長いブロンドは目立たないようにゆるやかに結われて背中にたれかかっている。おそらくシェイルたちと同じようにその上から外套をはおり、フードで顔を隠してここまで来たに違いない。顔が見えてしまってはいくら粗末な服を用意しても無駄になる。輝くばかりに存在感のある風貌だ。王子だと気づかれないまでも只者ではないことが一目瞭然である。
シェイルとエリッツが席に着くと、ラヴォート殿下はダフィットに目で合図をする。
すぐにダフィットが控えの間から果実酒を運びいれた。どうやって持ちこんだのかわからないが、この季節に庶民はおおよそ手に入れることができない氷を入れたいれ物に二本の瓶が冷やされている。
続いて運びこまれた食事にエリッツは目を丸くする。
甘辛い味つけをされた魚の揚げ物に、串にささった肉団子、木の実をひいた粉で作った揚げパン、蒸した米の中に辛みをつけた羊の肉を入れた異国風の軽食、薄く焼いた小麦粉の生地に腸詰と干し葡萄と葉野菜をはさんだものなど、その辺の屋台で売っていたものが次々とテーブルに並ぶ。たちまち部屋中が先ほどの大通りと同じ匂いに包まれる。
しかも油紙に包まれているそれらをダフィットがわざわざ皿に盛りつけているのだ。皿はこの店のものだろう。屋台ではその場で平らげるのが常の魚のすり身が入った汁物もわざわざ容器に入れてもらって持ちこんだようで、城で供されるスープのように銀製の椀に注がれてゆく。ご丁寧に銀のカトラリーもセットされていた。
買い出しと給仕をさせられるダフィットには同情するが、これが街中にお忍びで出てきた殿下の「いつもの」食事である。