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第十六話 悪筆

 エリッツは問われている意図がわからず首をかしげる。
「字? 文字ですか」
 エリッツは空中に指をすべらせる動きをして確認する。字がなんだというのだろうか。
「シェイルさん、この子この国のどれだけの人が文字を書けるかっていうのをわかってないですよ。字を読めて書けるのがあたりまえの高度な教育を受けてきて、おまけに上級者レベルの夜の教育を――」
「ストップ」
 また手のひらでゼインを制止する。
「エリッツ、前にダウレに負けたとき何でもするっていっていましたよね。留守番に加えて仕事を手伝う気はありませんか」
 そういえば出会ったその日に派手にダウレで負けたのだった。何でもするといったが、その約束がなくともこんなに長期間世話になっているのだから、留守番と称してごろごろするほかにも何か手伝いたいとは思っていた。ただ何が手伝えるのかずっとわからなかったのだ。
「かまいませんけど、字を書くのはあんまり得意ではないので、たいしたことはできないと思いますよ。」
 エリッツは戸惑いつつも承諾する。
「大丈夫なんですか、それ。折檻されますよ」
 ゼインは不安げである。
「エリッツこれを」
 ゼインの忠告を無視してシェイルは自室から紙の束とペンを持ってくる。紙は白くて上質だし、ペンも中にインクが入れられるように作ってある高価なものだ。
「これ?」
「差し上げます。それで今からゼインが話す内容の要点をまとめてメモをとっておいてください」
 少しばかり「要点をまとめて」の辺りに力が入ったように感じられる。エリッツは頷いてペンを右手にしっかりと据えた。実家では持ち方が美しくないとよく叱られたものだ。
「あのー、これから結構ヤバいこというつもりなんですけど、ほんといいんですかね。書記官の練習だったらまた次の機会にでも」
「わたしが責任をとります。それで何があったんですか」
「どうなっても知りませんよ」ゼインは軽くため息をついてから話しはじめた。
 ゼインの話は長かった。
 何度もシェイルから「ストップ」がかかる。
 しかし「関係がありそうで聞き続けた結果関係なかった」という話が結構あったため多くの無駄話を聞かされるはめに陥った。
 とにかく余計な情報が多いのだ。特にゴシップ要素を含む情報だ。ただエリッツも知らないことばかりだったため思わず聞き入りそうになってしまう。
 どこか高官の妻が不倫しているとか、夜な夜な全裸の男がレジスの城下を歩き回っていて正体は引退した高名な軍人であったなど。
 人の噂話に興味を持つのは品のいいことではないかもしれないが気になるものは気になる。
 そして圧倒的に全身の動き多い。身振り手振りが舞台役者も顔負けの大仰なものなのだ。メモをとりながらエリッツはすっかり疲弊してしまった。目がちかちかしてくる。
「――まぁ、そういうわけです」
 話していたゼイン自身もさすがに疲れがたまっている様子だった。
 目の前の紙を見ると要点はおよそ五行程度だ。要点をさらに要するとこうだ。
 ――休戦状態になっている北方の帝国がレジスにいるはずの亡国の王族「北の王」の存在を疑っている。そのためローズガーデンにその王族を同席させ、また帝国の使者を来賓として迎えたい――
 たったこれだけのことを伝えるのに実に半刻もの時間を要していた。
「うわっ、きったねぇ字だな」
 さっそくゼインはエリッツのメモをのぞきこんでくる。
「だから字を書くのは得意じゃないんですって」
「いや、それにしたって書くの遅いし。むいてないよ。クビだクビ」
 ゼインは自身の話の長さを棚に上げていうので、エリッツは思わず頬をふくらませた。
「とにかく、明日またラヴォート殿下のところへ行ってきます」
 シェイルもエリッツのメモを横目で見るので思わず隠したくなる。
「あの、わからないことがあるんですけど。『北の王』って何のことですか」
 ゼインがわざとらしくため息をついて大きく肩をすくめた。
「ほらほらほら、言わんこっちゃない。そんなこと聞いたら何かあったとき生きて帰れないんだけど聞く?」
 ゼインが小鼻をふくらませて反りかえる。
「帝国よりもさらに北方にあった小国ロイの王家の人間のことです。国土は帝国にとられましたが、王の血筋の者がレジスに流れつき、帝国はレジスとロイ両国の戦力が同時に攻めこんでくる事態を忌避して今の休戦状態があるんです。そのロイの王族がこの国にいないとなれば休戦とする理由はなくなりますね」
「あっさり全部いっちゃいますよね」
 ゼインはあきれたようにシェイルを見やる。
「そのロイの国の人は本当にいるんですよね。どうしていないと疑われはじめたんですか」
「あのな、おまえも知らなかっただろ。そんなヤツがこの国にいること」
 ゼインが人差し指をエリッツの鼻先につきつける。
「帝国との争いが再開すればレジスの消耗ははかりしれない。せっかく手に入れた休戦の決め手となる手駒を簡単にとられちゃたまらないってんで極度に情報を漏らさないようにしてきたんだよ。俺らだってそのロイの王族とやらを見たことがない。簡単にいうと、帝国の間諜もあんまりにも情報が入らないから『もしかしてもういないんじゃないか』ってなったわけ」
「本当に『もういない』ってことはないんですか」
 エリッツの問いにゼインは言葉を詰まらせる。
「そこを疑っちゃったらどうにもならないよな。陛下がお住いの城の中心部『中の間』の庭に離れがあってそこに……まぁ、軟禁っていうとちょっとアレだけど。そういう噂は聞いたことがある」
「そこにまだいるんでしょうか」
 ゼインがうんざりしたように首をふる。
「知らないよ。そんなところまではいっていけるのは陛下と妃たち、王子たち、それから限られた家臣たちだけ……あ、そうそう簡単に人をたらしこむことで有名なラヴォート殿下が」
 ゼインはそこでいったん言葉を切って上目づかいでシェイルを見る。「ストップ」がかからないことを確認してから「わりと『北の王』と仲いいっていう噂もありましたよね」と、彼にしては比較的やんわりとした表現でいった。本当はもっといいたいことがあるのは表情から伝わってくる。
「いや、でもローズガーデンに出せるんですかね。『北の王』」
「出せば間違いなく狙われます。討たれればそのまま開戦ですね」
「軽くいいますね」
「マリルはこのことを?」
「想定はしていたようですが、あとはラヴォート殿下の側近が何とかするから、と。もうローズガーデン当日まで連絡をとるすべはありません」
 ゼインは淡々と無責任なことを言いだす。エリッツを押しつけられたときのようにまたシェイルはやっかいごとを押しつけられている。
「たしかに。ローズガーデンの仕切りはこちらですが、『北の王』の件は、そちらでしょう。わたしには権限がない事案です」
「大丈夫です。陛下のご指示ですから」
「わたしに、ですか」
「えーっと、ラヴォート殿下に、なんですけど。今朝、殿下に拝謁願おうと思ったところ文書で『お前の話は長すぎる。側近を通せ』とのご指示があり、そもそも俺、殿下がなーんかこわくて苦手だし、これ幸いとこちらに参りました。しかしここ遠すぎませんか。マリルさんもしばらくいないことだし城内の執務室に戻ってもよくないですか」
 シェイルは半分くらい聞き流しているような表情である。
「とにかく、明日またラヴォート殿下のところへ行ってきます」
 まったく同じことをセリフのようにいいながら席を立つ。
「エリッツ、すみませんがそこにある手紙、目を通しておいてもらえませんか。処理が必要な順に並べて、要点をメモにまとめておいてください。わたしはちょっとこの件の報告書を書いてきます。わからないことがあれば聞きに来てください」
「手紙、見ちゃっていいんですか」
「かまいません。ほとんど仕事の手紙です」
「字、汚いですよ」
 シェイルは一瞬何かを考えるような仕草をして、腰に手をやった。見ると手にあるのは先ほどうさぎの解体に使っていた鞘に収まった小ぶりのナイフである。
 何を思ってかそれをエリッツに向かって軽く放りなげた。
「ちょ、ちょっと、危ないじゃないですか」
 エリッツは思わずそれを利き手で受けとめた。鞘に入っているとはいえ、切れ味は先ほど見たとおりだ。
 シェイルはそれを見て口角をあげる。
「誰もあなたを叱りません。左手で書きなさい」

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