テレビ画面に映るドラマを私は冷めた目で見ていた。
仕事のミスに声を荒げて激怒する上司と頭を下げて謝罪する部下。
女は涙を
その姿を私は
少し腹立たしかったのだろう、頭に浮かんだままの言葉が吐いて出た。
「いいよね、コイツら。仕事でミスしても謝るだけで済んでさ。人は死なないし」
その言葉に、隣に座る彼の喉が鳴る。そして私の肩を抱いていた腕を解き、ソファから降りて正座した。いったいこの人は何をしているのか。
テレビ画面に顔を向けたまま横目で彼を見ると、床に手をついていた。そして彼が続けた言葉に、私の胸の奥はツキンと痛んだ。
「一生ついていきます。結婚して下さい」
女なら嬉しいその言葉は、私の心には響かなかった。それが可笑しくて、口元が緩んだ気がした。
私は彼の顔を見ることなくテレビの画面を見続けた。
場面転換したシーンは、上司から叱責されていた女が、お洒落なカフェで同僚のイケメン彼氏から頭をポンポンされて励まされている。また私は鼻で笑う。
私の名を呼ぶ正座したままの彼は、私の返事を待っているようだった。だから私はまた、頭に浮かんだままを言葉にしていた。
「私が養うの?」
彼の素っ頓狂な声に私は思わず顔を見た。想定外の返答だったから驚いたのだろう。だが彼は気を取り直してこう言った。ただ、まだ動揺していたのかしどろもどろで。
「仕事辞めない。警察辞めない。だから結婚して。お願い。
彼の言葉に、ふと思い出した。警察官にプロポーズされるのは二回目だな、と。ただ、一回目の男はもうひとつ言葉を続けた。必ず離婚するから、と。
十一年前に出会ったその男は、夫婦関係が上手くいっていないと、離婚に向けた話し合いをしていると言って、私に甘い言葉を囁き、私の心を奪った。
当時二十五歳だった私には、彼の言葉を疑うだけの知識も経験も無かった。ただ、ひたすら彼を信じていた。
関係が終わった今でもまだ私の心にはその男がいる。似た男を見て心が騒ぐと、私の恋は終わっていないのだといつも思い知らされる。
「不倫してたクズ女なんてやめときなよ。もっとまともな女がいるよ」
彼のためを思いやって言った言葉は私に突き刺さる。私はクズ女――でも、それでもいいと、彼は言っていた。だから今でも私の隣にいるのに、私は彼を信用していない。だって月に一度、体を重ねるだけの関係だから。
私の言葉に悲しげな目をした彼だったが、ふっと微笑した。その微笑みは一年と少し前に見せた微笑みと同じだった。
◇◇◇
彼とは私の勤務する外科病棟で出会った。
初めて彼を見た時、イケメンだなと思った。長身で筋肉質な体つき、日に焼けた肌、後ろで束ねた艷やかな黒髪、歯並びの良い白い歯、濃い眉毛で二重まぶたの綺麗な瞳、少しタレ目で、笑いジワが刻まれた目尻が強く、記憶に残った。
入院患者に警視庁の女性警察官がいて、その彼女の見舞いに同僚の男性警察官数人が毎日入れ代わり立ち代わり来ていたが、中でも長身でイケメンの警察官二人は同僚たちの間で噂になっていた。
でも皆が警視庁の警察官だと思い込んでいた同僚たちは、イケメンの一人である彼が群馬県警の警察官だと知って一気に冷めた中、私は群馬出身だから何とも思わなかった。
実家は太田市にあって彼の自宅がある高崎はそんなに遠くないから、私は頭に浮かんだままの言葉を彼女に伝えると、数日後に彼女からフルネームと連絡先を聞かれた。
『群馬県警の中村さんが、看護師さんの連絡先を聞きたいそうでして……もしよろしければ教えて頂けたらなと思いまして。もちろん、差し支えなければ、です。私どもの立場上、ご無理にとは、申し上げられませんので……』
彼女は、私が彼の自宅がある高崎まで『横浜から湘南新宿ライン一本で行けますね』と言ったから、彼は喜んだと言っていた。
チャンスはどこに転がっているかわからないものだなと、胸が高鳴る感覚に心躍らせ、私は彼女に連絡先を託した。
電話番号と、フルネーム。
彼女は白いメモ用紙に私の電話番号と名を書き記していた。
私の名――
数日後、病院の階段で彼と鉢合わせした。彼女の見舞いに訪れ、彼は帰るところだった。お互いに驚いたが、私は会釈をして通り過ぎようとして、呼び止められた。安原さん、と。
そして間を置かずに、柔らかで潤いのある彼の声が私の耳に流れ込んだ。
『今、加藤に、安原さんに宛てた手紙を渡しました。お返事を頂けたら嬉しいです』
そう言って彼は微笑み、階段を降りていった。
だが、加藤さんに託された彼の直筆の手紙を見た時、私は少し後悔した。
筆で書かれた手紙は美しい文字で、達筆で、私は読めなかったのだ。なんとなくで読み進めていたが、おそらく『手紙のやり取りで交流を深めましょう』という意味合いの言葉が書いてあったのだと思った。
私は返事をすぐに書いた。正直に『読めません』と。
字はお世辞にも綺麗とは言えない上に読めませんと書かれた手紙を読んだ彼は、私を頭の悪い女だと思うだろうな、せめてペンで書いてくれればよかったのにと、イケメンの彼を思い浮かべながら私は返事を書いた。ひとつの疑問は伏せて。
それから一ヶ月経っても返事は来ず、入院していた加藤さんはすでに退院していたこともあって忘れかけていた頃、彼から連絡が来た。
電話口の向こうの彼は穏やかな声だった。
『
矢継ぎ早に話を進める彼についていけず、電話口で咄嗟に彼のペースを止めた。私は一方的に話され困惑したと同時に興味を持った。いったい彼は誰なのだろう、と。
その電話の翌週、私たちは食事に行くことになった。長髪だった彼は短髪になっていて、男前の顔をさらに二割増しの魅力を加算しているように感じた。
レストランバーでは、彼は料理を私に取り分けながらよく話していた。自分のことではなく私から言葉を引き出すような話術で、懐かしいなと、頬が緩んだ。
警察官って、みんなこうなのかな。そう思わせるくらい、あの人と同じだったから。
そうして杯を重ねる中、彼は私に何を求めているのか疑問が湧いた。交際をしたいのか、ただの遊びなのか。彼は文通を続けたいと言っていたから、友人としてなのかも知れなかったが、どちらにしても私は言わないとならないと思った。私はあなたにふさわしくないですよ、と。
彼の時間を無駄にしてはならないと、酔いの回っていた私は、自嘲気味に薄く笑いながら彼に伝えた。
「私ね、五年不倫して、奥さんにバレて慰謝料払って、この前、払い終わったんですよ」
私が笑顔でそう言うと、シーザーサラダを取り分けていた彼の手が止まった。微かに下がる口角に力を込め、顔を上げぬまま目線を寄越した彼は、目を伏せて私のグラスを見て、また私を見た。そして何かを言おうとして口を開いたが、言葉が発せられることはなかった。
私はその姿が可笑しくて、重ねて言った。最低な女でしょ――。
グラスを手にした私は、彼のグラスに自分のグラスを軽く当て、一気に飲み干した。
店内の橙色をした白熱球の熱っぽい光は、氷の入った二つのグラスを虚ろな陽炎のように揺らし、彼のグラスの向こう側の世界は、どこか遠い星の夢のようにゆらゆらと揺らいでいた。
彼は自分のグラスの酒をひと口飲むと、物憂げに息を吐いた。そして、彼がふっと微笑し、私を見た。私は無表情のままじっと彼を見つめ返すと、彼はやっと口を開いた。
「なぜ、安原さんは、そんなことを私におっしゃるんですか?」
その問に私は心の中で呟いた。
罪を償ったから。不倫した事実は消えなくても、罪を償った私をあなたは愛してくれる人か、知りたかったから。
それを口にすれば良かったのかも知れないが、私は言えなかった。結局、口を吐いて出た言葉は心の片隅にある言葉だった。
「もう二度と会わないからです」
「えっ?」
「ふふっ、不倫するクズ女なんて、関わりたくないでしょ?」
私は冗談っぽく笑った。
彼もグラスの酒を飲み、彼のグラスも私のグラスも空になり、言葉を交わすこと無く二人は無言の空間に身を置いたが、少ししてから、彼はテーブルの上に置いた私の手を指先でそっと触れた。彼の顔を見ると、微笑んでいた。
「違う言葉を、言いたかったのではと思いますが……違いますか?」
そして彼が続けた言葉――それは、思いがけないものだった。
「安原さん。私は安原さんのことをもっと知りたいと思っています。今、安原さんがおっしゃった、ご自身の過去を曝け出した理由を含めて、です」
彼は真っすぐ私を見ていた。
少しタレ目の、笑いジワが刻まれた目尻を下げて。
◇◇◇
テレビを見たままで自分に見向きもせず、何も言わない私にしびれを切らしたのか、彼はソファに座り直した。
右腕で私の肩を抱いて左手を私の頬に添わせると、そのまま手のひらに力を込めた彼は私を引き寄せる。
されるがままに唇を重ねると、彼は私を強く抱きしめ、そして耳に流れ込んだ囁きに私はドキリとした。前の男が忘れられないんだろ――。
そのまま抱えられた私は、シーツに沈められるまで、ずっと彼の顔を見上げていた。眉根を寄せた鋭い目つき。歯を食いしばっているようにも見えた彼は、私の左側に横になり、私を眺めながらこう言った。
「ずっとわかってたよ。前の男を忘れられないって」
優しさの中に、少しトゲのある声音。
彼とお付き合いを始めて一年と少しが経ったが、デートらしいデートはしていない。十二月の私の誕生日には都内のレストランでディナーをご馳走になり、ラピスラズリのネックレスとピアスをプレゼントしてくれたが、彼の誕生日には会えなかった。
月に一度、彼が横浜に来て食事に行って、ホテルに行くか私の部屋に来て体を重ねるかの一年と少し。
そんな関係だから私は彼を恋人と思ってはいなかった。不倫の事実を伝えたのだから、そういう扱いで良いと思っていたから。
彼だってそう思っていたはず。
だって会う約束は必ず手紙でだったから。
私が連絡しなくなれば終わりを告げる関係なのだと思っていたから。
ただ、何度体を重ねても、彼は私に優しいことが不思議だった。
自分の欲望は後回しにして、私の体を慈しむように愛し、快楽の淵へと
「美波。俺じゃ、ダメか?」
「……ねえ、どうして、私が忘れられないってわかったの?」
私の言葉に
私が何かを言おうとして気づき
彼は初めて見る目をしていた。私と目を合わせられず、不安そうに、泣きそうな目で、私を見ているようで見ていない。だが、続けた言葉は、声音が違っていた。
「俺じゃダメなら、そう言えよ」
彼の低い声は、地を這うように冷たかった。
私は目をギュッと瞑った。
怒鳴られるよりも恐怖を感じる。涙が目尻に溜まっていくのがわかったが、我慢して拭うことはしなかった。
そんな私を彼は強く抱きしめるが、彼の体温を感じて胸の奥が少し波を打ったような気がした。
何か言わなきゃと思っていると、彼の手が私の頭を撫で始めたことに驚いて体がビクリと跳ねた。そんな私に気づいた彼のククッと笑った声が耳に流れ込んだ。
まるで子供をあやすかのようなその手つきに、私は顔を上げ彼を見たが、私の知っているいつもの彼とは全く違う表情だった。
彼は私に頬を寄せてキスをした。
涙の跡を唇で拭うような優しいキスをしてくれたのだと思い、目を開けられないままでいた。だが唇に吐息を感じたその瞬間、彼の舌が唇を無理やりこじ開けた。慌てて目を開くと、熱い視線をこちらに向ける彼が一瞬見えたが、すぐに視界からの情報は遮断されてしまった。
彼の舌は激しく私の口内を、まるで私を溶かすように動かしていた。時に舌を絡めたかと思うと、上顎をなぞるように舌を這わす。その度にゾクゾクとした快感が体の中を駆け巡り、彼の舌の感触に体に火が灯った。
彼はゆっくりと体を起こして着ていたTシャツを脱ぎ捨てた。私は乱れた息を整えながら、彼の体を見ていることしか出来ない。彼はそんな私の衣服を乱暴に脱がせ、下着を剥ぎ取った。
何も纏わない私を見下ろす彼は睨めるように体を見てから、私に再び覆い被さるように私にキスをし、唇を食むようなキスをしてから首筋へと下りていった。
彼の唇はどこまでも熱く、いつもと違う彼に瞠目した。私を貪るように激しく体中に唇を這わせる彼に、私の体をまるで自分のものだと証明するかのように印を落としていく彼に、これが彼なんだ、本当の彼なのだと思った。
今まで見せなかった激しい欲望が彼の中にあったのだと知った瞬間だった。鋭い目と強引さが彼の本性。心の底からゾクゾクする。
私のいつもと違う嬌声に、彼は満足そうに口元を緩ませていた。
◇
目覚めた私の隣で、彼は私を眺めていた。
今は午前三時前だという。
彼の顔を見ながら、昨夜の彼を思い出して、恥ずかしくて目を伏せてしまった。
今までにない激しさで、私は何度も意識を失いそうになったが、彼の欲望は果てることを知らず、ただ一方的に、繋がり合った場所にある、彼しか知らない場所を執拗に責められて私は何度も果てた。
だが今はその激しさはなく、穏やかな顔を見せている。そんな彼を愛しいと思ってしまった。
私はそっと彼の頬に触れる。彼は私を抱き寄せた。
耳に流れ込んだのは、彼が恋に破れた話――私はいつの間にか心も引き寄せられていることに気づきながらも話に聞き入った。
二十代の頃は仕事と勉強で時間が無く恋人はいなかったが、三十代になってからある女性を好きになり、ずっと想い続けたと。六年目に好意は伝えたが、答えをもらえないまま、八年に渡る恋はその女性の結婚で終わりを告げたという。それは一年と少し前のことだったと。
「俺だって、その女性を忘れられなかったよ」
その言葉に私は、心臓がキュッとした。
私で忘れようとしたのか。
私は彼をそんなふうに思ったことはなかったのに。
彼の腕に包まれながら、私はふと、ある言葉が頭に浮かんだ。
『中村さんの名前は、
加藤さんは、彼は群馬県警の
彼女が言った『中村清隆』とは、誰なのか。彼のことなのはわかっているが、彼の名前ではない。
いつか聞いてみようと思っていたが、言い出せないままだった。
私は藤川充と名乗る彼を改めて見るが、やはり何も言い出せないまま彼の目をじっと見た。だが思わず言ってしまった。あなたは誰、と。
「加藤さんからは、あなたは中村清隆だと聞いてた。でも手紙は藤川充だった」
「あー……えっと、ね、それは……」
彼は息を大きく吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。そして私と目を合わせるように、私に顔を寄せた。
「俺は群馬県警の中村清隆じゃない。警視庁の藤川充」
「えっ?」
「加藤が入院していた頃は……まだ加藤には、事情があって俺の本当の名前は名乗れなかったんだ」
私を見つめる彼の口調はいつもの声音だったが、鋭い目線で私を見ていた。私は怖くなって目を伏せてしまう。そして耳に流れ込んだ彼の言葉は、私に衝撃を与えた。
「美波が、俺を藤川充だと周知させるようなことをしないか、ずっと見てた」
私は身元と素行調査をされていたという。
最初から、彼は私が不倫していたことを知っていた。そして相手が警察官であることも、もちろん知っていた。
私は何も言えずただ顔を伏せていたが、彼は私の顎に手を添えて力を込めた。見上げたその目は優しく穏やかで、優しい声音で、私に語りかける。
「美波の連絡先を聞いてから素行調査をしたから手紙の返事が遅くなったんだよ。でも美波はその間、俺の存在を誰かに言うこともしなかった。だから電話した」
「そうなんだ……」
「最初の手紙で、俺の字が読めないって言葉を選んで書いてあって、正直な
私はそんな彼の想いにただ目を見開くことしかできなかった。ただ、気づいたことがある。それは初めて会った夜、私は酔っていたのもあって彼を誘おうとしたが、彼は手紙が嬉しいと言い、手紙に何を書いて欲しいかずっと私に伝えていた。それは私にその先の言葉を言わせないようにするためだったのか。
初めて会ったのは八月末だった。
十二月の私の誕生日に彼は私を口説いて、体を重ねた。それは五回目のデートだった。彼は私を大切にしていたということだったのか。私はディナーとプレゼントのアクセサリーの対価を求められたのだと思っていたのに。
彼は優しい口調のまま続ける。
「美波の手紙は、俺を気遣う文章だけ筆圧が強いし、だんだん字が小さくなる。俺を想ってそうしてくれることが嬉しかった」
彼の言葉は、私への愛が溢れていた。
この一年と少し、メッセージアプリでのやり取りは会う日や待ち合わせに問題が生じた時だけで、月に一度会って、あとは手紙を送っていた。
「美波が、いつか、俺に気持ちを私に向けてくれたらなって、思ってた」
彼の目は悲しげな目だったが、ふっと微笑した。その微笑みは何度も見た微笑みだった。だが、この一年と少しは、彼にとっては――。
「でもその女性のこと、忘れられないんでしょ?」
重なる体から彼の鼓動を感じる。私より少し速い鼓動が答えなのだろうか。
「俺はさっき、忘れた」
「えっ?」
「プロポーズした瞬間に」
彼の言う私を想う気持ちに嘘はないだろう。だが私は彼の言葉を聞いてもなお不安だった。彼はそんな私に違和感を覚えたのか、少し眉根を寄せて見つめ、続けて私の額にキスをして、なぜ私にプロポーズしたのかを話した。
「看護師は人の命を預かってるって、わかってたはずなのに忘れてた。でも美波が漏らした言葉に、俺は美波を、人として惚れた。尊敬してる。ついていきたいって、美波と人生を共に歩みたいって、思ったんだよ」
彼の言葉で、罪悪感や後悔で重かった私の心が軽くなった気がした。私は今、罪を償い終えたのだろう。不倫した事実は消えないが、罪を償った私を彼は愛してくれようとしている。
「なあ、美波」
「ん?」
「俺は美波を、どんな手を使っても手に入れる。美波を俺のものにする、から」
いきなり乙女ゲーの俺様キャラみたいなこと言い出した彼に、私は噴き出した。今までの彼とは違い、俺様キャラで口説き出す彼は少し新鮮だった。
「なんだよ、なんで笑うんだよ」
「ふふふ……『キュンキュンしちゃう』とでも言えばいいの?」
少しだけ鋭い目をした彼は、私の目の奥を探るような眼差しで見つめたが、すぐに頬を緩ませてこう言った。
「ああ、出来れば可愛く言ってくれると嬉しいよ」
それくらいなら私はいくらでもしてあげる。
私は彼を見つめて囁くと、彼は嬉しそうにしたから、その顔をちゃんと見たくて私は彼から離れようとした。だが彼は私を離さなかった。柔らかで潤いのある彼の声は、私を離さなかった。
「美波。好きだよ。結婚しよう。幸せにする」
そして彼は私を強く抱きしめた。彼の腕の中は、こんなにも心地よくて温かいことを、私は初めて知った。
きっと彼は私を大切にしてくれるだろう。お互いに愛を持ちながら私を慈しんでくれるはず。彼が私以外の女性を愛さないのなら、私だけを見てくれるなら、それだけでいい。
彼と重ねた体から感じる鼓動はいつしか私の鼓動と一つに重なっていた。彼の鼓動が私のものになっていくのを感じながら、彼を信じていいのだと、今の私は、そう確信していた。
― 完 ―
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ブルースター
初夏から秋まで咲く星の形をした青い花
花言葉は『幸福な愛・信じ合う心』
和名は瑠璃唐綿(るりとうわた)
瑠璃はラピスラズリのこと
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藤川充と加藤奈緒、安原美波と加藤奈緒のエピソードは
こちらです。
ファーレンハイト・第二部
幕間 恋する乙女の入院生活
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