201 サーシャの記憶
筆の毛先に液が染み込む。その筆が持ち上げられ、スッと、石板に触れる。
筆を滑らせた跡が、青く光る。
少し塗ってはまた筆を液につけ、少し塗ってはまたつける。サーシャは繰り返していた。
また、時折サーシャは筆を変えた。
細い毛先の筆で、白い液につけて、乾いた青の上に重ね塗りする。
「……」
サーシャの美しさと合間って、その光景はどこか、荘厳な儀式を執り行っているようで、神秘的ですらあった。
……やはり、波を表現しているように見える。
屈折している細い白い線が、白波にマナトには見えた。
……これって、アレかな?
マナトは口を開きかけた。が、口をつぐんだ。
……話しかけづらい。
もともと、所見から話しかけづらい印象のあった上、まるでもうマナト達はいないもののように、サーシャは描く作業に入ってしまっている。
――クイクイッ。
マナトの服を、ニナが引っ張っていた。「ボクに任せて」と言っている。
マナトはニナに耳打ちした。
「お姉さま」
ニナの声が、静寂だったアトリエに響いた。
すると、サーシャはニナをチラっと見ると、筆を置き、自分の描いている絵に目を向けたまま、口を開いた。
「……なに?」
「なにを描いているの?」
ニナはマナトが囁いたそのまま、サーシャへ言った。
「……」
サーシャは少し無言になったが、やがて、ニナのほうに振り向くことなく、絵を見つたたまま、答えた。
「分からない。ただ……」
「ただ?」
「私の、記憶の中にあった場所。見たままを、描いてる。この場所の色を表現するために、ラピスが必要だったの」
再び、マナトはニナへ耳打ちした。
「その下の濃い青は、水?」
「そう。ただ、血の味のする、不思議な水」
「えっ?血の味?」
「そう。でも、赤くない。深い青、そして、輝いているの」
再び、マナトがニナへ。
「それって、うみ?」
「えっ?」
サーシャは振り向いた。
「知っているの?」
「あっ」
サーシャはニナではなく、マナトを見つめていた。最初から、ニナにしゃべらせていたことは、分かっていたようだ。
「あぁ、そう、海です、海。たぶん、そうかなって。さっきの、血の味というのが、塩分濃度が高いって捉えれば。海の水は、しょっぱいんです」
「海って、言うの?」
「僕のいたところでは、そう、呼んでました」
「それは、どこにあるの?」
「いや、このヤスリブでは、どこにあるのかは、ちょっと……」
「……」
サーシャが、自分の絵に目線を戻した。
「行ってみたいのですか?海に」
「……行ってみたいという訳では……ちょっと、分からない。ただ、私の記憶の中にあっただけ。そして、美しいと、思ったから、描くことにしただけだから」
「そうですか」
※ ※ ※
やがて、ケント達は、サーシャのアトリエを後にした。
屋内用の台車を借りて、金貨の入った木箱を運ぶ。
「今度はコイツを鉱山の村に運ぶことになる。また、盗賊には気をつけないとな」
先頭を歩くケントが、後ろで台車を引くミトと、その隣で歩くラクトに言った。
「確かに。あっ、そうだ!この村に来た時みたいに、こちらから襲いかかればいいんだよ!」
「あはは!ラクト、それもはやどっちが盗賊か分からないよ」
台車の後ろでは、マナトとニナが並んで歩いていた。
「ありがとう、ニナさん」
渡り廊下を歩きながら、マナトはニナに礼を言った。
「ううん!ボクも、久しぶりにお姉さまと話せて、楽しかったし!それに……」
「それに?」
「マナトはボクの庭を、ほめてくれたもん!えへへ!」