第四話
家の前に一本の木が立っている。平ぺったい楕円の葉を身に着けていた。風に揺られている。太陽が昇っては沈んでいく。繰り返すうちに、木の葉っぱが減っていった。
葉っぱが半分ほど消えた頃だ。エーデルはキッチンに立っていた。部屋の反対側で、ワイスが絵を描いている。
エーデルが紅茶をティーカップに注いでいった。やわらかな紫色に染まっている。ワイスが目を閉じて鼻で息を吸った。
「花畑みたいな匂いね」
「スイートピーの紅茶よ」
エーデルがカップが載せられたソーサーを手に持った。ワイスに近づくと、丸い机に置いた。
「クッキーは食べる?」
「灰色のクッキーなんて食べたら絵が下手になるわ」
エーデルが視線を絵に向けた。小川と丘が描かれている。青々とした空の下に、白い花びらが舞っている。白いワンピースを着た少女が背中を向けて立っている。手を、空に向けて伸ばしていた。
「姉さんにしては毒がない絵ね」
「画家が描く絵にも規制が入ったのよ」
ワイスが絵の具を手に持った。毛先を水の入ったコップに漬ける。それから、白い絵の具と桃色の絵の具に触れた。少女の手を塗っていく。少女の握りこぶしが描かれていく。
「今は国の景色を称える絵しか描いちゃだめなのよ」
「どこの絵?」
「この村よ」
エーデルが絵に顔を近づけた。目を丸くしていく。
「街が見える丘だわ。懐かしい」
「忌々しい大統領が眠る街よ」
ドアが叩かれた。ワイスが絵を持ち上げる。エーデルの視線から、絵が外れる。ワイスは、筆で絵を描きながらドアを開けた。外にはスーツ姿の老人が立っている。
「絵はどこだ。展覧会は明日だぞ」
「この絵なら政府も喜ぶでしょ」
「毒を吐かないでくれよ」
「賞も取れるかも」
老人が眉間にシワを寄せていった。サンタクロースのように伸びた髭を触る。
ワイスが絵を老人に手渡す。
「乾いてないから気を付けて」
「汚れたら価値が薄まるぞ」
「そんな絵、元から汚れているわ」
ワイスが肩をすくめながら微笑むと、ドアに手をかけた。エーデルは二人に視線を向けていた。老人が背を向けて歩いていく。窓の外に停まっている車に乗り込んだ。
ワイスが扉を閉める。エーデルの隣に座ると、生温かい息を吐きだした。
「絵ってこんなにつまらないものだったかしら」
ワイスがティーカップを手に取った。一口飲むと、唇を歪めた。
「冷めちゃったわ」
* * *
家の外の木が揺れている。葉っぱが数枚、散っていた。裸の枝が一本伸びている。ひとひらの雪が、茶色い枝に触れた。
エーデルがコートを着て外に出た。夜が来る前の空みたいな、黒い赤だ。
エーデルが広場に向かって歩いていく。ブーツが冬の湿気に濡れた土を踏んでいく。広場は人の声で溢れていた。大人たちが、出店を組み立てていた。子どもたちは街灯に花を結んで作った紐を結び付けている。
ワイスは広場の真ん中で薪を積み上げていた。フランネルに怒鳴りつけている。
「あなたとは絶対に結婚できないわ」
「犬と結婚する方がマシだね」
エーデルがため息を吐きながら二人に駆け寄る。
「何しているのよ」
「祭りの準備よ」
「口論も必要?」
「彩りね」
フランネルが腰に手を当てて鼻息を鳴らした。エーデルに視線を向ける。
「こんな姉のために村に残っているのか」
「命より大切な姉よ」
ワイスがエーデルに薪を差し出した。腕二本分はある薪を手に取る。ワイスがさらに薪を渡していった。エーデルが細い腕で薪を抱える。
「積み上げていって」
エーデルは固い笑みを浮かべながら頷いた。二人からちょっと空いた隣に立つと、薪を片手で持った。指が震える。視界の横から、太い手が伸びてきた。軍服を着た青年だ。薪を掴み上げて、積み上げていく。
ワイスが青年を睨みつけた。
「軍人は銃持って訓練したらいいんじゃない?」
青年は視線を薪の山に向けている。エーデルから薪を取っては、積み上げていった。
「人間だもの。息抜きはいるさ」
「芸術もぜひ息抜きにどうぞ」
「僕も絵を描いていたよ」
青年がエーデルの薪を掴み取った。最後の一本だ。青年が腕を伸ばした。長袖のシャツのシワが、筋肉の形にそって伸ばされていく。
広場の声が小さく隠れていく。トラックの音が遠くで聞こえた。
ワイスが視線を遠くへ一直線に向けた。そして走り出す。ワイスの先には、自宅が建っていた。家の前にトラックが停まっている。憲兵たちが扉をこじ開けていた。
エーデルがワイスの後を追って走り出す。青年も同じだった。
家の中で、憲兵が家具をひっくり返していた。埃が舞って、空気が灰色に濁っていく。太陽の明かりが埃を照らしていた。
ワイスが部屋に駆け込んでくる。憲兵は視線を一度だけ向けた。憲兵の一人が、棚の後ろに手をかけた。力任せに棚をずらす。扉が開いて、中のティーカップが数個、床に落ちて割れた。
「何をするのよ」
ワイスが憲兵に詰め寄る。憲兵たちの中でもひときわ目つきの鋭い男が、咳を吐き出した。
「この絵はなんだ」
男が手に持っていた絵を持ち上げた。白いワンピースを着た少女の絵だ。
「親指を下に向けている」
「絵の具が垂れたんでしょ」
エーデルが家のドアにたどり着いた。後ろには青年が駆け寄る。
「大統領のいる街に向けているな」
「政府批判だって言いたいのね」
「牢屋が好きか」
「批判されたかもしれないからって怒るのね」
ワイスがしゃがみこんだ。割れたティーカップを拾い上げていく。手のひらに、欠片の一つ一つを優しくのせていく。
「子どものほうがまだ賢く怒るわ」
男がポケットからオイルライターを取り出した。鉄の丸いやすりを手で回す。火の塊が現れた。絵に近づけると、炎が映っていく。
ワイスの目が見開かれた。
ワンピースを着た少女が炎に包まれていく。親指を下に向けた拳が、灰になって消えていった。
男が絵をキッチンに投げ捨てると、振り返った。ドアに向けて歩きだす。青年が手をピンと伸ばして額に当てた。
「キノプス少佐」
キノプスが青年に近づくと、服の胸を掴んだ。黄色の糸で名前が書かれている。
「シンス二等兵。新入りか」
キノプスが手を離した。視線をワイスに向ける。
「次は牢屋に入れる」
シンスが声を短く発した。姿勢をさらに伸ばす。
キノプスがブーツを鋭く鳴らしながら歩いていく。後ろを憲兵たちがついていった。家に憲兵たちがいなくなる。エーデルが部屋に視線を向けた。ワイスが、埃で満たされた灰色の部屋に立っている。外の太陽は傾いて、光は赤く染まり始めている。
ワイスの黄色い瞳に、太陽の赤色が混じっていく。