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シェリーがレモンの手をとった。
「レモン、ありがとうね」
「何がですか?」
「あなたは優しい人ね。あなたの夫になる方はとても幸せだと思うわ」
「私の夫? 私も貴族の端くれなので、いずれは政略結婚をするのでしょうが……想像できません」
「何が?」
「自分が結婚するということがです」
「憧れは無かったの?」
「無いというより、考える暇も無かったですね。兄たちに少しでも追いつきたくて、鍛錬ばかりしていました。まあ、そのお陰で次兄のオースティンとは互角に戦えるようにはなりましたが、長兄には全く敵わないままです」
その時、医務室のドアがガチャリと開いた。
小さな車輪がついた簡易式のベッドが運び出される。
シェリーは慌てて駆け寄った。
「叔父上様……ああ、おいたわしい」
「シェリー妃殿下。ご心配をお掛けしました。私は大丈夫です」
「どうぞゆっくり休んでください」
サミュエルが顔色の悪いまま小さく頷いた。
運ばれていくベッドを見詰めているレモンに、シェリーが声を掛ける。
「レモン、付き添って差し上げて?」
レモンが驚いた顔で口を開いた。
「いえ、私などが付き添うなど……」
「でもサミュエル殿下には婚約者も恋人もいないでしょう? 家族もシュライン義兄様とアルバートだけですもの。それにあなたはサミュエル殿下の恋人という設定でしょう? 誰も不思議には思わないわ」
「私はシェリー妃殿下の側を離れるわけには参りません」
慌てるレモンの後ろから声がかかった。
「行ってきなさい、レモン。ここは私がいるから大丈夫だ」
声の主はブルーノだった。
「ブラッド侯爵令息様?」
「ああ、姉のことは任せてくれ。もうすぐ宰相も来るよ。大丈夫だから行きなさい」
レモンは頷いて小走りでサミュエルを追った。
「ブルーノ、ご苦労様ね」
「姉さんこそ、お疲れさまでした。相変わらずのお転婆ぶりに少し安心しましたよ」
姉弟の顔に戻った二人は、小さく笑い合った。
「それで? どうなったの?」
「まあ一応は纏まりましたが、信憑性は皆無ですね。しかしそれ以外に落としどころが無いんですよ。後はエドワード・ヌベール次期辺境伯が頷くかどうかです」
「バローナに押し付けるってこと?」
「そういうことです」
「頷くかしら」
「頷くと思いますよ。サミュエル殿下に多大な恩義を感じているということですし」
「そうなのね。なんだか申し訳ないけれど、確かにそれしかないかもね」
「ただそうなると、バローナ王国は我が国の属国となりますから、新しい統治者を派遣する必要があります。我が国の王家は激減してますから、高位貴族家からの派遣になるでしょうね。そこをどうするか……」
「一国統治ではなく、分散統治という手もあるわ。それなら今までの領主をそのまま任命もできるし、主要な地域はゴールディ王国の直轄地として接収できるでしょう?」
「なるほど。王族だけを排除するという方法ですね? シュライン殿下と相談してみます」
「ええ、私も加わるわ」
ブルーノがシェリーの頬にかかっていた髪を掬いあげた。
「姉上? 無理してません?」
「どういうこと?」
「顔色が悪い。もう少し眠っていてはどうですか? 皇太子殿下の手術が終わったら知らせますから、それまでは部屋で休んでください」
シェリーが首を横に振る。
「レモンにもそう言われたわ。でも私はここにいたいの。アルバートは今ものすごく頑張っているのよ? 私の祈りが届くように……少しでも近くで……」
ブルーノがシェリーを抱きしめた。
「わかりました。姉さん……無理しないでね?」
シェリーはこくりと頷いた。
「ありがとうね、ブルーノ。一緒に祈ってくれる?」
今度はブルーノがこくりと頷いた。