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「アルバート」
母親の骸を呆然と眺めているアルバートにシェリーの声は届いていない。
ギュッと握りしめた拳が微かに震えていた。
「グルック、その手を離せ。母の葬儀は息子である私が執り行う」
グルックは微動だにしない。
アルバートの声が聞こえているのは、抱きしめている手に力が籠ったことで確認できた。
「良いから……離してくれ。もう母上を解放してくれ」
アルバートがグルックの肩に手を掛けた。
戦闘態勢を維持していたエドワードが、ホッと息を吐いて緊張を解いた。
「渡さない……絶対に渡さない……彼女は僕の妻だ」
「それは君が言う前世のことだろう? 母と僕は君の狂気を抑えるために話を合わせてきたけれど、本当に信じていたわけでは無いんだ。母上も同じさ……だからもう解放してくれ」
グルックが伽藍洞になった目をアレックスに向けた。
二人は黙って対峙したまま微動だにしない。
シェリーはそっとエドワードを見た。
睨み合う二人から完全に視線を外し、剣を鞘に納めているところだ。
その瞬間、グレッグが大きく動いた。
どこに隠し持っていたのか、暗器のような小さなか剣を取り出したのだ。
アルバートが気付いたときには、すでに遅かった。
「ぐっ……きさま……」
アルバートの大腿部に深々と刺さったその凶器の周りから、赤黒い液体が沁みだしてくる。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
シェリーが叫んだ。
エドワードが薙ぎ払うように抜き打ちの剣を振るった。
グルックの首が宙を舞う。
投げ出されたその顔は、泣き笑いの顔をしていた。
アレックスが傷口を押さえながら床に転がる。
這うようにアレックスに近寄るシェリー。
歯を食いしばりながら痛みを耐えているアレックス。
「アレックス! ああ……アレックス……」
シェリーの声に応えようと顔を向けるが、言葉を発することはできない状態だ。
「毒が塗られていたのかもしれない。すぐに医者を手配しよう。もう少し耐えてくれ」
そういうなりエドワードが駆けだした。
「アレックス……お願い……アレックス」
アレックスが無理やりな笑顔を浮かべる。
「シェリー、お転婆なレディ。君が無事でよかったよ。彼は? 姿が見えないようだけど大丈夫なの?」
「彼?」
「イーサンさ。君の大切な人だろう?」
「イーサンは治療を受けているわ。それにイーサンは大切な友人だけれど、あなたより大切な人なんていないわ!」
「嬉しいな。君の口からそんな言葉を聞けるなんて。もう死んでもいいって思うくらい嬉しいよ」
「冗談でもそんなこと言わないで!」
「ごめんね。ずっと不安だったんだ……君を苦しめているのではないかって……ずっと……そう思って……」
「アレックス? なぜ? なぜそんなことを思ったの? 私たちは夫婦よ。それは確かに燃えるような恋をした結婚ではなかったけれど、私は夫としても男としても、そして人としてもあなたのことを尊敬しているし、心から大切に思っているわ」
「シェリー、聞いてほしい。僕は君を愛しているよ。心から愛おしく思っている。君も僕に対して同じように思ってくれたらどんなに良いだろうとずっとずっと思っていたよ」
「アルバート!」
アルバートが血だらけの指でシェリーの唇を押さえた。
「今は返事をしないで。どうか素敵な夢を見たまま逝かせてくれ……もう君の顔が……見えないんだ。でも大丈夫……忘れるわけがない……から……」
アルバートが意識を失った。
「アルバート!」
シェリーが何度も何度もその名を呼ぶが、全く反応を示さない。
まだ息はあるのだろう、小刻みに上着の胸の部分が動いている。
シェリーはどんどん顔色を失っていくアルバートの体を抱きしめて、その名を呼び続けた。
「どうした!」
エドワードが駆けつけてきた。
その後ろにはレモンとシュラインが続く。
シュラインが気を失っているアルバートの体を抱き起こそうとし、エドワードに止められた。
「毒物の可能性がある。動かしてはいけない」
ぴくっとした動きで指先を止めたシュラインがシェリーに向き直った。
「君が無事でよかったよ」
「シュライン殿下……アルバートが……」
「うん」
「お義母様も……」
「ああ、義母上は覚悟の上だったのだろうから……アルバートにはショックだっただろうけれどね」
レモンがテキパキとアルバートの傷口の上下をきつく縛っていた。
少しでも毒の回りを押さえようとしているのだろう。
その手際を漠然と見ながらシェリーは自分に絶望した。
「私が……もっとしっかりしてれば……」
そんなシェリーを慰めるようにシュラインが肩を抱いてくれた。
廊下からバタバタという靴音がして、王宮医が駆け込んできた。