28
かつて愛した男の名を口にしたシェリーは、顔を両手で覆ってソファーから崩れ落ちた。
暫しの沈黙が流れる。
「そしてグリーナ王国へオピュウムを運んでいたのが……ローズだ」
苦虫を嚙んだような顔をしてアルバートが唇を引き結んだ。
オースティンが後を引き取る。
「僕はローズを何度も引き止めたのです。でも……その頃にはすでに……オピュウム依存症の症状が出ていて、もう取り返しのつかないところまで堕ちたんだと思いました。皇太子妃殿下、ローズは本当にいい子だったのです。優しいし明るいし。なのに自ら望んで運び屋になった。それはきっと母親の薬を手に入れるためだったのだと思います」
サミュエルが言葉を発した。
「運ぶだけなら依存症にはならないだろう? それに母親の薬というなら国が違う」
数度小さく頷いた後、オースティンが続ける。
「ローズは学院時代から少しずつ薬物摂取をしていたのだと思います。恐らくは義兄となったロナードによって知らない間に……ほんの少量であれば気分が高揚するだけで、それほどの依存状態には陥らないので、そのぎりぎりの量を与えられていたのでしょう」
「ローズ……」
シェリーの知るローズは、明るい性格で誰とでもすぐ仲良くなれるような子だった。
しかし、最終学年が近づくにつれて友人が男性ばかりになり、学園を休むことも増えていた。
婚約者であるアルバートが卒業した後から、その変わりようは顕著だった。
このことをアルバートが知らないはずはない。
シェリーはそっとアルバートの顔を見た。
「ありがとうシェリー、気遣ってくれて。もちろん彼女の変化には気付いていたよ。定例茶会の時もなんと言うか落ち着きがない感じだったしね。でもまさかオピュウムを使っていただなんて思いもしなかったんだ……僕の落ち度だね」
それは違うとばかりに、シェリーは何度も首を横に振る。
悲しそうな笑顔を作るアルバートが痛々しい。
「なんていうかな。僕から心が離れたのかと思っていた。でも婚約が解消される訳も無いし、学生時代の気の迷いだと思って目を瞑ったんだ。あの頃は本当にローズに惚れていたからね。もちろん今は違うよ? 誤解しないでね?」
シェリーは何も言えなかった。
「君と婚約していた頃は、まだ間違いであってほしいなんて甘い考えを持っていた。まさか自分の父親が……一国の王が、これほど姑息な手段で帝国化を考えているなど信じたくなかったしね。しかし、ローズが帰ってきたとミスティ侯爵から使いがあった日、その場に母上がいたんだ」
「王妃殿下が?」
「ああ。母まで加担していたとわかった瞬間、僕は自分で止めなくてはいけない。君を巻き込んではいけないと思った。いつだったか君に『覚悟を決める』って言ったことがあったでしょ? あの時点では父を幽閉して即位して間違いを正すという考えだったんだ。しかし廃人のようになったローズを見て舌打ちをした母の姿に……考えが変わった」
「どう変わったのです?」
「国王の座は叔父上か兄上に任せて、僕は罪を犯した両親と共に消えようと……そう思ったんだ。何度も母上を説得したけど、その結果がこれさ」
自嘲するように自分の顔を指さすアルバートの瞳に涙が浮かんでいた。
「だからお前は帰ってきたローズに心を移したかのような行動をしたのか?」
サミュエルの言葉にアルバートは小さく頷いた。
「ごめんねシェリー」
シェリーは強い口調で抗議した。
「悪手ですわ。なぜ自分の妻をもっと信用しなかったのです? 私だけを逃がそうなどとお考えだったのなら……侮辱ですわ」
「ごめんってば」
「実家も加担しているのでしょう? しかもイーサンも。ということはシルバー伯爵もですわね? もしかして中立派を纏めるというのも国王陛下の?」
「うん、そうだね。そして僕の悪手を利用された感じかな」
「王族派と中立派が手を結んだとなれば、貴族派を取り込んだとしても数的不利な状況ですわね……」
「そこは兄上とブルーノが上手く立ちまわってくれているよ。ブルーノは特に二重スパイ的な仕事をしてくれているんだ。僕の愚行を流しつつ、中枢に入り込んでくれているんだ」
「愚行?」
「うん、正妻に仕事だけをさせてローズと仮面舞踏会で遊んでいる皇太子だ」
「ローズ? あっ……オースティンと……」
「うん、だから僕は君を裏切ってはいないんだ。信じてくれた? もちろんそっちの趣味は無いからね?」
「そこは疑う余地もございませんが……なんと言うか……オースティン、ご苦労様」
オースティンが肩を竦めて見せた。
「でも僕も女装したんだよ? オースティンが出なくてはいけないパーティーとかさ」
「ああ、それでドレスを……」
「うん、今度見せてあげるよ。なかなか魅力的なんだ」
シェリーは想像しかけて止めた。
サミュエルが口を開く。
「お前の覚悟はわかった。なぜ捨て身なのか理解できなかったが、そういう事情だったか。でもなあ、アルバート。一人で抱えるな」
「ありがとう叔父上。自分の両親の罪だからと思ったんですよ。でもブルーノに言われて方向転換しました。僕がこの国を立て直す。シェリーとともにね」
「ああ、それで正解だ」
廊下で人の気配がした。
「細かいところは叔父上に聞いてくれ。これからは連絡を密にとるから安心してね」
そう言うとオースティン扮するローズに手を差し伸べた。
「ローズ、帰ろうか」
「はい、殿下」
サミュエルはフッと笑いを漏らしたが、シェリーはとてもそんな気にはなれなかった。
「シェリー、もう少しだ。僕も頑張るから、君も耐えてくれ」
アルバートは優しくシェリーの頬にキスを落としてクローゼットの中に入った。
見送るシェリーは手を握りしめて、その後ろ姿を見つめ続けている。
「私たちも帰ろうか」
サミュエルが差し出した手に、無言のまま手をのせたシェリーは、自分でも驚くほどしっかりした足取りで歩き出した。