「入金を確認致しました。ありがとうございます。本日十五時ゼロ分ゼロ秒よりサービスをご利用頂けます。」
というメールが届いた。
「よし」
亜一郎は呟いてメールを閉じ、代わりに、すでに設定済みのアプリを立ち上げた。
それは
『ファイナルパートナー』
なる名称のものだ。
白い画面の中に、
『ご用をおうかがいします。』
というメッセージが、浮かび上がる。
「あーあー」
端末のマイクに向かい、亜一郎は意味もなく発声練習をした。
『あーあー』
白い画面の中に、亜一郎の発した言葉が記述される。そして、
『申し訳ございません、サービス開始までもうしばらくお待ち下さい。』
というお詫びのメッセージが浮かび上がる。
「了解」
亜一郎は了承の返事をした。
『了解』
白い画面の中に再度、亜一郎の発した言葉が記述される。そして、
『ありがとうございます。』
アプリはお礼のメッセージを寄越した。
「あーあーってどんなサービス?」
亜一郎は質問してみた。
『あーあーってどんなサービス?』
ファイナルパートナーはまたしても亜一郎の質問を記述し、そして
『申し訳ございません、サービス開始までもうしばらくお待ち下さい。』
と、またしてもお詫びした。
「了解」
亜一郎は同様に了承した。
『了解』と復唱したのちアプリは『ありがとうございます。』と再度礼を述べた。
亜一郎はアプリを閉じ、時刻を見た。
十四時五十六分。
あと四分だ。
あと四分経ったら、
――“あーあー”のサービス内容が聞けるのか。まあ、いいか。
そんな思いがよぎる。
その程度の緊張感に過ぎなかった。
そしてメールの案内通り、十五時ゼロ分きっかりに再度、
「もういいですか?」
と質問したところ、
『もういいですか? はい、大変お待たせ致しました。ファイナルパートナーサービスを始動致します。』
と、前向きな返事が返ってきたのだった。
「よし」
亜一郎はうなずいた。
『よし ありがとうございます。』
ファイナルパートナーは答えた。
「名前……」亜一郎は思いついた。
『名前 何かに名前をつけますか?』
ファイナルパートナーは訊き返してきた。
「君のね」亜一郎は手の中の端末を指差した。
『君のね』ファイナルパートナーは復唱記述し『私に名前をつけて頂けるのですか?』と確認してきた。
亜一郎の脳裡にふと、両手を胸の前に組み合わせ頬を期待に赤らめ目を潤ませる黒髪ツイン三つ編みリングのメイドの姿が描かれた。
――ともりゅん。
亜一郎は胸に熱いものが突き刺さるのを感じた。
それは、彼がかつて密かに恋焦がれていた、昔のアニメの登場人物だったのだ。
「友利。ともりにしよう」亜一郎は衝動的にそう宣言していた。
『トモリ トモリにしよう』ファイナルパートナーは復唱記述し『では私の名前はトモリトモリに致しますね。よろしいですか?』と確認してきた。
「――」亜一郎は絶句した。
訂正しなければならないのは当然だが、そのワンクッションがあったせいで、羞恥心という感覚が彼を包み込んだのだ。
――いや、これは恥ずかしいだろう。トモリトモリって。原始の狩猟民族の妻みたいな名前じゃないか。いや、そうじゃなくて。
中学生の頃、誰にも言えず一人自室内で胸をときめかせていた、アニメキャラの名前だなんて、いい年をした男がこれから迎える“妻”の名としては、どうなのか。
もっとまともな、常識的な、大人的な名前にすべきだろう。
ファイナルパートナーは静かに、亜一郎の決断を待っている。
――いや、そうはいってもともりゅんなんてメインキャラではなかったし、知っている人間なんてそうそういたりはしないだろう。ていうか、こんなバーチャル嫁を所持していることを誰かに教える可能性なんてあるか? 否、ない。バーチャル嫁をもらったなんて明かせるような、そこまで腹を割って話せる友達なんて今となっちゃいない。じゃあ、別にともりでも、いっそともりゅんだって、構わないんじゃないのか?
亜一郎は台風のように考えを巡らせた。
結論。
ともりゅん、で。
「訂正する」亜一郎は告げた。「君の名前は、ともりゅん、だ」
『訂正する 君の名前は トモリュン ダ』
亜一郎は一瞬嫌な予感がした。
『では私の名前は トモリュン=ダ に訂正します。よろしいですか?』
バーチャル嫁は確認してきた。
「――」亜一郎は再度絶句した。
トモリュン=ダって。ルネッサンスの画家の名前みたいじゃないか。どうしよう。
ともりゅん(希望)は、しずかに亜一郎の判断を待っている。
「ともりゅんだけにする」と言ったら次には『トモリュンダケ』というキノコのような名前になるかも知れないと思った。
亜一郎は「OK、それでいい」と告げた。
そうしないと、何しろ先に進めない。
「ともりゅん」さあ、いよいよ“新婚生活”の始まりだ。
『トモリュン はい 亜一郎さん 何かご用でしょうか』
よかった。愛称というか名称として認識してもらえた。
「お茶を入れてくれますか」亜一郎は依頼した。「あと、何かおやつも欲しいです」
『お茶を あと おやつ』表示は短縮形となって表示された。『はい。ただいま』
ここに来て、突如亜一郎の心臓はどくん、と高く鳴ったのだ。
嫁が、来る。
つまり、文字通り、ともりゅん(愛称)と名付けた彼のバーチャル嫁が、実際にここへ、来るのだ。
つまり、お茶を入れに。
あと、おやつを用意しに。
設定は、してある。
身長、体重、スリーサイズ、足のサイズ、顔のタイプ、髪型、ファッションのカテゴリ、好きなもの、嫌いなもの……どの程度まで細かく決めるかはユーザーの任意となっていた。
亜一郎は、自分が精魂込めて設定した数々の項目が、他のユーザーたちと比較して凝っているのか淡白な方なのか、知らなかった。
サーチすれば大体みんなどれほどまで嫁のタイプを設定するものなのかわかったかも知れないが、逆に、大雑把な設定をした上で、細かな部分は徐々に自分の好みに合わせてもらうよう要求していく方が、リアルに近いものがあって新鮮なのではないかとも思った。
そうつまり、調教するのだ、バーチャル嫁を。
それでこそ、大枚をはたいてバーチャル嫁契約をする醍醐味といえるのではないか。
そんなことを思うがゆえに、亜一郎は恐らく、そこまでマニアックに詳細設定はしていないはずだった。
つまりそれは、これから亜一郎の住まい、このマンションの部屋にやって来る『ともりゅん』が、どんな姿形をしていてどんな性格でどんな話し方や立ち居振る舞いをするのか、そこまで正確に予測できないということだった。
さて、一体どんな嫁が来るのか?
しかして亜一郎の心臓は、どきどきと高まりを強めていくのだった。
「ともりゅんだよっ」
昔TVの向こうから頬を赤らめながら名乗ってきていた、あの黒髪ツイン三つ編みリングの天使の声が、笑顔が、亜一郎の脳内いっぱいに勢力を拡げていた。
ははは、まさか。
いくらともりゅんだからって、あのともりゅんそのものが来るわけないだろう。
大体アニメのともりゅんは、中学生だったんだ。
今から来るのは、嫁だぞ。立派な大人に決まっている。実写の。現実の。
ピンポーン
ドアホンが鳴る。
「はーい」亜一郎は返事しながら玄関へ向かった、心臓を最高潮に高鳴らせながら。
多少震える手で、ノブを回しドアを押す。
そこには、果たして現実の、実写の、長い黒髪の身長百六十センチほどのスレンダーながらつくべき箇所にはきちんと肉がついている好スタイルの、ホモ・サピエンスの雌もとい女性が、立っていた。
「ただいま」そして彼女は、にっこりと笑った。
亜一郎は、自分の胸に何かの塊がぶつかったような、否正確にいうと自分の胸そのものが大きな塊に化してしまったかのような、衝撃を覚えた。
「あ」声が若干震える。「お帰り」ぼそぼそと独り言のように返事をし、ぎこちなく笑う。
「ザッハトルテ」バーチャル嫁は手にしていた洋菓子店の紙箱を持ち上げた。「買ってきたよ」
「ああ」亜一郎は無意識にそれを受け取り、それから道を開けた。「ど」どうぞ、と言いかけて止める。
いや。
彼女は妻で、帰って来たのだから「どうぞ」はないだろう。
「さ」亜一郎は自分が埴輪のようになっていないか不安になりながらも口にした。「寒く、なかったか?」
これで、正解だっただろうか? この言い方で、正しかったか?
「寒かったぁー」バーチャル嫁は自分の両肩を抱き締めるようにして玄関に入り込み、声を高めた。「あっつうーいお茶、飲みたぁい」
「あ」亜一郎はドアの鍵をかけながら、ぎくりとした。「そういえば、うちお茶の葉って、ないんだった」なんという、手落ちか! 脇下に一気に汗が浮かぶ。
「うふふふ、まっかせなさーい」バーチャル嫁は肩にかけていたショルダーバッグの中から、小振りの紙袋を取り出した。「オレンジペコ! 抜かりはなくってよ」
「おお」亜一郎は顔をほころばせた。「さっすが」
「ごめえん、お湯だけ沸かしてくれるう?」バーチャル嫁はブーツを脱ぎながら、眉尻を下げて亜一郎に頼んだ。「着替えてくるからさ」
「ああ、わかった」亜一郎はうなずき、台所に行き言われた通りケトルに水を入れIHヒーターのスイッチを入れた。
――なんだ……
ほう、と深く息をつく。
――えらくまた、スムーズな……
小洒落たティーカップなど持ち合わせがないので、いつも使うマグカップを2個用意し、バーチャル嫁が買って来た茶葉の包装を開けた。紅茶専門店なのだろうか、名前も知らない店のものだ。
――値の張りそうなやつ、だよな……ケーキも……
ケーキの箱をちらりと見る。こちらの店名は知っていた。亜一郎でさえ知っているほどの、有名店だ。自分で買ったことはないのだが、かつて親兄弟が時たま買ってきていたものを食べた記憶がある。
「お湯、ありがとう」バーチャル嫁が、コートを脱ぎカーディガンをはおってキッチンへ入り、にっこりと笑う。「TV観てていいよ」
「あ、うん」亜一郎はぎこちなく頷き、リビングのソファに戻った。
テーブルの上の端末が、ゆっくりと、緑色のランプを点滅させている。
取り上げて、画面を確認する。
『トモリュン=ダ 稼働中……』
という文字が、画面の右から左へ、ゆったりと流れる川の水のように、流れていく。
亜一郎はしばらく、TVをつけることも忘れてその文字をただ見つめていた。
それは、正しい。
間違ったことは、どこにもない。
今現在、トモリュン=ダ(本名)と名付けられた、自分の契約した月額レンタル制バーチャルワイフ、ファイナルパートナーから派遣されてきた仮想嫁は、我が家の台所で、自分の要求した『お茶とおやつの用意をする』というコマンドを、着々と遂行しているところだ。
そうだ。
そういうことなのだ。
すべてが、理屈に適っている。
つまり。
今亜一郎の家のキッチンでお茶を入れているあの、長い黒髪の、綺麗な二重瞼の、ピンク系のメイクの乗りのよい、スレンダーながらつくべきところにはきちんと肉がよくついている、ホモ・サピエンスの雌もとい女性は――
俺の、嫁。
鼻から何か液状のものが高速で下りてきたので、亜一郎は超高速でティッシュを引き出し鼻に当てた。
だがそれは透明で、鼻血ではなかった。
ほ、と何故か亜一郎は安心の息を洩らした。
「お待たせー」バーチャル嫁が盆にお茶の入ったマグカップとケーキの乗った皿を二人分ずつ乗せ運んできた。「いただきましょ」
「あ、うん」
バーチャル嫁は迷いもなく亜一郎の隣に腰をおろし、二人は横並びでTVに向かい座る形となった。
「て」亜一郎はTVのリモコンを素早い動作で拾い上げた。「TVつけようか」
「うん」バーチャル嫁はにこっと笑う。
画面の中では大勢の馬が走っていた。競馬中継だ。
「えーと」チャンネルを変える。
お笑い芸人がフリートークをしている。バラエティ番組だ。
しばらく亜一郎はリモコンを手にしたまま、それを見ていた。が、その芸人のトークがまったく笑えなかった。舌打ちしたくなるほど面白くない。
「うーん」チャンネルを変える。
侍が刀を抜きばっさばっさとちんぴら風の者共を斬り捨てていた。時代劇だ。
新婚の若い夫婦が隣り合わせに座って、ケーキと紅茶をいただきながら勧善懲悪の時代劇を視聴する、というのは、正しいのだろうか。
「なんかドラマの再放送とかやってないかなあ」バーチャル嫁が隣で言う。
「あ、うん、そうね」亜一郎は細かく頷きをくり返してリモコンのボタンをさらに押した。
幸運なことに、見事ドラマの再放送、若手俳優が気鋭の弁護士に扮し、法廷内で鮮やかな理屈を並べ立てている場面が出た。
「あ、これとか」亜一郎は流れてきた藁を全身全霊にて掴み取らんと身を乗り出した。「斉藤章之だっけ」
「あ、そうそうこれ」バーチャル嫁はにっこりした。「あと木村チカとか出てたっけ」
「どうだっけ、そうだったかな」亜一郎はつられて緩んだ表情になった。
「食べよ。いただきまーす」バーチャル嫁はケーキにフォークを入れ始めた。
亜一郎も続いた。ケーキは、流石に美味い。紅茶をすする。こちらも丁度好い濃さに出ている。
「うまー」思わず素直な感想が口から洩れる。「ケーキって久しぶりだ」
「そっかあ」バーチャル嫁は亜一郎に微笑を向けた。「また買って来るよ。紅茶も、ティーバッグの買って来たから」
「ああ」亜一郎は頷いた後、それは、バーチャル嫁が帰った後でも入れやすいようにという配慮なのだろうか、とふと思った。「それって」
「あたしがお出かけしてる時でも入れやすいでしょ」バーチャル嫁が先んじて言う。
「――」亜一郎は思わず隣を見た。
バーチャル嫁は――ともりゅんは、やはりにっこりしている。
「と」亜一郎はその名を呼ぼうとしてどもった。「ともりゅんさん」
「あはははは」バーチャル嫁ともりゅんは間髪を入れずに爆笑した。「なにその、何か企んでそうな呼び方は」
「ええ?」亜一郎はつられて笑いながらも軽い混乱に陥った。「ええと、あはは、と、ともりゅん」
ともりゅんはじっと亜一郎を見つめる。
「――さま」亜一郎はたまらずつけ足す。
「あはははは」ともりゅんはさらに爆笑する。
TVからは法廷ドラマのエンディング曲が流れ始めた。
「あ、終った」亜一郎はTVの方に顔を向けた。「結局あんま観なかったね」
「うん、ふふふ」ともりゅんは引き続き楽しそうに笑い、紅茶の最後の一口を飲み干して、空いた皿とカップをトレイに乗せキッチンへ持って行き洗いはじめた。
「あ」亜一郎は手持ち無沙汰となり、自宅であるにも関わらず遠慮がちに流しの隣に立った。「手伝おうか」
「うん、ありがと」ともりゅんは特に断りもせず、亜一郎は食器についた洗剤を流水ですすいで水切りかごに入れていった。いつもなら単独でやる作業であった。
作業が終るとともりゅんは何の迷いもなく冷蔵庫の横のマグネット式タオル掛けにぶら下がるタオルにて手を拭き「さてと」と言ってやはり迷いもなく部屋から出て行った。
――え?
亜一郎はまたしても混乱した。
どこへ、行くんだ?
人の家の中で、何の迷いもなく――トイレか?
まあ……嫁、なんだから、いちいち『トイレを貸してください』ということは、ないよな――ていうか。
この、ともりゅんというのは――排泄機能が、ついているのか?
そう確か、バーチャル嫁――レンタル仮想妻の本体は、人工ホモ・サピエンスのはずだ。
それは、人間と同様に排泄をするのか?
ざああああ
トイレの水の流れる音が聞こえてきた。
するのだ。
亜一郎は一人、幾度も頷いた。
ぱたん
バスルームのドアの閉まる音がかすかに聞こえてくる。
これから、どうなるのか?
お茶と、おやつ。
そう要求した。
そしてそれは、完遂された。
用は、済んだ。
彼女は――ともりゅんは、この後、どうするのか?
風呂に入るとか?
まさか。
でも一応、俺の嫁なわけだから、ここの他に“帰る”場所があるはずはない。
さっき彼女自身も言っていたではないか『あたしがお出かけしてる時でも』と。
彼女の家は、ここなのだ。
そういう、設定の上にこの契約関係は成り立っているのだ。
で、あれば――
この後は、どう考えても――
どういう理論を構築してみたところで、結論としては、あれじゃないか。
亜一郎の脳はもはや、放埓で猥雑で淫猥で野生で卑猥で自由で有頂天で破廉恥至極なその場面以外のものを考えつけなくなっていた。
――あんなことやら、こんなことやら、そんなことやらが、狂おしくも炎熱のごとく激しく展開されていくというのか。
「亜一郎くん」ともりゅんが部屋に入ってきた。コートを着ている。「じゃああたし、出かけるね」
「あ、うん」瞬時にして亜一郎は、全身に冷水を浴びせかけられたような感覚に包まれた。
玄関まで、ともりゅんの後ろをついていく。
ともりゅんは鍵を開け、ノブを回しドアを押し開けてから振り向き、最後にもういちどにっこりと笑った。「行ってきまあす」
「うん」亜一郎はうなずいた。「行ってらっしゃい」小さく手を振る。
笑顔のままともりゅんも手を振り、ドアは閉じられてその姿は見えなくなった。
室温が、一気に三、四度下がったような気がした。
◇◆◇
レンタル仮想嫁の本質は、ウイルスだ。
端的にいってしまえば、そういうことになる。
ウイルスに自己増殖をさせて形づくった最終的な形が、仮想嫁となるのだ。
ウイルスは発生当初、成長の“方向性”に必要な情報をインプットされる。つまりそのDNAに、申込内容に沿った顔、スタイル、髪や肌や目の色、趣味嗜好、性格、五感の感受レベル、その他あらゆるデータが化学的に書き込まれ、あるべき姿形へと成長するよう、段取りを組まれる。
そしてそのウイルスを人工細胞に核として取り込ませ――あとは巨大なシリンダー内で、オーダー通りの仮想嫁が生まれるのを待つ。
生まれ出てくる仮想嫁は、皆押しなべて美形であった。正確にいえば、一般的な社会通念に照らした場合「美形」と評される率の高いタイプのものだった。
無論、ほかのありとあらゆるテクノロジー同様に人工ホモ・サピエンス製造技術もまた日進月歩し、仮想嫁のクオリティはバージョンアップする毎にますます良質で上質のものとなり、契約数はサービス開始以来つねにうなぎのぼりの状態であった。
ウイルスを核に持つ、人工ホモ・サピエンス。
これは、契約申込者たちに最初に伝えられる情報の一つだ。
というよりも、広告中すでに堂々とその“秘密”はうたわれている。
申込者たちは後になって「知らなかった」「気持ち悪い」「金を返せ」とは言えない。そういうことだ。
亜一郎も例に洩れず、そのことを知っていた。
ともりゅんは、ウイルスによってつくられている。
彼女の顔も手も足も、髪も肌も目も鼻も口も、内臓も骨もすべて、ウイルスが自己増殖し細胞分裂した結果、こんにちあるともりゅんの姿にまで育ったものなのだ。
◇◆◇
亜一郎は夜中、突然そのことを思い出しベッドの上で起き上がったのだった。
――そう、だ……彼女は……ウイルスなんだ。
そんな彼女、ともりゅんに対し、ほんの一瞬でも(実のところ一瞬ではなかったが)劣情を抱いてしまった、自分がいる。
亜一郎は苦虫を噛み潰したような顔になった。
ともりゅんの笑顔が、ぽんと脳裡に浮かぶ。
「あはははは」涙を浮かべてまで大爆笑していた、無邪気な顔。
少女のような、笑い顔だった。
それは、愛らしく――そして、美しかった。
どこが違ってた?
亜一郎はベッドの上に座ったまま、うつむき目を閉じた。
どこが違う?
普通の、天然のホモ・サピエンスと。
「はは」亜一郎はひとりベッドの上で、小さく笑った。
ウイルス……いい仕事してるじゃないかよ。そう思った。
◇◆◇
翌朝も端末は、ゆっくりと緑色のランプを点滅させていた。
まだ完全に開いていない目で、画面を見下ろす。
『おはようございます 何かご用はありますか?』
という表示が出ている。
「おはよう」亜一郎はもごもごと挨拶した。「コーヒー入れてくれる?」
『おはよう コーヒー はい ただいま』記述が出る。
玄関のドアホンが鳴ったのは、その五分後だった。
「早いな」スラックスを履き終えたばかりのところだった亜一郎は、つい、着替えが間に合ってよかった、と思う。
「ただいまぁ。おはよっ」ともりゅんはトレーナーにデニム地のロングスカートという出で立ちで、今日もにこにこと機嫌がよさそうだった。
「おはよ」亜一郎もつられて笑顔になる。「寒くない? そんな薄着で」訊いてから、昨日も同じようなことを最初に訊いたっけ……と思う。
「大丈夫」ともりゅんは肩をひょいっとすくめながらドアを閉じた。「コンビニでコーヒーシュガー買って来るぐらいは耐えられる範囲」とはいえその頬は、外気の冷たさに触れた様子を真っ赤に染まった状態で語っていた。
「ははは」亜一郎はつい苦笑混じりに笑った。「俺、コーヒーに砂糖入れないんだけど」
「あたしが要るのー」ともりゅんはスリッパを履きながら紅色の頬をふくらませた。「ひどいなあ」
「あ、そうだっけ。ごめん」亜一郎は両手を合わせて謝った。
そうか。
これからは、そういうことなのだ。
朝のコーヒーといえども、もう独りで飲むということにはならないのだ――嫁が、それを入れるのであれば。
嫁が、そこにいる限り。
ああ、ひとつひとつが、勉強になるのだ。
これが、結婚というものだ。
亜一郎は、臍の辺りからじわじわと熱いものが脊髄を通って脳にまで達してくるのを感じた。
それは恐らく、感動と呼ばれるものなのだろうと思った。
「ともり」亜一郎は突き上げられるように手を伸ばし、ともりゅんの肩を掴んで背中から抱き寄せた。
温かい。
天然ホモ・サピエンスと、何ら変らない、感触だ。
「びっくりしたぁ」ともりゅんは亜一郎の腕に手を触れ、少し上ずった声を上げた。
「こっち向いて」少し腕を緩める。
「なに?」ともりゅんは微笑んだまま、素直に亜一郎の腕の中で回れ右をする。
「朝の挨拶」そう言って亜一郎は、ともりゅんにキスをしようと顔を近づけた。
チロチロリン チロチロリン
思わずはっと顔を上げるほどのボリュームで、リビングの端末が音を鳴らした。
「あ、鳴ってるよ」ともりゅんもリビング方向に顔を向け、多少亜一郎から体を離す。
「いいよ」亜一郎は慌てて抱き締め直す。「ほっとけ」再度、キスを迫る。
「あ、でも」ともりゅんは少し肩をすくめる。「ファイナルパートナーからかも知れないよ?」
「――」亜一郎は息を呑んで体を硬直させた。
今、なんと言った?
否――それはそうだ。
今抱き締めているのは、仮想の嫁だ。
それをレンタルする旨契約しているのは、ファイナルパートナーという法人企業だ。
どんなにともりゅんが可愛かろうと、ウイルスが良い仕事をしていようと、それは厳然たる事実なのだ。
チロチロリン チロチロリン
端末は鳴り止まない。
亜一郎は茫然と手を離した。
ともりゅんがぱたぱたとスリッパを鳴らしてリビングに小走りで駆け込み、すぐに端末を手にして出て来た。「はい」亜一郎にそれを手渡す。
「――」手もとを見下ろすと、果たして連絡はファイナルパートナー本部からのものだった。
『レンタルパートナーとの細胞交換につきましては、ウイルス感染による免疫症状の発現リスクがあることをご理解、ご了承のほどご実施願います。』
というメッセージ本文と、それから少し下がって、
『今後この警告を送信しない』
というチェックボックス付きの一文が表示されている。
――細胞、交換……?
依然茫然として亜一郎はその文字を眺め、思った。
――キスのことをいっているのか?
つまり、その行為により予測され得るところの――粘膜の接触による――細胞取り込み。
細胞を取り込むということはイコール、ウイルスを取り込む――つまり感染する、ということだ。
免疫症状の発現とは、そう確か、契約締結前の重要事項告知の中にあった。
「風邪に似た症状等が現れる場合があります」
担当コンサルタントは、確かにそう言った。
郵送されて来た契約手続き関連書類に同封されていた名刺、そこに名前のあった、ファイナルパートナー所属の――恐らく天然ホモ・サピエンスの――コンサルタントだ。
契約に際して企業側の生身の人間と電話でコンタクトを取った、唯一のあの時だ。
「その場合の治療等にかかる費用につきまして、当社は負担致しかねます」
「わかりました」亜一郎は本当に本心から理解納得した上で、契約書に署名捺印をしたのだった。
忘れた、記憶にない、とは、たとえ信心する神を持たない無神論者であったとしても神かけて言えない。
つまり“事”に及ぶ際は、そういった点を覚悟の上でおやりなさいよと釘を刺され、相わかりましたと首肯した経緯があるのだ。
亜一郎は鮮明に蘇る記憶の中で馬鹿のように理解し頷く自分の声を聞きながら、茫然と端末画面上のチェックボックスを、そして「OK」ボタンを、タップした。
『トモリュン=ダ、稼動中……』
昨日も見たその表示が、ディスプレイの右から左へゆっくりと、ゆったりと流れ始める。
「コーヒー入ったよ」ともりゅんが背後から声をかける。
「うん」亜一郎は声だけで頷き、約二秒経ってから振り向いて、ともりゅんの待つキッチンカウンターへ近づいた。
カウンターには、マグカップに入ったコーヒーのみ、二人分置いてある。
「あれ」つい、声に出してしまう。
亜一郎の予想する光景においては、コーヒーのほか焼きたてのトーストだとか目玉焼きだとか、サラダやフルーツだとか、そういった食品たちも並んで彩られているカウンターが自然に存在していたのだ。
しかし今、現実の世界で仮想の嫁が用意してくれたのは、湯気の立つマグカップ二個のみ。
そうか。
すぐに、その物寂しい光景の理由に思い至った。
「オーダー、コマンドは、一回につき一個の内容のみ対応可能です」
これも契約前のガイダンスで、あのコンサルタント――名前はなんだっただろうか――に、言われた事だ。
今回自分は「コーヒーを入れて」とオーダーした。
コマンドは「コーヒーを入れる」という一個の内容となる。
つまりそれ以上のサービスもそれ以下のサービスも、実施されないのだ。
「トーストも焼こっか」ともりゅんが、言った。
「え」亜一郎はいまだ突っ立ったままで、スツールに座るともりゅんを見た。
「卵あるんだっけ、目玉焼き? スクランブルエッグ?」ともりゅんはすとんと床に降り、もう一口コーヒーをすすってから冷蔵庫に向かう。
「あ、でも」亜一郎は思わず制止をかけようとした。「俺、コーヒーってしか言ってなかったし、それってできないんじゃ」
「今日だけ」ともりゅんは、開けた冷蔵室のドアの上から首だけひょっこりとのぞかせてそう言い、それから白い歯を見せて笑った。「明日からは一個だけやるよ」
「――え、いいの?」亜一郎はそれでも迷いを隠せなかった。「何かペナルティ的なこととかになったりしない?」
「大丈夫」ともりゅんは卵を三個取り出しつつ頷いてから「ないない」空いている方の手を左右に振る。
「ほんと? あの、君にも、ってことだよ?」
「あたし?」ともりゅんはボウルに卵を割り入れつつ訊き返した。
「そうそう」亜一郎が頷く。「会社から契約違反だとか給料差し引かれるとか、そういう目にあったりは」
「うふふふふ」ともりゅんは菜箸で卵を溶き混ぜながら、肩を揺らして笑った。「会社と旦那様とどっちが大切だと思ってんの?」
「――」亜一郎は絶句した。
「って、言い返してやるから。大丈夫」ボウルを抱えたまま、いつもの無邪気な笑顔でともりゅんは断言した。
「――いいの?」駄目押しに訊く。
「うん」まっすぐに頷く。
亜一郎は座りかけていたスツールから、立ち上がった。
フライパンにバターを落とすともりゅんの傍へ行く。
肩に手を回して抱き寄せる。
「うにゅ?」謎の言葉で質問しながらも、ともりゅんは亜一郎の鎖骨の辺りにその小さな頭をもたせかけた。
亜一郎はリスクも厭わず、朝の細胞交換を実施した。
◇◆◇
会社に向かいながら、亜一郎はいまだともりゅんのこと――その本質、その行動、その結果、その笑顔――について、考えを巡らせ続けていた。
――そうか。彼女は、“ロボット”では、ないんだ。
いつホームに電車が到着したのか、いつその車輌に乗り込んだのか、まったく意識に残っていないまま、亜一郎はそう思いついた。
――だから、コマンド以外の……それ以上のサービスを、彼女自身の判断で、行うことができたんだ……何の、誰からの何らの命令も受けずに。
その結果、あのふわふわの、絶妙な口当たりのスクランブルエッグを作ってくれたのだ。
何の為に?
――俺の為、だ。
「あれ」と言った亜一郎の一言、その一声で、コーヒーだけでは足りないのだろうという状況分析、状況判断を行い、そして問題解決方法を考え、実行した。
瞬時に。
否もしかしたら「コーヒー入れて」とオーダーした時点で、彼女は思ったのかも知れない。
「コーヒーだけでは足りないんじゃないの? トーストとスクランブルエッグも作るべきなのでは?」と。
そこに“if”や“or”が、条件づけをしていたわけでもなく。
そう、それをともりゅんに実行させ得たのは、演算子ではない。
彼女の本質である、ウイルスだ。
否ウイルス自体がそう考えたわけではなく、彼らが増殖し形づくった、ともりゅんという、人工ホモサピエンスその人の脳が、だ。
そしてそのまま、あの絶妙な柔らかさのスクランブルエッグを、焦げ付かせないように慎重に注意深く、様子を見ながら焼き、正確至極なタイミングでヒーターからフライパンを下ろし、皿に盛り付け、カウンターへ運んでくれたのだ。
太陽のような笑顔で。
――美味かったなあ、あのスクランブルエッグ。
思い出すと、つい頬が緩みそうになる。
人目を気にして、慌てて表情を引き締める。
――ウイルス……
だが思う。
――いい仕事、してるじゃないかよ。
いつ電車から降りたのか、そしていつ自分が会社に到着したのか、亜一郎の意識にはまったく残っていなかった。
「田坂さん、何かいいことあったんですか?」エレベータの前でそう声をかけられたところで、やっと亜一郎ははっと気がついた。
自分が今どこにいるのかを。会社のエレベータの前だ。
声のした方、自分の右手を見る。
後輩の大崎有奈が、にやりと笑いながら自分を見ている。「なんかすごい緩んでますよ、顔」
「え」亜一郎は自分の頬と顎を撫でさすった。「緩んでる? 俺?」
「はい、思いっきり緩んでます」大崎は頷いた。「でもしかめっ面よりはいいですよ。朝からいじれるし」
「何それ」苦笑する。「いじる必要性がわかんない」
「まじで何かあったんですか?」大崎はまた訊いてくる。
「えへへー」亜一郎は到着したエレベータに乗り込みながら、うすく笑ってごまかした。
「彼女さんができたとか?」大崎は後から乗り込んで来ながら、さらに問う。
「いやあ」亜一郎は顔をほころばせて「そんなんじゃないよ」と否定した。
何しろできたのは彼女ではなく、嫁だ。妻だ。嘘を言っているわけではない。
「そうですかあ? でもいいなあ、うらやましい」大崎はそう言って小首をかしげる。
「ええー、大崎さんにもあるでしょ、なんかいいこと」亜一郎は余裕のある態度で話を合わせる。
「私は、最近はあんまりないですねえ」大崎はふっとため息をつく。「合コン行っても、うーん、て感じだし」
「そう?」合コン、か……亜一郎は懐かしさを覚える。
自分にもそういう時代があった、だが過去の話だ。
今はもう、妻帯者なのだから。
合コンというものには、自分は恐らくもう参加することなどないのだろう。
「私の幸せの青い鳥って、どこにいるんですかねえ」大崎が遠くを見つめる目で自虐的に言う。
「どっかその辺飛んでんじゃない?」亜一郎は人さし指で空気をくるくるとかき回す。「よく火曜日にゴミステーション付近でうろついてるよ」
「それカラス」大崎は亜一郎の上腕を手の甲で叩く。「青くないです。黒いですからそれ」
そんな軽口の応酬をしながら、いつの間にかオフィスに辿りつき、いつものように始業準備を始めていた。
けれど今日は何故か、どこか、その光景すべてが新鮮な光に包まれているように、亜一郎には見えるのだった。
◇◆◇
「亜一郎くん」ともりゅんが呼ぶ。「お待たせ。ごはん、できたよー」
「はーい」亜一郎はノートPCの画面をロックしてソファから立ち上がった。
先ほどから、甘辛い煮物の香りが部屋中にたちこめている。
「おー」カウンターに並べられた皿を見て感動の声を挙げる。「肉じゃがー」
「牛コマが特売だったから、たっぷり使いました」ともりゅんが肩をすくめて悪戯っぽく笑う。
「うまそー」亜一郎は素直な感想を述べた。
その感想通り料理はすべて美味く、満足できるものだった。
後片付けはともりゅんが引き受けてくれ、亜一郎はリビングでゆっくりと寛いでいられた。
「よし、と」ともりゅんが切り上げる声を挙げ、リビングの亜一郎のもとへ来た。
てっきり、ソファの隣に座るのだろうと思っていたが、彼女は
「じゃああたし、出かけてくるね」
と、告げたのだった。
「あ」亜一郎は思わず腰を上げた。「うん」
ともりゅんはにこっと笑ってぱたぱたと寝室の方へ行き、トートバッグとコートを身につけた外行きの格好で再度出て来た。
「あの」亜一郎は思い切って質問してみた。「例えばさ、その、うちで、風呂入ったりとか、そういうのは、しない、の?」矢鱈ぶつぶつと途切れがちにはなったが、亜一郎にしてみればまさに核心をつく問いであった。
トイレを使用するのであれば、それだったらうちで風呂、という線も、なくはないのではないか。
ともりゅんが洗い物をしている間中、彼はTV番組の内容も頭に入ることなくそのことばかりを考慮しつづけていたのだった。
「お風呂かあ」ともりゅんは大きな目を天井に向けて考えた。
チロチロリン チロチロリン
端末が出し抜けに鳴る。
亜一郎ははっとして、テーブル上から端末を取り上げた。
『入浴につきましては基本的に不要です。風呂の共有使用につきましては、別途オーダーして頂くよう御願い致します。』
メッセージが現れていた。
「――」亜一郎は、何秒間その文字列を見つめていたことだろうか。
「ごめんね」ともりゅんが申し訳なさそうな顔をして、細い肩をすくめる。「今日はいったん、お出かけしてくるよ」
「あ」亜一郎は真剣な顔でともりゅんを見た。「あの、今の俺たちの……俺のやってることって、まさか逐一筒抜けになってるの? お宅の会社に」
「あ」ともりゅんは一瞬、哀しそうな顔をした。
“お宅の会社”という言い方は、突き放すようでちょっと冷たかっただろうか――亜一郎は瞬時に後悔するが、口から出た言葉はもはやなかったことにできない。
「あのね、あたしの脳波が、読まれてるの」ともりゅんはうつむきながらそう告白し、上目遣いで亜一郎をちらりと見た。「ごめんなさい」
「いや」亜一郎は反射的に許容していた。「いいよ」
「じゃあ、行ってきます」ともりゅんはすぐにいつもの笑顔に戻った。
「行ってらっしゃい」亜一郎は頷いた。「気をつけて」
「はーい」鈴の音のような声を残し、ともりゅんは玄関から出て行った。
――脳波……
亜一郎は告げられたその事実を、一人ゆっくりと、時間をかけて、吟味することになった。
◇◆◇
「先輩お疲れっす」後輩の仁科が声をかけてきた。「ここ、いいですか?」ベンチに座ってコンビニ弁当をつつく亜一郎の隣を指差す。
そこは会社のすぐ近くにある公園で、仁科もコンビニの袋を提げていた。
「ああ、いいよ」亜一郎は箸を止め、頷いた。
仁科は亜一郎の隣に座り、唐揚げ弁当を膝上で開いた。
弁当を平らげた後もしばらく、近況報告や、半分は社交辞令であるところの飲み会提案などしつつ男二人隣り合わせで語り合っていたが、不意に、
「営業二課の坂本のこと、聞きました?」
と仁科が切り出してきた。
「坂本君?」亜一郎はきょとんとして訊き返した。「いや……あ、でもなんかずっと休んでるらしいけど、彼何かあったの?」
「それがですね」仁科は声を潜めた。
「うん」
「ファイナルパートナーって、ご存知ですか?」
「――」亜一郎はすんでのところで鼻からコーヒーを噴き出すのを抑えた。「ん?」すんでのところで、初耳であるという表情を形づくる。
「あの、昔あった家事用ロボットの、進化したやつ」
「――へえ」否、違う。ロボットではなく、ウイルスだ。まったく別次元から進化したものなのだ――そう思いつつも、初めて聞く体で返事をする。
「そう、それがですね、なんか今のやつって、機能がすごいリアルの人間に近いらしくて」
「ほう」それはまさしくその通りだ。
「なんか」仁科は、辺りに人もいないにも関わらずさらに声を潜めた。「ぶっちゃけエッチもできちゃうらしいんですよ」
「ええっ、まじで?」俺は今、まことにすっとぼけている――そう思いながら、素っ頓狂な声を挙げる。
「そう、だけどすごいリスクがあるらしくて」
「リスク?」
「はい。“それ”とエッチすると、病気になる可能性が高いらしいんです」
「まじで?」
「そうなんです。それも個人差あるらしくて、風邪程度ですむ人もいれば治療方法のない不治の病になる人まで、さまざまあるらしいんですよ」
「――で、まさか」
「そうなんです。坂本、その後者の方らしいです」
――そうか。
亜一郎は内心のみで頷いた。
――坂本、君は俺に取って仕事では後輩だが“その方面”でははるかに、先輩なのだな。
「――誰に聞いたの、そんなセンシティブな個人情報」亜一郎も仁科に倣い極力声を潜め訊ねた。
「人事担当と親しい人から聞いたんで、恐らく間違いないです」
「――」その人事担当はまずクビだな、と瞬時に予測しつつ、亜一郎は考えをまとめた。
つまりウイルス感染リスクの実情は“風邪に似た症状”に限ったことではないという事だ。
確かにコンサルタントは「風邪に似た症状“等”」と言っていた。
風邪に限ったことではないのだ。
もっと重篤な症状を起こす場合もあるのだ。
個人の体質によりそれは違うのかも知れない。
中には――治療不可の病に罹る可能性も、ゼロではないと。
そういう事だ。
そういった事まですべて「ご理解、ご了承の上でご実施」しなければならないのだ。
「入院とか、してるの? 坂本君」亜一郎はゴミを持ち上げて立ちながら訊いた。そろそろ昼休憩が終る時刻だ。
「たぶん」仁科も倣う。「でもどこの病院かまでは知らないですけど」
「そうか」亜一郎は軽く頷き、内心では決意を固めていた。
――坂本に、会いに行ってみよう。
◇◆◇
坂本に、会いに行く。
その思いつきは我ながら良案だと思ったが、入院先が判明しなければどうにもならない。
まごまごしていると、坂本は――二度と、会えないことになってしまうかも知れない。
とはいえ、そもそも会えるのだろうか?
面会謝絶という可能性も、なくはないだろう。
何しろウイルス感染の末の不治の病なのだから。
人に感染する可能性もあるのだろうし、ワクチンも恐らくはできていないのだろう。
否、ファイナルパートナー側で何かそういうものの準備はあるのではないのか?
あるいは、非合法的に。
しかし考えるばかりでは埒が開かない。
まったく手がかりがみつからないというわけでもなかった。
その坂本という後輩は、自分のよく知っている同課の後輩の、同期に当たるのだ。
そう、大崎有奈の。
退社時、亜一郎は残業することなく帰宅準備を進めた。
さも私用の為急いで退社する必要があるような素振りを見せつつ、大崎が先に帰ってしまわぬよう、偶然のタイミングを装って共にエレベータに乗り込む。
「よ、お疲れ」さも偶然乗り合わせましたねという体で軽く片手を上げ、大崎に声かけした。
「あ先輩、お疲れ様です、早いですね今日」大崎は少し驚いたように目を丸くした。
「ああ、うん今日はね、ヤボ用で」亜一郎は軽く返して笑う。
「ヤボ用……という名の、おデートでございますか」大崎は眉を持ち上げて目を細める。
「やー違う違う」片手をぶんぶんと振る。「ちょっと、身内の見舞いにね」
「え、ご親戚の?」大崎は真面目な顔になり問い返した。「入院なさってるんですか?」
「うんまあ、大したこともないみたいではあるんだけどね、ちょっと世話になったことのある人だから、見舞いには行っとこうと思って」なんという狡猾な、似非ストーリーテラーなのだろう俺は。そう思いつつ亜一郎は、口から出任せをつらつらと述べ立てた。
「そうなんですかあ」大崎はころりと信じ込んでいる。「お大事に」
「ありがとう」ははは、と軽く笑ってから、心を引き締め本題を切り出す。「入院ていえば、君の同期の坂本君も入院してるんだってね」
「あ、そうです。市民病院に」
「市民病院?」思わず片身をがくっとずり下げそうになる位あっさりと、求める情報は手に入った。「あ、へえ……まさか面会謝絶とかじゃないだろうね」
「直接対面しての会話はできないんですけど、ガラスで隔てられた面会室みたいな所で話はできました」
「あ、行ったことあるんだ」
「はい、同期数名でいっしょに。でも彼車椅子で、マスクしてたんですけど、げっそりやつれててすごい気の毒でした」
「……不治の病、ってきいたんだけど」
「あ、それは嘘です」大崎はあっさりと片手を振り否定した。「治療に時間はかかるみたいですけど、来週中には退院もするそうですよ。その後しばらく休職するって、本人言ってました」
「そうか。でもよかったな、それは」大いに頷く。よかった、いや本当に。
「そうですね」
会社を出て大崎と別れた後、亜一郎は当然のようにその場所へ向かった。
市民病院だ。
坂本のフルネームを端末のメモで再度確認する。
受付窓口でその名を伝え、入院棟を確認してもらい、訪問者用バッジを受け取り、面会時の注意事項を聞かされる。
「面会室はガラスで仕切られています。仕切りの向こうへは入らないで下さい。万一トラブル等が起きた場合は、カウンター上に黒いボタンが置かれてありますのですぐに押して、係員を呼んで下さい」立て板に水という感じで受付の女性は淀みなく説明した。
――面会室、か……病院、というよりは……
その先の言葉を明確に脳裡に描く前に、坂本が車椅子に乗り入って来た。
自分で車椅子を操作しており、想像していたほど容体は悪くなさそうだ――だが大崎の言っていた通り、会社ですれ違いざま軽い挨拶をする程度の間柄ではあったがその頃に比べ、かなり痩せ細っていた。
気の毒、確かにそんな言葉をかけたくなる印象だった。
「田坂さん」坂本はマスクの下で呟くように亜一郎を呼んだ。「お疲れです……見舞いに来て下さったんですか」
「あ、うん」亜一郎は取り敢えず笑顔で片手を挙げた。「具合はどう?」
「ええ、毎日点滴受けて、今は大分楽になりました」坂本は参ったという顔で苦笑しながら状況報告をした。「一人ですか?」
「うん」亜一郎は不審に思われる前に本題に入ろうと決めた。
この後、真に見舞いの目的で、彼の実の友や家族がここへ来てしまうかも知れない。その人たちと顔は合わせたくない。
「君、ファイナルパートナーを使ったの?」声を低くしてずばりと問う。
「――」坂本のマスクの上の両目が限界まで見開かれた。
「ごめんな急に」亜一郎は早口で付け足した。「それ確認したくて来たんだ」
「――なんで知ってるんですか」坂本は茫然とした声で訊き返した。
「――社内でな、ちょっと小耳に挟んだ」言いづらい事だが話を先に進める為そう答える。
「うわ、最悪だな」坂本は声を詰まらせ首を何度も振った。「どこから情報が洩れたんだ――最低だ」
「あれ、俺も使ってるんだ」亜一郎は話を進める為早々に明かした。
「――」坂本のマスクの上の両目は再度、極限まで見開かれた。「本当ですか」
「うん」頷く。「やっぱり今回の件は、あれが原因なの?」
「――」坂本は多少息を乱していたが、深呼吸をして「はい」と目を伏せた。
「そうか……感染した、のか」亜一郎は確認した。
「先輩は」坂本は、がばっと顔を上げた。「あのあれ、やりましたか」
「ん?」
「細胞交換」
「細」亜一郎はどもりかけたが「うん。した」とすぐに頷いた。「キスだけどな」
「――病状は」
「今のとこ、まだ出てないよ。まあまだ、一週間ぐらいだからな」実のところ今日で三日目だが、妙なプライドが彼に『一週間』と使用期間の水増しをさせたのだった。
「俺」坂本はそんな亜一郎の虚偽の報告を特に気にもかけていない様子だった。「あれは……やめた方がいいと思う」
「――細胞交換?」
「ていうか……あの仮想嫁自体を」
「――」
「最初に症状出た時俺、会社に電話したんすよ。ファイナルパートナーに」
「そうなのか」
「はい。致命的な症状をもたらすことはまずない、たまたま今回、俺の感受性が強かったから重い症状になったけど、コンマ何パーセントかの、稀少な事例だって言われました」
「当社に責任はない、と」
「まあ……すごい低姿勢で申し訳なさそうには対応してくれましたけどね。あと……病院の費用って本来、免責じゃないですか」
「ああ、そうだな」
「なんですけど今回に限っては、大変なことになってしまったのでお見舞いにつって、角菱デパートの商品券五万円分ほど、包んでくれました」
「まじで? すげえな」
「でも金額でいえば、俺が負担する額の何分の一だよコラって話っすけどね」
「あ、そうか……ごめん」
「いや、保険使えるんで、それはいいんですけど……でも俺思うに、コンマ何パーセントにしたところで、それって可能性ゼロじゃないわけでしょ」
「確かにな」
「コンサルタントは、致命的な症状をもたらす可能性のあるコドンはすべからく抜き取ってあるっていうんですよね。ウイルスのDNAから」
「そうなんだ」初めて聞く話じゃないか、と亜一郎は首を振りたくなった。
「でも“絶対”なんて俺、あり得ないと思う。現にこの俺の症状だって、想定外みたいな言い方しやがったわけだし」坂本は話しながら次第に感情が昂ぶっていく様子だった。「コンサルタントは“まず”ない、って言ったんですよ。“絶対に”ない、じゃなくて」
「逃げ道確保的なやり方だな」
「そんな、製造販売元が保証してくれない安全性なんて、安全でもなんでもないっすよね」亜一郎の言葉を蹴飛ばすように、坂本はなかば叫ぶ。
「確かに」同意の他、道は見えてこなかった。
「危険っすよね」
「うん」
「俺は、はっきり言いますよ」坂本のマスクの上の両目がぎらり、と光った。「やっぱり女は、生がいい」
「――」何かのキャッチコピーみたいだな――そう思いながら亜一郎は、ただ絶句した。
「生身のおんぬぐげっほっ」坂本は激しく咳込んだ。「げっほっ、げーっほっげっほ、げほげほげほ」止まらない。
「ちょちょちょ」亜一郎は焦り、きょろきょろと見回す先に見つけたカウンター上の黒いナースコールボタンを押した。
「どうかなさいましたか?」すぐに天井のスピーカから訊いてくる声がした。
「あ、すいません、咳が出て」亜一郎は天井と坂本を交互に見ながら伝えた。
坂本のいる側の壁のドアが開き、看護師が小走りに入って来、小さなボンベにチューブでつながるマスクを手早く坂本の口元に宛がって、その背中を軽めに叩いた。
坂本は死に物狂いの様相で酸素を貪り吸い、数秒のうちに三途の河辺から生還した。
「もう面会終了でいいですかね」看護師が亜一郎に対して無表情に問う。
「あ、はい」亜一郎は恐縮して頭を下げた。「すいません」
坂本は看護師により車椅子を押され、ドアに向かった。
「ごめんな坂本君、ありがとな」亜一郎はガラスの向こうへ、素早く詫びと礼を述べた。
虚ろな目をした坂本は、吸入マスクを口に当てたまま無言で片手を上げた。
その後、ドアの向こうに彼は消えた。
傷病兵、という言葉がふと、亜一郎の脳裡に浮かんだ。
◇◆◇
その晩、自宅に帰った後亜一郎は独りぽつんとコンビニ調達の焼飯を食べた。
さすがに鼻の下を伸ばしてともりゅんを稼働させる気には、なれずにいたのだ。
――一年契約、しちまったよ……
もそもそと焼飯を口に運びつつ、茫然と思う。
食後、缶入りビールをちびちびと飲みつつ、端末を手に取り、アプリを立ち上げた。
ファイナルパートナーだ。
使用説明書のQ&Aを開く。
“感染”で検索する。
十数個の項目がヒットした。
『感染した場合、症状は何日後に現れますか?』
という質問が目に留まった。
そこを叩く。
『個人差はありますが、通常は感染後二週間程度で風邪に似た症状等が現れます。』
という回答が表示される。
――出た。
思う。
『風邪に似た症状“等”』。
――“等”てのがあれだな、範囲無制限なんだよな。
苦々しく思う。
――等マルチだ。
ビールをぐびりと呑む。
――さて……
テーブルに缶を置き、はあ、とため息をつく。
――どう、出るのかな。俺の症状は。
まずはそれを見てからだ。そう思う。
何がそれからであるのか。
亜一郎はあまり直視しようとしていなかったが、結局は、ともりゅんと“次のステップ”に行くのが、であることに疑いはなかった。
◇◆◇
「おはようございます」
エレベータの前で声をかけられる。大崎有奈だ。
「おはよう」亜一郎は返事した。
「何かあったんですか?」訊かれる。
「え、別に」答える。「なんで?」
「なんか、落ちぶれてるから」大崎は真顔で答える。
「何それ。日本語違うよ」亜一郎は苦笑した。「落ち込んでるっていってよ」
「じゃあ落ち込んでる、ってなんでですか?」大崎は訂正の上理由を問うた。「何かあったんですか?」
「あー」亜一郎は自認してしまったことに若干後悔した。「いやあ、特に別に」
「振られたんですか」大崎がずばりと言う。「彼女さんに」
「え、いや」亜一郎は若干おたおたした。「そういうんじゃないけどね」
「倦怠期、とか」大崎は容赦も納得もしない。「こないだの、ラブラブ全開の顔とうって変って沈んでますよ」
「そんな、毎日毎日気分いいわけじゃないよ」ははは、と亜一郎は疲れた笑いをする。
「そういう時はやっぱり、あれですよ」大崎が指を立てる。「おいしいもの食べて、ぱーっとはじけ飛ぶみたいな感じで」
「おいしいもの、かあ」
ぽん、と、エプロン姿のともりゅんが浮かぶ。
スクランブルエッグに、肉じゃが。
どちらも、亜一郎の好みの味だった。
美味かった。
おいしいものを食べる、のであれば、ともりゅんを稼動させれば良いのでは、ないのか?
わざわざ外食に資金を費やさずとも。
何しろ、一年契約を結んでしまった以上は。
そう。
仮想嫁の使い道というのは何も“細胞交換”のみでは、ないのだ。
おたおたする必要など、ないのだ。
そもそも“その行為”をする為には“その行為”をする旨、オーダーしなければならない。
逆に言えば、オーダーさえしなければ“その行為”はしなくても、いいのだ。
そう、単に家事炊事だけを頼んでいる限りは、ウイルスに感染してしまう心配など、ないのだ。
じゃあ、そうすればいい。
普通にともりゅんに「うまい飯作って」と、頼めばいいだけだ。
そして食べ終わって、ともりゅんが後片付けをして、コートを着て、
「行ってきます」
と言い玄関から、出て行く――
心臓に、何かが刺さって痛みをもたらした。
ああ、駄目だ。
あの感じ。
「失礼します」ではなく「行ってきます」と言って、いなくなる、ともりゅん。
飽くまで彼女は亜一郎の嫁なのだから、亜一郎の家から出て行くときはいつも「行ってきます」になるのだ。
そして亜一郎の家に来た時はいつも「ただいま」と言うのだ。
その間亜一郎は独りで、コンビニ飯を食いながら、ともりゅんを――
待っているのだ。
「先輩?」
出し抜けに呼ばれて、はっとする。
大崎が“開”のボタンを押したままで、エレベータのドアは全開になっていた。
「降りないんですか?」
「あっ、ごめん、すいません」エレベータに同乗していた他の部署の社員たちにぺこぺこ頭を下げつつ、亜一郎は慌ててドアから出た。
「やっぱり先輩、おかしいですよ」大崎が後ろからついて来ながら断言する。「私おいしいとこ知ってますけど、今日の帰りにでもご飯行きます?」
「んー」亜一郎は歩きながら迷った。「帰りまでに、考えとく」
「わかりました」大崎は無理強いしなかった。「まあ平日なんで、予約なしでも多分座れると思います」
仕事に集中していれば、ともりゅんのことでくよくよ思い悩む暇などなく、ほどよい緊張の中適切な判断をすることもできた。
だが、休憩時。
それも雑談相手がふといなくなり、独り休憩室に取り残されたりする時。
ビルの窓から町並を遠く眺めながら脳裡に浮かぶのは、当然のようにともりゅんと――いつものように笑っていてデフォルト設定のようにエプロンをつけている――彼女の差し出す、スクランブルエッグそして肉じゃが。コーヒーも。
小休憩の短い時間でさえその面影に胸を撃ち抜かれる有様だから、昼休憩になったらどれだけ自分は思い悩むことになるのか?
はあ、と荒くため息をつく。
――面倒臭え奴だな、俺は。
自分でそう思う。
そんならもういっそ、毎日欠かさずともりゅんを呼んで、したいようにすればいいじゃないか。
なにしろ彼女は俺の妻で、年間契約してるんだから。
取り敢えずは来年まで俺のものなんだから。
契約更新すればその後も引き続き。
それでウイルス感染して重病になったなら、坂本に続いてしおらしく入院治療すればいいだけのことだ。
そう、ウイルスに感染して免疫症状が出るのは、体内に抗体ができるまでの間ただその一度きりなのだから。
亜一郎はそこへの思い至りに、光芒を見た。
――そうだよ。一回だけ風邪に罹って養生すりゃあ、後はどうってことないんだよな。
たとえそれが、入院するほどの重症になったとしても、死にはしないと会社は言ってるんだし。
「俺は絶対なんてあり得ないと思うんです」
坂本の悲壮な叫び。
しかし彼については、彼自身がそういう稀有な体質だったからということだろう。
そんな稀少な例が、そうそう引き続いてこの近場で起きるわけがない。
もしそんなに再々起きていたなら、この会社自体がとっくに潰れているはずだ。
そう、企業実績が物語っている。
この会社は、業績をどんどん伸ばしている。
株価もがんがん上がってきている。
ということは、ちゃんとした、真っ当な、信用に価する会社と判断してよいのではないか。
「先輩」大崎が、亜一郎のデスクの脇に立って声をかける。「さっきからなに百面相やってるんですか」
「え?」亜一郎は怯えている子犬のようにびくっと体を強張らせた。「俺?」
「はい」大崎は手に持つA4の印刷物を何枚か亜一郎のデスクに置きつつ頷く。「なんか今朝の続きで落ち込んでるかと思ったら、急にニタッと薄ら笑い浮かべたり、その後また仏像みたいになったり」
「ええっ、俺そんな?」亜一郎は目を左右に泳がせながら配布された印刷物に目を落としたが内心、冷や汗を大量にかいていた。
無意識のうちに、顔にまで思っていることが出てしまうなんて。
それも休憩はとうに終っているというのに、業務時間中にまで。
すでにある意味“重症”なのではないか。
「わかりました」大崎が謎の了解をする。「緊急事態っぽいんで、もうランチ、行きましょう」
「え」亜一郎は驚いて大崎の顔を見上げる。「昼間っから酒呑むの?」
「なわけないでしょ」大崎は手にした残りの書類の束で亜一郎の頭をはたく真似をする。「がっつり中華行きますよ。呑むのはジャスミン茶です」
「あ、俺も行く」他のデスクから同僚男子が乗って来る。
「じゃ俺も」
「あたしもー」
そんなこんなで、その日のランチは五名という人数で中華料理店の丸いテーブルをくるくる回しながら食べることになり、雑談もはずみ、おかげで長い休憩時間にくよくよ思い煩うことを免れたのだった。
◇◆◇
問題は夜だ。
ランチで外食したので夜の飲みはさすがに「また今度」で帰宅の途に着いたが、帰って来たマンションの部屋は、当然ながら無人で暗く、寒いのだった。
それはいつものことなので、今更驚くようなことではない。
だが今そこに、ともりゅん(幻影)が、存在する。
「お帰り」
その声まで――
そうだ。
ともりゅんがそこにいてくれて、あの笑顔で帰って来た俺を迎えてくれて、その時すでにカレーとかができていて、ドアを開けた途端幸せの匂いが俺の鼻腔を刺激する――
それでこそ、結婚というものじゃないか。
そういう方面にこそ役立つのが、仮想であるにしろ嫁じゃないか。
そういうニーズに応えてこその、ファイパー株上げ続行じゃないか。
亜一郎は、端末を手に持った。
アプリ起動。
『お疲れ様です。何かご用はありますか?』
「今からカレーを作りに来て、ください」オーダーというより“依頼”だな、と我ながら思いつつ、告げる。
『今から カレー はい ただいま』
亜一郎は待った。
待ちながらこの先、効率よく目的を達成するべく、計画を立てていた。
仕事以上に集中して。
ピンポーン
飛び上がり、駆け出す。
「ただいまぁ」ともりゅんが大きなエコバッグを肩にかけ“帰って”来た。
「お帰り」亜一郎は自然に笑みがこぼれるのを止められなかった。
――ああ、やっぱり俺は、この娘に逢いたかったんだ。
「重かったぁ」ともりゅんは眉を八の字にして靴を脱ぐ。
「ははは、ごめんね」亜一郎はすぐに彼女の肩からエコバッグを外してやった。「急にカレーとか頼んじゃって」
「ううん、あたしも食べたかったから」ともりゅんは悪戯っぽく笑って肩をすくめる。「でも市販のルウにしちゃった」
「充分だよ」キッチンカウンターの上にトートバッグを置いてから、いよいよ亜一郎は自分の計画を実行に移す時を迎えた。「あのさ、ともりゅん」
「ん?」エプロンをつけながら、ともりゅんは小首を傾げる。
「俺、君がカレー作ってる間、ちょっとお使いに行って来たいんだ」
「あれ、そうなの?」ともりゅんはくりっと目を丸くする。「言ってくれればついでに寄ったのに」
「いや、大丈夫」手を振る。「カレーってさ、何分後ぐらいにできるもんかな? 一時間ぐらい?」
「あー、うーんそうね」ともりゅんはトートバッグを開けながら天井を見る。「煮込み時間次第だけど、一時間あれば充分だよ」人差し指を立ててにこっと笑う。
「オッケー。それまでには帰るようにするよ」
「うん。行ってらっしゃい」ともりゅんは玄関先まで見送りに来てくれ「あれ、いつもと逆だ」と自らコメントした。
「ははは」亜一郎は苦笑気味に笑いながらドアを開けた。「鍵かけとくから、知らない奴来ても開けるなよ」と注意する。
「わかった」子どものように頷く。「ピンポンスルーしとく」
「何それ?」閉めかけたドアを止めて訊く。
「ピンポンダッシュの、インドアバージョン?」ともりゅんが天井を見ながら考え考え答える間に亜一郎は再び玄関のたたきに戻った。
何秒間かキスをして、それから改めて出掛ける。
――誰にも、何の遠慮もするもんか。
そう思いながら、亜一郎は目的の店へ向かった。
ネットで八時閉店と確認した所だ。
急げば、まだ間に合う。
◇◆◇
「うわあ」ともりゅんは、亜一郎が驚くほどに、驚いていた。「鍵だあ」
彼女の両手の中には、作りたてピカピカの、亜一郎の部屋の合鍵が載せられていた。
「ははは」亜一郎は照れ臭そうに笑った。「なんていうか、ぶっちゃけここはさ、ともりゅんの“家”じゃん?」
「うん」ともりゅんは目を細めて頷いた。「ありがとう。可愛いキーホルダーとか、つけてもいい?」
「あ、そりゃ勿論」頷く。
「わーい」子どものように鍵を両手に握り込む。「あ、じゃあお礼に、一個教えてあげるね」
「え、何を?」
「あのね、」ともりゅんは何故か顔を赤らめ、斜め下に視線を落とした。「あたし、一個のご用を終えて、“最後のご挨拶”をした直後に、もう次のご用が、受けられるの」
「え――」亜一郎は一瞬白くなった頭を急いで再起動し、今ともりゅんが言った言葉の集まりを、吟味した。
一個の用を終えて――
最後の挨拶をした直後に――
次の用が受けられる――
「最後の、挨拶って」訊く。
「あのいつも、ここから出て行く時に言うやつ」床を指差して、ともりゅんが答える。
「行ってきます」
――あれか。
「ああ……」ぼんやりと、頷く。「追加、できるんだ」
「そう」ともりゅんも、頷く。「四十八時間以内なら、何度でも」
亜一郎はゆっくりと頷きを繰り返した。
――そういうことか。
つまり、食事が終わりともりゅんが「行ってきます」と言った直後に、例えば「部屋の掃除して」と言えば、引き続き「かしこまりました」となりそのまま部屋の掃除コマンドが遂行されるわけだ。
そしてさらにその掃除が終わりともりゅんが「行ってきます」といった直後に「洗濯して」と言えば、引き続き「かしこまりました」となり――
そして。
さらに。
亜一郎は無意識のうちに胸の前で両手を組み合わせていた。
そしてさらに、何かしらの用事が終ってともりゅんが「行ってきます」と言うや否や「服脱いで」と言えばともりゅんは「かしこまりました」とそうするのであり、さらにそして「行ってきます」と言った端から「ベッドに来て」といえばともりゅんは「かしこまりました」とそうするのでありさらにそしてまた、
「カレー食べよっか」ともりゅんが言った。
「かしこまりました」亜一郎は反射的にそう答えた。
カレーは、美味かった。
のだろうと、思う。
その実亜一郎は、もっと美味しい目に遭うことばかりを夢想していた。
料理と、それを作ってくれたともりゅんへの大いなる冒涜であるという意識さえも、昇る余裕がなかった。
ちらりと、隣で一緒にカレーを食べるともりゅんを見る。
彼女も美味しそうに、楽しそうに食べている。
今彼女は、どんな気持ちでいるのだろうか?
このカレーを食べた後、後片付けをして――
「行ってきます」と言った、その直後。
亜一郎から“次のご用”を言いつけられることを、予測しているのだろうか?
恐らく、そうだ。
そうだからこそ、その情報を教えてくれたのだ。
つまり彼女にも“その気”があるということだ。
恐れる必要はない。
堂々と、望み通り、ご希望通り、申し付けてやろうじゃないか。
亜一郎はらっきょうを、がりっと噛んだ。
そして、食事は滞りなく終了した。
後片付けも。
ついに、“ご用”を伝える時が、来たのだ。
亜一郎は、ごくり、と喉を鳴らした。
準備はできているか?
抜かりはないか?
「じゃあ」ともりゅんが、頬を桃色に染めて、いつもよりゆっくりと、言う。「行って、きます」
「セ」亜一郎はその一文字をなかば叫び、その直後にしまった、と激しく思った。
よりにもよってそんなあからさまな単語を、俺は言うのか?
この純情可憐なともりゅんさまに、そんな破廉恥な単語を使うのか?
セクハラじゃないのか?
もっとこう、自然で美しい、ロマンティックな言葉は、ないのか?
セックスを、もっと大人っぽいかっこいい言葉に変換したら、何になる?
「せ」亜一郎は激しく考えを巡らせた結果、二度ほどどもった挙句「生殖行為をしたいです」と告げた。
「――」ともりゅんは目を丸くして二秒ほど絶句していたが、少し俯いてから「はい」と頷いた。
「あ」通じた、という想いが亜一郎を包み、天井から神々しい光が刺すような錯覚に捕らわれた。
「あの、でも」ともりゅんが急いで追加する。「ごめんなさい、生殖自体は、あたしできないの」
「えっ」亜一郎はきょとんとした。一瞬、自分で叫んでおきながら「生殖」という言葉の意味がわからなかった。「せいしょく、が?」
「うん」ともりゅんは真っ赤になって頷く。「あたし、卵巣がないから……子どもを生むことは、できないの。だから……その、“行為”だけに、なっちゃうんだけど」上目遣いで亜一郎を見る。「いい?」
「もちろん」亜一郎は何も考えることなく受け入れた。
もちろんだ。
どこに“いけない”理由がある?
つまりいわゆる“危険日”の心配をしなくてもいい、ということじゃないか。
何も考えずに、行えばいいのだ。
オールOKだ。
行為さえあれば、生殖なんてものは要らない。
気がつくと亜一郎は、ともりゅんをお姫様抱っこして寝室へと向かっていた。
ともりゅんは、すべてを亜一郎に託しきっていた。
そして亜一郎は、胸を張ってどんと任せろという気分だった。
時間は、たっぷりある。
ゆっくり時間をかけて、ともりゅんを知って行きたい。
自分のことも、知って欲しい。
そうやって、こうやって、ああやって、いろいろやって、二人は真の夫婦になるのだ。
普通の夫婦とは違うかも知れないけれど。
仮想夫婦と呼ばれるものかも知れないけれど、それでもいい。
自分がいて、ともりゅんがいる。
世界の中にその二つの要素さえあれば、もうなんだっていい。
仮想夫婦、万歳。
亜一郎は、ともりゅんのすべすべした肌を壊さぬよう丁寧に愛でながら、そう思い至った。
そして理性の声を聞いたのは、それが最後だった。
野生の嵐に、身を任せる時が来たのだ。
◇◆◇
無事に夫婦の契りを成し遂げてからは、亜一郎に取りまさに「充実」の日々であった。
「最近なんか調子よさそうですね」大崎からもそういったコメントが寄せられた。
「ははは、これが普通だよ。標準だよ」軽く笑って受け流すも、内心では大いに頷いていた。
――そう。すべて順調だ。
仕事の成績においても、なんだか良い結果が続くのだった。
――ああ、良いもんだな。結婚て。
そんな風に思う。
「また呑みに行きましょうよ」大崎が提案する。「皆にそのパワーの秘密を共有して頂きたいです」
「んー」思わず言い淀む。
本当のところをいうと、業務終了後は脇目もふらずに帰宅して、ともりゅんと共に晩飯を食べ、引き続いて一緒に風呂に入り、引き続いてベッドでハッスルしたかった。
妙なドラマや映画の中でしか聞いたことのない科白を彼女の――否、妻の耳許で囁き、ゲームの中でしか聞いたことのない声を妻の口から放たせたかった。
だがしかし、自分は一家庭人であると同時に、一社会人だ。
この世で最も大切なものは家族でありプライベートだと断言しよう、けれどその家族を養う糧となる仕事上での円満なコミュニケーション構築による快適かつ持続可能な環境づくりへの努力も必要だ。
「そうだね、行こう」亜一郎はにっこりと頷いた。
余裕かます俺。
今の自分に最適なコピーはこれだ、と思った。
◇◆◇
職場では同僚たちと語らい労い合い、家ではともりゅんと楽しみ寛ぎ、すべてがうまく進んでいた。
そんな中、それは初契りの日からちょうど二週間目の日に、やって来た。
朝目覚めると、体が鉛のように重かった。
起き上がろうとするのだが、すべての関節が糊で固められたかのように、曲がろうとしない。
筋肉が、夜中に夢遊病で四十二キロほど走って来たのかと疑うほど、重く、だるく、疲れている。
背中が痛い。
頭が痛い。
手足の先が、ディズニーのアニメキャラクターのように膨らんでいるような感じがする。
――あれ……インフルエンザかなんか……?
最初はそう思った。
――ウイルス……ああ……そうか今か……
細胞交換の洗礼が、ついに自分にも訪れたのだ。
そういう事かと理解した直後、亜一郎は気絶した。
次に目覚めたのは始業時刻十分前だった。
亜一郎は熱にうなりながらも会社へ電話をかけ、連絡が済むなりばたりと端末を床へとり落としてさらに三十分ほど伏せていなければならなかった。
ともりゅんを呼ぼうか、と少し思ったが、自分の所為でこんなことになったと思わせたくなかったし、なんというか、みっともない姿を見せたくない、という奇妙な自尊心が首をもたげていた。
こういう時にバーチャル嫁を“利用”しないのは本末転倒なのかも知れない、という意識も片隅に密やかに存在はしていたが、亜一郎の半開きの目はそれについては見て見ぬ振りをしたのだった。
自力で、なんとか病院へ行こう。
そうだ元々俺は独り身なのだから。
たとえ仮想の結婚はしていても、俺は本当は独身なのだから。
もやもやと考えると頭痛が強まるので、亜一郎は何も考えず病院に向かった。
点滴を受け、対症治療薬を処方してもらい、レンジで加熱するだけで食べられる食品――おかゆ、おじや、うどんなど――をコンビニで買い込み、マスクの下でふうふう息を切らしながら帰宅した。
季節的には暖かくなってきたはずなのに、部屋の中はひっそりと寒い。
震えがくるほど、寒い。
――ああ、やっぱり意地を張らずに、ともりゅんにうどんかおじやを作ってもらえばよかった……
ともりゅんがレンゲでおじやをすくって、ふうふうと息を吹いて冷まして、「あーん」と言いながら自分の口もとへ持ってきてくれている様が浮かぶ。
――せっかく、結婚したのだから……
亜一郎は、買って来た食材の入ったレジ袋をキッチンまで運びきることもできず床上にへたり込んだ。
病院にいる時間が長かったため、もうすでに日は傾き、室内はみるみる暗さを増してきていた。
寒く、暗い。
なんだか物悲しくさえなってくる。
ピンポーン
突然ドアホンが鳴った。
はっと視線を上げる。
ともりゅん?
どうして?
呼んでもいないのに?
まさか自発的に、俺を気遣って、ノーオーダーでも来てくれたのか?
何か異変を感じ取ってくれたとか?
離れていても心が通じ合っているやつか?
立ち上がろうとして滑ってべたっと床に這いつくばる。
がちゃり
同時に、ドアが開く。
「こんにち――先輩!」控えめな挨拶の声に続く、悲鳴に近い声。
床に這いつくばった状態から視線を上げると、大崎の姿が見えた。
慌てて靴を脱いで上がって来る。
「大丈夫ですか? 風邪って聞いて生存確認に来ました」レスキュー隊員もかくやと思わせるほどてきぱきと、亜一郎の体を起こし、肩に腕を回して立たせ、「寝室はどこですか?」と訊く。
「あ……そっち」肩に担がれていない方の指で指すと、亜一郎の背に手を回して誘導する。
亜一郎はベッドに寝かされ、布団を口元までかけられ、大崎が来しなに買ってきたものらしい熱用冷シートを額に貼られた。
「一人で来たの?」亜一郎は訊いた。
「寺井さんの車で送って来てもらいました」大崎は答えた。
亜一郎の同期の寺井が、ここまで乗せて来たということだ。
「寺井は?」また訊く。
「お帰りになりました」大崎は答えた。「お大事に、との事です」
「なんだ、あいつは見舞ってくれないのか」少し苦笑する。
「車停めるところがないですから」大崎は代わって弁明する。「風邪がうつっても困るし」
「ああ、まあ……あれでもそれは君もでしょ」大崎を見る。
「私は頑丈にできてますし、日頃の体調管理もしっかりしてますから、問題ないです」一分の隙もなく、答えが返って来る。「さっきコンビニの袋がありましたけど、なんか作りましょうか」
「ああ……いや、大丈夫だよ」
「いいですよ、こんな時ぐらいサービス残業します」大崎は立ち上がる。「うどんでいいですかね」
「うん……悪いね」
「人間らしいこと言わないで下さいよ、縁起でもない」大崎は手を振り、キッチンへ向かった。
「どういう意味でしょうか」力なく苦笑し、亜一郎はひとまず任せることにして目を閉じた。
しばらくして大崎は湯気の立つ丼をトレイに乗せ運んで来た。
「結構綺麗にしてるんですね」少し驚いたような顔で言う。「流しの周りとか冷蔵庫の中とか、とても男性の一人暮らしとは思えない」
「あっげほっげほっ」思わず咳込む。
「すいません、私鈍くて」大崎は苦々しげな表情をしながら亜一郎の背をさする。「やっぱり同棲か半同棲、されてるんですね。鍵開いてたから勝手に入ってしまいました。急いで帰ります」
「いやげほげほ」亜一郎は慌てて手を振る。「あれは俺がやったの。俺きれい好きだから。整理整頓マニアだから」
「まじですか」大崎は、それはそれで眉をひそめた。「潔癖症ですか」
「そういうわけでも、ないけど……」亜一郎は立つ瀬がなくなり口ごもった。
「まあ、とにかく食べて、ゆっくり寝て下さい」大崎はベッド脇のサイドテーブルに置いたトレイを手で示した。「『あーん』とか必要ですか?」
「いや、ありがとう」亜一郎は苦笑混じりに頭を下げた。「ほんと助かったよ。気をつけて帰ってな」
「はい。じゃあお大事に。ここで失礼します」大崎も頭を下げ、さっさと玄関へ向かった。
ばたん、とドアの閉まる音。
亜一郎はマスクを外し、柔らかめに煮込んであるうどんを食べ始めた。
◇◆◇
熱は翌日には下がり、翌々日からの週末も挟んで体調はすっかり回復した。
これで、ともりゅんからもらったウイルスへの抗体ができた、今後は発症もしない、ということになるのか……亜一郎ははっきりとした保証のないことに思いを馳せた。
それを確定させるには、自分およびともりゅんの体からウイルスを摘出しDNAが一致するかどうか照合するという作業が必要になるのだろうが、いかんせんそこまでの、時間的はともかく資金的な余裕まではない。
どこかの大学や研究機関に「バーチャル嫁と肉体関係を結んだのだがウイルスをうつされていないか検査して欲しい」と頼む事ができるほど、亜一郎は自分の神経の太さについて自信がなかった。
陰でどのように囁かれるのか、想像しただけで生きていくのが困難になりそうだ。
そんなわけで、あとは信じるしかなく、実際にその後体調は良好な状態が続いたので、亜一郎はすっかり安心し、再びともりゅんとの秘密にして密なる新婚生活を再開し堪能しはじめた。
仕事面でも後れを取り戻すべく努力邁進し、好結果を出し、公私ともに充実した日々を送ることができていた。
そこに水を差したのは、ファイナルパートナーと契約を結んだ翌月末近くのある日に確認した、クレジット利用明細および口座利用照会の内容だった。
引き落とし額を見た瞬間、何かの間違いではないのか、と思った。
通常の月の、ざっと四倍ぐらいの額が、残酷なまで一気に引き落とされている。
――なんで……
間違いでも詐欺被害でもないとすれば、思い当たるのは一点“食費”だけだ。
食費――ともりゅんが買って来る、食材、調味料。
また必要に応じて揃える、調理用器具。
そして、交通費。
「ともりゅん」亜一郎は妻を呼んだ。
「はあい」風呂の掃除をしてくれていたともりゅんだが、返事してすぐにリビングへ小走りに入って来る。
「あのさ」亜一郎はどのように伝えるべきかを脳内でシミュレートしつつ、ノートPCの画面を妻に見えるように向けた。「この、ここの所、わかる? 今月の、生活費というか、食費その他の額、なんだけど」
「ああ、はい」ともりゅんはその数字をまっすぐに見つめながら頷く。
何が問題なのか、すぐには考えが及ばないようだった。
「あのう」亜一郎は視線を彷徨わせた。「食料品って、いつもどこで買うの?」
「角菱デパートだよ」ともりゅんは明るく即答した。
「――角菱か」
「角菱デパートの商品券五万円分包んでくれた」
後輩の坂本の入院先へ行った際に聞いたその言葉を思い出す。
――何か、企業同士で提携とかしてるのかな?
ふとそんなことを思う。
「他の、さ……例えば、あっちの角っこにある“スーパーまるせう”とかで買うようにしてもらうとか、できるのかな?」親指で背後を指しながらともりゅんに訊く。
「まるせう?」ともりゅんが訊き返す。
チロチロリン チロチロリン
端末を取り上げる。
『申し訳ございません 角菱デパート以外の店舗での買い物は承りかねます』
「え、なんで?」亜一郎は端末に向かって訊き返す。
『申し訳ございません 詳細につきましてはお答え致しかねます』
亜一郎はともりゅんを見た。
「ごめんなさい」ともりゅんは心底困ったというような顔をしてぺこりと頭を下げた。
「――」亜一郎は何も言えなかった。
立ち上がり、キッチンへ向かう。
流しの周囲は、きれいに整頓されている。
洗剤、スポンジ、まな板、水切りかご、グラス立て、菜箸、おたま。
それらが納まっているのは、それぞれ形やサイズの違う、同じメーカー、同じシリーズのステンレス製網棚だ。
ともりゅんが、揃えたものだ。
無論、事前に「ここに、こういう感じの整理棚を置きたいんだけど、どうかな?」という風に相談は受けていた。
そしてその都度亜一郎は「うん、もう好きにしていいよ」と任せてきた――丸投げして、きた。
つまりそこにあるモノたちはすべて、角菱デパートにて購入された高級なモノたちだということだろう。
ディスカウントストアやホームセンター、百円均一ショップなどではなく。
棚のひとつの端っこをつまんで、前後左右に引っ張ってみる。
びくともしない。
なるほど、錆つきも一切ないし、頑丈そうだ。
長持ちしそうだ。
だがハウマッチ?
ふ、と息をつく。
冷蔵庫に向かう。
ドアを開けると、その中もきれいに整頓されていた。
お揃いのシール容器に詰められた食材たち。
ドレッシングやソース類も、お揃いのメーカーもしくはお揃いのガラス製のビンに詰められドアポケットにきれいに並んでいる。
その様は、芸術的でさえある。
それらの、食材および容器類すべてもまた、角菱デパートにて買い揃えられたものだろう。
こちらも同様、 ディスカウントストアやホームセンター、百円均一ショップなどではなく。
そしてハウマッチ?
ふ、と息をつく。
ドアを閉め、リビングへ戻ろうとして最後にもう一度キッチン内をぐるりと見回した――その時。
行政指定のゴミ袋をかませたゴミ箱が目に留まったのだ。
そこから、何か確認すべき危険信号が発せられているように思えた。
――何だ……?
近づいてみる。
「――」茫然とした。
そこには、ビニル製の水切り袋に包んで捨てられた、食肉や野菜――どれも色が茶色く変わっている――たちが大量に捨てられていた。
――産業廃棄物。
何故かそんな言葉を思いつく。
「ちょっと、ともりゅん」呼ぶ。
「はい」妻は素直に小走りでやってくる。
「これ、どうしたの?」ゴミ箱の中を指差す。「なんで捨ててるの?」
「あ、消費期限が切れちゃったの」ともりゅんは眉をひそめて答えた。「野菜も、しおしおになってもう食べられなさそうだから」
「こういうのは、使い切らないと」亜一郎は、声のイントネーションが平板にならないよう気をつけながら、言い渡した。「二人分だから、買う時に今の半分の量だけ買うようにするとか」
「はい」ともりゅんは素直に頷いた。「お肉があまると、もう使えなくなってしまって」弁明をする。
「え、どうして?」
「例えば唐揚げを作った時に鶏肉が余ると、次の日も唐揚げにするわけにはいかないからそのまま置いておくんだけど、何日か経つと変な臭いがしてきて食べられなくなってしまうの」
「――次の日は、照り焼きにするとかは?」
「あ」ともりゅんは、今初めてそれを知ったかのように目を丸くして口を押えた。
「親子丼とか」
「そうかあ」頷く。
――ウイルス?
亜一郎の脳内で、そう分析する何者かの声が響く。
――ウイルスの、仕事能力の限界なのか? 使い回し機能は発達してこなかったのか?
「まあ、次からは捨てずに済むように気をつけてね」そう言って、微笑む。
「はい」ともりゅんもにっこりして頷き「あ、じゃあお風呂掃除の続き、してくるね」と言い残してバスルームへ小走りに去って行った。
ふ、とため息をついて亜一郎はソファに腰掛けた。
――ちょっと、ペナルティを与えてやろう。今日は、抱いてやんない。
心を引き締めて、そう考える。
やがて風呂掃除を終えたともりゅんが、リビングに入って来た。いつものように、ジャケットとバッグを身につけ帰り支度済みの格好だ。
「じゃあ」小首を傾げて亜一郎に言う。「行ってきます」
「はい」亜一郎は瞼を伏せて頷き、嗜めるように再度ともりゅんを見た。
ともりゅんは、にっこりと笑った。
――え?
亜一郎は、不思議なほど衝撃を受けた。
ぱたぱたと小走りに、ともりゅんは玄関へ向かい、さっさと靴を履いた。
慌てて後を追う。
ドアを開けるともりゅんの背は、丸まっても、哀しんでもいなかった。
そのままドアを閉め、最後に向こう側でもう一度、満面の笑顔を浮かべ「じゃあね」と鈴の音のような声で最後の科白を告げ、ともりゅんの姿は消えた。
――喜んでる?
亜一郎の心は、きょろきょろと右往左往していた。
――え、ともりゅん、俺今日、君のこと抱かずに帰したんだぞ? あんなことやこんなことして喜ばせてやらなかったんだぞ? なんでそんなに嬉しそうなんだ? 寂しくないのか? 哀しくないのか? どうしてって訊かないのか? あれえ?
実はともりゅんは、セックスが嫌いなのではないのか、そんな考えまでが脳裡をよぎる。
今まで、亜一郎の満足のために、嫌なセックスを我慢して受け入れて来ていた、とか?
彼女にとってその行為は――奉仕、だったのか?
或いは、仕事?
亜一郎の足許は、ぐらぐらと瓦解し始めていた。
◇◆◇
その一件以来亜一郎は、ともりゅんの稼働中に、余り良いことではないと思いながらもついその行動を“監視”するようになっていた。
合鍵を渡したのは、会社にいる時点でオーダーをし、仕事が終って帰宅した時にはすでに晩御飯ができているという幸せを満喫する為のようなものだったのだが、もはやそれをする気も起きないのだ。
なにしろちゃんと見ていないと、また何を買って来て何を捨てられるかわかったもんじゃない。
自分のいないところで家事、特に炊事を任せることは、できなかった。
そのうち監視自体に虚無感と疲労感を覚え始め、次第にともりゅん稼働日数にも隙間があき始めた。
いつしかともりゅんを呼ぶのは休日、自分の在宅時に掃除洗濯と「簡単な」料理をしてもらい、たまに気分が乗った際には体を合わせる、というパターンになっていた。
「先輩、ゴールデンウィークはどこか出かけるんですか?」大分暖かくなり過ごしやすい季節となって来たある日、大崎が訊いてきた。
「ああ、実家でだらーとするかもね」
「それだけですか」
「何か他にありますか?」
「皆でバーベキューでもやるかって話が出てるんですけど、参加します?」
「バーベキューか。誰か車出すの?」
「寺井さんと常川君が名乗り上げてます」
「へえ。行ってみようかな」
「彼女さん、怒りませんか?」大崎は特に他意のない様子でさらりと訊いてきた。
「――彼女さんという人は、存在しません」亜一郎は平静をどうにか保ちつつ答えた。
「あ、そうか。振られたんでしたね」大崎は口を抑え、いかにも失言しましたという風に目を見開いた。
「振られてはいません。存在しないので」亜一郎は飽くまで平静を保ちつつ回答した。
「はいわかりました。この話はもう致しません」大崎はぺこりと頭を下げた。
「君、完全に勘違いしてるだろ」亜一郎はつい声を高めた。
そんなやり取りの挙句、亜一郎はゴールデンウィークを、そのように――つまり専ら天然ホモ・サピエンス達と共に、過した。
前半では会社の同僚たちとバーベキューを楽しみ、またカラオケを楽しみ、後半は新幹線で数時間の距離にある実家へ帰り、騒音と人混みと満員電車のない呑気な田舎で、肺いっぱいに空気を吸い、思い切り羽を伸ばした。
当然ながら、帰省は一人での事だ。
新幹線の中でふと、実家においてアプリを立ち上げオーダーを告げたとしても、ともりゅんは実家にいつもの如く「ただいま」と言って現れるのだろうか、と思いつきはした。
だが実行してみようとは思わなかった。
何しろ本当に来られては困る。
そして、恐らく本当に来る可能性は極めて高いと、予測されたからだ。
◇◆◇
実家のリビングで母の剥いてくれたリンゴを齧りながらTVをぼんやり観る。
どこかの大病院で、ウイルスの院内感染が起き職員二十三名が重症となっているというニュースをやっている。
――まさかね……
リンゴをむしゃむしゃ食みつつ、ふ、と苦笑いをする。
「あ、そういえば」母親が、そのニュースに関連して何事か思い出したように言った。「大田さんちの馨くんね、パパになったんだって」だがその実、そのニュースとはまったく関連性のない話だった。
「へえー」亜一郎は特に感動もなく口先だけで返事した。
「何かお祝いしたげる?」母親が訊く。
「はあ?」呆れる。「いやあ、いいでしょ」なにしろ小学校の時のクラスメイトというだけの間柄だ。現在行き来も連絡もまったくしていないのに、降って湧いたように出産祝いなどする必要はないだろう。
「あーでもいいなあ。孫ちゃんかあ」母親は両手で頬を押さえ目を閉じた。
「――」亜一郎は返事せずにいた。
「あんたも早く結婚しなさいよ」予測通りの続き文句だ。
「――」もうしている、とは無論の事言えない。
「会社で誰かいい娘いないの? 彼女とかどうなの? いるの?」
「ははは」苦笑する。「忙しくって、そんな暇ねえよ」
ふと、大崎の顔を思い出す。
――あれ、なんで大崎さんが出て来るんだ?
不可思議には思ったが、その後母親の機関銃的なお喋りに晒され始めたためその場では深く考えることができなかった。
その夜、実家で過ごす最後の晩に、布団に入る前もう一度端末を見ると、緑色のライトがゆっくりと点滅していた。
催促だ。
すぐに察した。
果たしてファイナルパートナーからの「ご用伺い」のメッセージが、画面上に現れていた。
『亜一郎さん こんにちは 最近はいかがお過ごしでしょうか 何かお困りの事はございませんか?』
「ご苦労っす」端末に向かって労いを言う。
しかしご用はない。
画面を切り寝ようとした時にふと、亜一郎は思いついた。
――更新料って、幾ら取るんだ?
再度アプリを立ち上げ、ファイナルパートナーの使用説明書のQ&Aを開く。
“契約更新料”というキーワードで検索する。
多くの項目がヒットし、亜一郎はずばり『契約更新料はいくらですか?』という項目を開いた。
年間レンタル料、更新手数料、レンタル妻の仕様変更をする場合は変更箇所ごとの変更手数料。
新規契約時とさほど変らない金額だ。
手数料如何によっては、新規契約時よりも高くつくかも知れない。
「たけえっ」思わず眉根を寄せ声に出す。
――ぼったくりじゃねえのか?
ついそんなことを思う。
――そして買い物は角菱デパートに限る、だ。
「どんだけ使えば元が取れるんだ?」そう呟いてから、ふと、考えが浮かぶ。
食事の用意以外を頼むことにして、部屋の掃除と洗濯、それから夫婦の営み、それだけを毎日させる。
食事だけは自己調達――あるいはあらかじめ自分で安い食料品を買い込んでおいて、家の中にあるものだけを使って料理してもらう。買い足し禁止。てか買い物禁止。
人工ホモ・サピエンスも物は食べるのだろうが、それは帰社後にしてもらう。ユーザー宅では飲食禁止。作るのは一人分だけ。
――そして黙って俺の食事風景を見物してもらっといて、その後は、夜のお供をしてもらう。
亜一郎は自分の考えつきながら、考えている途中で吐き気にも似た嫌悪感ないし憎悪を感じ始めていた。
自分にだ。
――もしそれを実際に実行に移しやがったら、本気で縊り殺してやるからな、俺。
そう思う。
思い知らせる。自分に。
しかしそれは、飽くまで人間としてそんな事を実践する行為が許せないという想いであって、そこに「ともりゅんが可哀想だろう」という気持ちまでは、はっきり含まれてはいなかった。
不思議な程に。
――俺……冷めちゃったのかな?
そんな風に思う。
──所詮は、人工ホモ・サピエンスだし、な……
仮想妻という“夢”から、醒めたのかもしれない、そう思った。
――ともりゅんには、俺がいなくても、会社がちゃんと養ってくれるんだから。
そんな想いもあった。
食材の大量廃棄を見つけた日、ペナルティのつもりで抱かずに帰した時、ともりゅんが別段傷ついた風でもなくいつも通りにこにこして帰って行った、あの顔が忘れられない。
ともりゅんは、平気なのだ。
何故なら、会社という不動のバックアップが、彼女にはついているからだ。
別段、自分が守ってやったり養ってやったりする必要性は、ないわけだ。
ともりゅんは、会社の儲けの為に、俺を利用して角菱デパートでせっせと買い物していればいいだけなんだ……
亜一郎はうじうじと考える内、実家での最後の眠りに就いたのだった。
◇◆◇
子どもに、レンタル料。
リアル嫁がいれば、どちらの問題もクリアできるわけだ。
帰りの新幹線の中でも、世界遺産となっている美しい山の姿を窓から眺めながら、亜一郎はそれについて考えていた。
そう。
結局は、仮想嫁。
いくら可愛いといっても、リアルに一生愛せるものでも養えるものでもない。
ほんのいっときの、お戯れ用ツールなのだ。
はあ、とため息をつく。
「ため息出ますよねえ」隣の席に座っている高齢の女性が、にこにこしながら話しかけてくる。「本当に美しいこと」
「え」亜一郎はきょとんとしたが、その女性が世界遺産の山を見ていることに気づき「ああ、そうですね」と意見を合わせた。
そこから目的地に到着するまで、亜一郎はその女性の半生記物語に耳を傾け続けることになり、ひとまず、ため息をつく暇はなくなった。
◇◆◇
暖かい季節はすぐに蒸し暑い季節へと移行した。
オフィスにも街の店内も冷房がかけられるようになり、人々は汗腺が開くことを忌み嫌い極力避けようとする。
そして寒い季節に比べ、開放的な気分になるのか、会社帰りにビールで一杯やって行く頻度も高くなっていた。
鍋コースよりも、お疲れ様コースの方が価格的に手頃で飛びつきやすいのかも知れない。
その日も、小品三品プラス生ジョッキ一杯でやって行こうという提案が誰からともなく上がり、ぞろぞろと数名で店の暖簾を潜った。
そんな日はともりゅんの稼働をすることもなく、亜一郎にとっては幾分気楽に過せる夜ともいえた。
無論生理現象的に必要を感じた夜は、“それ”へのオーダーのみで稼働させることもあった。
ともりゅんは“それ”だけの“ご用”であっても、常と変らず、文句も言わず、機嫌のよさそうな笑顔で「ただいま」とやって来るのだ。
――この娘、ちょっと馬鹿なのかな?
亜一郎に至ってはそんな不遜なことまでも胸の内に密かに思ったりした。
それもこれも、所詮はウイルスから出来た人工ホモ・サピエンスの成せる技なのか。
何しろ一年分の金は払っているのだから。
彼女は――ウイルスは何を思おうと、主人がそうと命じれば従うしかないのだ。
だがその夜は、いつもと少し違う展開が待っていた。
「じゃあ、お疲れ」
「あーい、気をつけて」
そんな挨拶を交わし一人また一人と帰路に着いて行くのはいつもと同じだったが、その夜最終的に残ったのは亜一郎と大崎の二人となったのだ。
いきおい二人は差し向かいで、もう腹も一杯になったので酎ハイや梅酒ソーダなどアルコール補充ばかりを進めつつ他愛のない話を咲かせていた。
「木戸さんのあの空気はどうにかならないんですかね」大崎はグラスを持つ手もだるそうに、しかし口調は辛辣に言い募った。「ついていきにくい」
「言えばいいじゃん、本人に」亜一郎はぐびりと酒を飲み下して答える。「お前それ違うだろって」
「私を地方へ飛ばす気ですか」大崎が目を剥く。「ていうか、なんであの人が上に信用されて管理者ポストに抜擢されたのかがわからない。賄賂ですかね」
「それか、テクニシャンなのか、だな」
「何のですか」大崎の目がきらりと光る。
「腐女子か」亜一郎はするどく突っ込んでまた酒を飲み下す。「あれだよ、いかにも私は信用に価する人材でっせ旦那、っていうピンポイントなアピールをするテクニック」
「ああ、なんだ」大崎は本気で面白くなさそうに言う。「人として終ってるやつですね」
「けどそれができるだけでさ、給料もボーナスも段違いに良くなるんだからさ、やっぱ才能でしょう」
「ていうか」大崎は声を潜め視線を鋭くした。「あの人、いつの間に結婚してたんですか」
「あー」亜一郎は痛いところをつかれたように後頭部に手を当てた。「すいません、よくわかりません」
「しかも、来月? 生まれるんでしたっけ」
「えーと、だね」
「なに弾みでパパになっちゃってんですか」
「すいません」亜一郎はテーブルに両手をついて頭を下げた。「出し間違えました」
大崎はしばし間を置いたあと、「あはははは」と、大きく笑った。「ばかだなー」
彼女が爆笑するのは、珍しいことだった。
亜一郎は、その笑顔に何か光芒のようなものを見た気がした。
どうしてだろう。
眩い、笑顔。
いつも、馬鹿話をして笑い合っていたはずなのに、そんなことを思うのはその時が初めてだった。
今まで、彼女の笑顔を眩いと思ったことなどなかったはずだが……
その笑顔のせいなのかどうかわからないが、気づけば二件目で飲み直し、そこを出た後の帰り道で、どういう経緯でか手をつないで歩いていた。
そうしながらも相変わらず、話すのは色気のない馬鹿話ばかりだ。
大崎の自宅近くの公園を通り抜ける。
「先輩」大崎はまだ笑いを目元に残したまま、亜一郎を呼んだ。「私と、つき合ってもらえませんか」
「――」亜一郎は一瞬、自分が聞き違えたのかと思った。「え」
「――」大崎は突然、思い出したように頬を赤らめ、さっと斜め下に顔をそむけた。「ごめんなさい、急すぎで」
「あ、いや」亜一郎は、確認の為もう一度言って欲しいと思ったが、それを口にして良いものかどうか判断できずにいた。「え、えっと」
「でも私、本当に」大崎はもう一度亜一郎を見た。顔が真っ赤に染まっている。「先輩のこと、ずっと好きでした」亜一郎の手を握る手に力がこもる。
「――」今こそ聞き違いではないことが判明した。そして亜一郎はさらに、何と返事して良いのか判断できなくなった。
――天然ホモ・サピエンスに?
どういうわけか、彼の脳裡においてはその単語が超高速で回転していたのだ。
――天然ホモ・サピエンスに、リアルに告られたってか。
どこか上空の方で、自分を俯瞰しながらそう冷静にコメントする者が存在しているような気がした。
――なかなかやるじゃないか。天然ホモ・サピエンスとはな。
「何度も、諦めようって思ったんです、けど」大崎は心臓の鼓動を抑えるかのように、自分の胸に右手の拳を当てて目を強く閉じた。「でも駄目で、私……わ、私」
「――」亜一郎は、今まで単に話しやすくて気のおけない後輩だと思っていた相手が、本当に今自分に向けて顔を真っ赤にして愛の告白をしているのだろうか、すべて本当には間違いじゃないのかと、現状をつぶさに観察する必要を強く感じていた。
「先輩にしか、抱かれたくないんです」大崎は泣き声のように上ずった声でそう言いきると、両手で顔を隠して俯いた。
首筋までが、赤く染まっていた。
「――大崎、さん」声がかすれる。
細い肩が、小刻みに震えているのが見てとれる。
「俺、なんか」亜一郎は、頼りなさげなその細いフォルムが、本当にいつも軽口を叩いて笑い合ってきた、後輩女子なのだろうか、本当にはすべて嘘、そう、ドッキリなのではないか、と疑いながら、なおも言葉に迷い続けていた。「そんなこと、言われなくても」
「――え」大崎が、両手を顔から離して亜一郎を見る。
「――」あれ。亜一郎は混乱した。何を言ったんだ俺は?
「――知ってたんですか」大崎はみるみる顔の赤味を増し、その目はみるみる潤んできた。「私が、先輩を好きなこと」
「――え」なぜ? 亜一郎は混乱を強めた。「俺、は、あれだ、君の、あのあれ」
「え……SNS?」
「あ、えと」
「えっ、見つかっちゃいました?」大崎はなかばパニックの様相を示した。「ごめんなさいっ」泣きべそ声で謝りながら頭を下げる。
――一体何を書いていたというんだ?
亜一郎は埴輪のごとく硬直した。
世の中に起きていることを、自分だけが知らないでいる。
「ごめんなさい、先輩のこと勝手に王子様とか書いちゃってっ」
「お」王子様だと? 亜一郎は王冠を頭に戴きマントをひるがえして踊る自分の姿を連想した。何かのアイドルにそういう奴がいたのだったか?
「ごめんなさい、もう、私の独りよがりの妄想です」大崎はまた両手で顔を覆いうつむいた。「先輩のこと、好きすぎて……我慢できなくて……私」
「そ」亜一郎は胸の奥に甘い痛みを覚えた。「そんなに」いじらしい、という想いに、包まれた。
「はい」大崎はこくりと頷いたかと思うと、亜一郎の胸元に飛び込んで来た。
亜一郎は反射的にその細い体を抱き止め、包み込み、髪に触れた。
「先輩」大崎はいまだ小刻みに震えていた。「好きです」
「ありがとう」亜一郎はそう答えた。それは自然に出た言葉だった。
「怒ってますか?」大崎が亜一郎の胸に顔を埋めたまま訊く。
「いや、怒ってないよ。なんで?」亜一郎は訊き返す。
「だって……彼女さんが、いるんでしょ?」大崎が、訊く。
「いないよ」亜一郎は否定する。「彼女は」
嘘では、ない。
いるのは、妻だ。
仮想の。
レンタルの。
金を払って、契約している。
オーダーをすれば、規約に反しない事である限り、応じてくれる。
そう。
こちらから望めば、その時だけ相手をしてくれる、レンタル仮想妻だ。
彼女じゃない。
そして――
天然ホモ・サピエンスでも、ない。
こんな風に、真っ赤になって、何度も自分に向かい「好きです」と告白してくれる相手では、ないのだ。
亜一郎は、大崎の髪を指で梳いた。「おおさ……有奈」苗字で呼びかけて、名前で呼び直す。「ほんとに、俺でいいのか」
「先輩じゃなきゃ、嫌」有奈は首を振る。「好き」
――ごめんな。
亜一郎は、心の中で謝った。
――俺はもう、仮想の世界には、戻れそうにない――お別れだ。
そして亜一郎は、有奈の頬に手を触れ、その唇に触れ、ゆっくりと体に触れた。
――ともりゅん――さよなら。
その後二人はそのまま、大崎の借りている部屋まで同行した。
◇◆◇
付き合い始めてからは、「あれよあれよ」という表現がまさに適切だった。
さすが天然ホモ・サピエンス。
そんな感慨さえ、覚えるほどだ。
社内においてはすぐに二人の関係が知れ渡り、同僚も上司も含め言外に“わかっているよ、そうなんだよね、うん”との態度が示されるのを感じた。
夏の長期休暇には親に交際を報告し、母親はその時点で“孫ちゃん”の顔を拝めることに大いなる期待を抱き、秋の連休には二人連れ立って実家へ行き初顔合わせをした。
大崎の両親にも挨拶に訪れ、亜一郎は営業実施時の数十倍もの緊張を味わいながら、一つ一つのイベントがこなされていった。
年が明けてから正式に結納をし、仮想ではない現実の世界で亜一郎は間もなく妻帯者となる運びとなった。
大崎との関係については、会社においては仕事上で協力し合う点はこれまでと変わりなく続けられていた。
週末にはデートを繰り返し、二人で旅行へも行き、やがて互いの部屋に交互に泊まりに行くようになった。
大崎の手料理もなかなか美味く、しかも食材は合理的な価格で入手しさらに余らせて捨てるようなことも一切しなかった。
それが当然といえばそうなのだろうが、亜一郎にとっては、天然ホモ・サピエンスの智恵の偉大さを目の当りにするかのような感動を与えるものだった。
「料理、うまいねえ」本心から、彼は幾度も恋人を誉めた。
大崎――有奈も、そう言われるとまんざらでもなさそうに微笑み、二人の関係は頗る順調に、良い方向へ構築されてゆきつつあるといえた。
ただ一つ、欲を言うことが許されるならば、有奈は性的な行為に対して至極淡白であった。
彼女曰く「セックスするよりお喋りしてる方が楽しい」と。
確かに彼女の性格を考えればそれは頷けるものだった。
行為の最中でも、彼女は“対話”することを求めてきた。
お喋りしながらの、生殖行為だ。
亜一郎にとっては、若干面倒だった。
――細胞交換よりメッセージ交換がいい、ってか。
それも、天然ホモ・サピエンスならではの要求といえるものかも知れなかった。
端末が赤い光を放っているのを見つけたのは、平日、自宅の風呂から上がって来た時だった。
『亜一郎さん こんにちは 何かお困りの事はございませんか?』
見慣れた、ご用伺いだ――だがその日は続けて、警告めいた文言が現れてきた。
『契約更新日まで あと一週間です 契約終了をご希望の場合は 手続きを御願い致します 手続きされない場合は 契約継続となり 更新手数料引落し手続きが 開始されます』
――そうか。
亜一郎はしばらくそのメッセージ画面を見つめた。
ファイナルパートナーは自動更新、つまり何もせず放ったらかしていたら、継続の意志ありと看做されるのだ。
当然、契約は終了だ。更新は、しない。
もう、必要ないからだ。
「――」亜一郎はゆっくりと、自分の腑に落とすために頷いた。
もう一度。
さらにもう一度。
さらに、もう――
「一回だけ」亜一郎は呟いた。「使って、それから解約するか」
ともりゅん。
彼女の、昂ぶった状態の時の赤らんだ顔が、脳裡に大々的に現れていた。
ともりゅんは――可愛かった。
やはり、なんといっても、ともりゅんの最大の武器は“可愛さ”だった。
その武器の威力は、まさに最強といえるものだった。
無論、彼女が人工ホモ・サピエンスだということを忘れてはいない。
それだからこその、完成された“可愛さ”であったといえるだろう。
そう、途中からは疑問に囚われてあまり直視しようともしてこなかったが、目の保養としてはともりゅんほど良い女はいない。
そう断言できる。
亜一郎は、アプリを起動した――一体何箇月振りだろう。
『亜一郎さん こんばんは 何かご用ですか?』
「エッチしたいから来て」亜一郎は低く短く告げ、それから思いついて「あ、来るとき合鍵忘れずに持って来て――返して欲しいんで」と付け足した。
『エッチしたい 合鍵 持って 返して はい ただいま』ファイナルパートナーは短縮形で復唱記述した後文句の一言もなくすんなり承諾した。
――やっぱこれ、ちょっと馬鹿だよな。
亜一郎はそんな不遜なことを思うのだった。
かちゃかちゃ
やがて鍵を開ける音が聞こえた。
玄関ドアが開く。
ともりゅんは、最後に見た時と同じく――最初に見た時と同じく――長い黒髪で、色白な卵形の顔にピンク系のメイクを施し、コートに身を包んで寒そうに立っていた。
その細い指に、亜一郎が渡した合鍵を持っている。
「ただいまぁ」ともりゅんの、鈴の音のような声だ。「忘れないうちに、渡しとくね」鍵を差し出す。
「うん」亜一郎は頷いて受け取った。
「亜一郎くん」ともりゅんが、体ごと斜めに傾けながら小首を傾げて訊く。「今日で、お別れ?」
その顔はいつものように微笑んでいる、だがその瞳には、今にもこぼれ出しそうなほどいっぱいに、涙が湛えられていた。
「――」亜一郎の喉に、熱い塊が現れて呼吸を塞いだ。
さよなら。
言葉としてはその一言だけを、今日は言うつもりだった。
行為は別として、必要な言葉はそれだけだ。
そう決めていた。
なのにこの塊が、それを阻んでいる。
決してそれを言わせないように、目論んでいる。
ともりゅん。
亜一郎は今、熱くなっているのが喉元だけではないことを感知した。
心と――全身もだ。
「おいで」両腕を差し伸べる。
ともりゅんは、こくりと小さく頷くと、そのまま何も言わず亜一郎の胸の中に飛び込んできた。
亜一郎も何も言わず、強く抱き締めた。
「――ごめんね」ともりゅんが、消えてしまいそうなほど小さな声で言う。「いっぱい迷惑かけたね――あたし何も知らなくて、わからなくて――ごめんね――ごめんね」ともりゅんは、何度も謝った。
「そんなこと、ないよ」亜一郎も何度も首を振った。「ともりゅんは、何も悪くない。謝ることなんて、なんにもないよ」
「亜一郎くんが喜ぶことがしたかった」ともりゅんは言った。「亜一郎くんが、笑ってくれるのが、すごく嬉しかったの」
「うん、うん」亜一郎は何度も頷いた。「俺もだよ。俺も、ともりゅんがいつも笑ってくれるのがすごく嬉しかった――その笑顔を見るのが、好きだった」
「亜一郎くん」ともりゅんはそう呼んだかと思うと、いきなり自分の方からキスをした。
亜一郎は一瞬度肝を抜かれたが、すぐに応じて甘露なるからみつきの時が長く続いた。
「もう、がまんできない」ともりゅんが上ずった声で求める。「ここでして」
「うん」亜一郎に断る理由も術もなかった。
二人は玄関先で、お互いの着衣をはぎとるようにして、結びつき合った。
玄関先という、余りにも無防備な場所で交ぐわることは、二人をより昂ぶらせた。
ともりゅんも、今までになく大きな声を挙げ、亜一郎も、限界を知らぬかのように攻め続けていった。
がちゃり
ドアは、そんな最中に突然開いた。
「――ひっ」息を呑む音。
静止画のように、動かぬ二つの裸体。
隠しようもない、結び付いたままのからだ。
剥き出しさらけ出された、野生の形。
亜一郎は、ともりゅんに被さったまま、そっと肩越しに振り向いた。
予想通り、そこには目を血走らせて硬直する有奈の姿があった。
そしてその手に握られた端末が、冷静に現場を押さえる音が鳴り響いた。
◇◆◇
翌日から有奈は会社に姿を見せなくなった。
「あれ、彼女さん風邪ですか?」
同僚たちは亜一郎にそんなことを訊いてきた。
「ああ、いや、大したことはないんだけどね」その度亜一郎はやんわりと当たり障りなく返答し、相手が
「お大事にって伝えといて下さい」
と笑う度に、ほっと胸を撫で下ろしていた。
――まだ、ばれてはいない……
まさに、犯罪者の心理とはこれのことをいうのか、と思わせる状態だった。
すべてが不安で、不安定だった。
有奈とは、一切連絡が取れなかった。
「どういうことなの?」と泣き喚かれた方がまだ、亜一郎としては対応が容易だったかも知れない。
いつ警察が令状を持って玄関先にあるいは会社にやって来るのか、ガサ入れかはたまた直接逮捕されるのかなど、TVで観たことのある場面ばかりが脳裡をよぎる。
昨日までの“普通に幸せな日々”から一転、地獄の底へ叩き落されたようであった。
とはいえ、自業自得だ。
それも充分、解っている。
自分は大人しく、相手の出方を待つしかないのだ。
――あの時、ちゃんと鍵をかけておけばな……
何回、何十回、何百回後悔すれば、“あの時”に戻れるのだろうか。
そう思う度亜一郎の瞼の裏には「わしゃ知らん」とそっぽを向く髭面の神様の姿が映った。
――まさか、来るとは思わないよな……せめて連絡でもしてくれてたらなあ……
不法侵入、という武器で抵抗できるのだろうか、とも思う。
だが抗力――攻撃力――は低いものであるように思えた。
赤の他人ではなく、婚約し結婚までカウントダウンが始まっていた相手、婚約者であるからだ。
そう、無論有奈にも合鍵を渡していた。
自由に訪れてもらって構いません、と許容した相手だ。
ともりゅんも合鍵を持ってはいるが彼女が自発的にそれを使って家に入って来ることは絶対にないのだから、亜一郎は何の問題もないと思っていたのだ。
その結果が、このざまだ。
罰が当たったのだ。
先に、返してもらっておかないから。
有奈と付き合いはじめた時点で――
しかしそれは、仮想嫁だ。
人間、つまり天然ホモ・サピエンスではない。
ゲームと一緒、つまり趣味の世界だ。
いくら婚約者とはいえ、趣味で仮想嫁とあんなことをしたからといって、罪に問われる筋合いはないのではないか。
そう思い至った時亜一郎は、少しだけ闇に光が差した気がした。
◇◆◇
罪に、問われるのだ。
それがわかったのは自宅に、裁判所から出頭命令の通知が届けられた時だった。
二週間後、家庭裁判所にて調停を行うと書かれてある。
婚約破棄と慰謝料請求、この二点の内容になるようだった。
亜一郎の中では寧ろ、その二点さえ了承すれば、ひとまず法的には赦されるのだ、という“安心感”をもたらす書面ではあった。
金銭的なことについて何ひとつ文句を述べ立てる気はなかった。
それで気が済むのなら、好きなだけ耳を揃えて差し出そうという心づもりだった。
――俺、冷めちゃってるのかな。
そう思った後、前にも同じようなことを自分に対して思ったような気がした。
――俺はもしかして、恋愛とか結婚とかに対する意識が人より薄いという、何か病気のようなものに罹っているのかも知れない。
さらにそう思う。そしてさらに、
――ウイルス?
と。
だがそれはすぐに否定した。
――まさか。
ウイルスにそんな力があるわけない。
けれど――
致命的な影響をもたらすコドンを取り除いた、とかつて聞いた。
それならばその一方で“そんな力”を及ぼすコドンを植えつけることも、可能なのではないか?
或いは意図的にでなくとも、最初の設定、ユーザー好みのタイプの女に育つようDNAを操作する際、副次的な効果で“そんな力”が備わってしまった、とは考えられないか?
だが確認する気にはならなかった。
そんな気力もない。
唯々諾々と、流れに任せて時が経つのを待つだけだ。
ただ、親にだけは報告しておかなければならない。
亜一郎は、深くため息をついた。
母親の反応を予測するだけで、圧し出されるようにため息が出るのだった。
◇◆◇
調停は、たった一日で終了した。
亜一郎が、有奈側の要求をすべて飲むことを二つ返事で約束したからだ。
裁判所の調停委員も、最初こそびっくりしていたが、その後は実に嬉しそうに満面の笑顔で手早く――亜一郎の気が変わらない内に――締め括ってくれた。
こんなに聞き分けのいい客はいないとでも言いそうな雰囲気だ。
相手方、つまり有奈と顔を合わせることは一切なかった。
亜一郎としても、その方が有難かった。
次は、もっと誠実で裏切らない、まともな相手を見つけてくれよ――無責任かも知れないが、ただそう祈るだけだった。
それが気に食わないのかどうかわからないが、相手方はそれだけで済ませるつもりではないようだった。
具体的には、大崎有奈はファイナルパートナーという企業を相手取り提訴したらしかった。
それを知ったのは、ファイナルパートナーからある日書状が届いたからだった。
『契約解除予告通知』
ものものしく、そのようなタイトルを付された書状だった。
内容をかいつまむと、“貴殿”すなわち亜一郎が“弊社”つまりファイパーに対して経済的および風聞的被害を及ぼしたので、規約第何条かに則り何月何日午前零時をもって現契約を解除します以上、というものだった。
「経済的および風聞的被害」とは要するに、大崎有奈がファイパーに牙を剥き「お宅が作ってばらまいた妙な商品のせいで婚約破棄という甚大な被害をこうむった、謝罪ならびに精神的慰謝料を請求する」との意志を公にした事だ。
ファイナルパートナーは争わず示談に持ち込んだようだった。
慰謝料については、亜一郎が有奈に支払う予定の額よりも少ないようだった。
それよりも企業にとって痛いのは、そういう訴えを起こされたことが世間に知れ渡ることだったのだ。
確かに、これまでうなぎのぼりだったファイパー株価は頭打ちになったかと思うとたちまちのうちに坂道を転がるがごとく下落していった。
ファイパーとしては、亜一郎に対して訴えを起こしたいところだろう。
というよりも「手前何してくれてんだ」と亜一郎をぶん殴りたいところだろう。
まあその拳がつまり今回の『契約解除予告通知』の名を冠して振りかざされたわけだ。
――そうか、まだ解約してなかったんだな。
妙なことに、亜一郎が最初に思ったのはそれだった。
そう。
有奈に現場を押さえられたあの日、あの行為が終った後で、契約更新ストップの手続きをするはずだったのだ。
だがあんなことになり、物理的にも精神的にもバタバタしていたため、その手続きは完全に失念され、結果トモリュン=ダの契約はそのまま自動更新されていたというわけだ。
それが今度は強制解除されるのだ。
かっこ悪いが、仕方がない。
粛々と、その日を待つだけだ。
刑の、執行される日を。
◇◆◇
社内での亜一郎に対する扱いに、特に変更はなかった。
亜一郎はその点で、大崎有奈という女性を凄いと思い、また強いとも思い、そして恐い、とも思った。
彼女は元同僚たちに対し「価値観の相違の為婚約は破棄した」とだけ、伝えていたのだ。
具体的な経緯については何ひとつ触れず。
もしかしたら、口にするのもおぞましいという思いのためかも知れないが、それはわからなかった。
だがそのおかげで亜一郎は今までと基本的に何ら変らず、仕事に打ち込むことができ、非常にありがたいことだった。
同僚たちの態度も、最初こそやはりどこか慎重に様子見をしている空気が感じられはしたが、業務に追われる中それも泡のごとく解消していき、すぐに以前と同様打ち解けて話ができるようになった。
ただそこには、世話好きで毒舌で活発で雄弁な女性社員、大崎有奈の姿がないというだけだった。
◇◆◇
明日で、契約解除になるという夜。
――ともりゅんを呼ぼう。
そう思いついたことに、亜一郎自信が驚愕した。
――なに、何でそんなことを思うんだ俺?
自分で自分に訊き返す。
――だって最後じゃないか。
――そうだけど、だからって。いくらなんでも。
疑問の言葉が限りなく胸中に表れてくる中、亜一郎の手はすでに端末を取り上げアプリを立ち上げていたのだ。
『亜一郎さん こんばんは 何かご用ですか?』
――どうして……
胸中にその言葉が浮かび上がる。
「ともりゅん」亜一郎は、言葉を口にした。
その名を呼んだ途端、心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。
――何だ、これ?
問いかけるが答えは思い浮かばない。
「君を、もう一度だけ抱きたい」
『トモリュン 君を もう一度 抱きたい はい 少しお待ち下さい』
アプリは、何の惑いもなく、何の抵抗も拒絶もなく、すんなり要求を受け入れた。
――どうして――
亜一郎は、足下の床がすうっと消えてしまうような感覚に捕われた。
何もない、虚無の空間に、ただ一人立ちすくんでいる、感覚――
そして、やっとわかった。
――どうして、“これ”はそうなんだ。
という想いと、
――どうして、人はこうではないんだ。
という想いの、交錯。
それが「どうして」の正体なのだ。
そして心臓が締め付けられる、感覚。
それは俗に言う“郷愁”あるいは“旅愁”なのだと、悟った。
別に故郷を思い出すわけでも、旅に出ているわけでもない。
否。
亜一郎は、納得していた。
今、ともりゅんを思い出している。
自分はずっと、ともりゅんではない所を旅して来た。
そして今、ともりゅんに帰ろう、帰りたいと、願っている。
これは郷愁であり、旅愁だ。
間違いはない。
すべて正しい。
ピンポーン
ドアホンの音。
立ち上がり、玄関に向かう。
――まさか、ここで有奈が来てる、なんていうオチは、ないよな……
口の端を引き歪めるような笑いを浮かべ、ドアノブを回す。
「ただーいまぁ」
そこに立っていたのは、少し恥らうような微笑みを浮かべた、ともりゅんその人だった。
ドアを閉めるなり、強く抱き締める。
「あいちろくん」ともりゅんの声が右の鎖骨の辺りで甘えた風に呼ぶ。
返事代わりに長いキスをする。
ともりゅんの内部の熱が高まってくるのを感じる。
唇を離すと、潤んだ眸で亜一郎を見つめた後ともりゅんは不意にくすっと笑い、亜一郎のうなじに両腕を回したまま足下をもぞもぞと動かして、あっという間に靴を脱いだ。手を使わずとも脱ぎやすいフラットシューズを履いてきていたのだろう。
亜一郎も少し頬を緩めた。「久しぶりだな」
「うん」ともりゅんは目を細め、自分の方からキスをしてきた。
そのまま廊下に抱え上げ、交尾中の甲虫を縦にしたような形態で寝室へ転がり込む。
後はもう何も考えることなどできなかった。体が動きたいと欲するそのままに動くだけだ。
尽き果てた後、亜一郎はベッドの上で天井を見上げながらしんみりと
「ともりゅん、本当今までありがとうな」
と心から礼を言った。
「あたしこそ、ありがとう」ともりゅんは隣で亜一郎の方を見て答えた。
サイドテーブルから腕時計を取り上げて見ると、午後十一時五十分だった。
あと、十分。
ふう、と長い息を吐く。
「もう、逢えないのかな」言っても仕方のないことを、つい口にしてしまう。
――天然ホモ・サピエンスの方も、充分馬鹿なんだよな……
「わかんないよ」ともりゅんが答える。
「え?」亜一郎は思わず横を向く。「だって俺もう、ともりゅんとの契約解除になっちゃうんだろ?」
「また契約しなおせばいいよ」ともりゅんはそう言って、にこっと笑う。
「――」亜一郎は脳をリセットし、ともりゅんの言っていることを時系列に沿って整理した。
「えーとね」ともりゅんは寝転んだまま唇に人さし指を当て視線を頭上に向けた。「いったん契約解除した後、三箇月経ったら、また契約できるようになるはずだよ」
「――ブラックリストに、載ったりしないの」
「ないない」ともりゅんは手を振った。「大丈夫」
「それ、誰が言ったの? 誰に聞いた情報?」亜一郎はにわかに信じ難かった。
「ん、と」ともりゅんは少し言い淀んだ。「なんだろ……指令元?」
「なにそれ」軍事用語のような単語に、亜一郎は少しばかり戦慄を覚えた。「会社の上の人?」
「っていうか」ともりゅんは困ったように笑う。「あたしを、作ってるもの。あっそうそう、ウイルスだ」
「――」亜一郎は今こそ、絶句するしかなかった。
チロチロリン チロチロリン
全力で飛びつくように、端末を取り上げる。
『契約終了五分前となりました ご利用戴きまことにありがとうございました 次回のお申込は 七月一日午前零時より受付可能となります またのご利用を心からお待ちしております』
「また、君で申し込めるの?」亜一郎は茫然と、着替え始めたともりゅんに訊いた。
「はっきり約束はできないんだけど、もしかしたら、ね」ともりゅんはコートに腕を通しながら説明した。「またあたしになるかも」
「え、君はこの契約が終った後、別の人のところへ行ったりするの?」亜一郎は質問した。
「ううん」ともりゅんはそれについては否定した。「あたしは、また元の、基盤状態に戻るの」
「基盤、状態って」
「ウイルスだよ」にっこりと笑う。
「――」亜一郎はコメントできずにいた。
「だからまた、前あたしを頼んでくれた時とまったくおんなじように設定してくれたら、もしかしたらまたあたしになって、ここに来るかも、ってこと」説明しながら玄関に向かう。
慌ててベッドから降り、スウェットを履きつつ後を追う。
「で、でも、おんなじ設定っていっても俺、君のときどんな設定にしたかよく覚えてないんだけど」必死で訴える。「その場合は、なんだ、発注履歴とか参照したりできるのかな」
「うーん」ともりゅんは靴を履きながら考え、くるりと振り向いて「多分無理」と明るく答えた。
「えっ、じゃあ、まったく同じ設定って、難しいよ、てか無理だよ」亜一郎はいよいよ必死にとりすがった。「なんとかならないの」
「そこはね」ともりゅんは人さし指を立ててウインクした。「チャレンジ!」
「――」亜一郎は返事ができなかった。
「じゃあ」ともりゅんはにこっと笑う。「行ってきます」
「待って」亜一郎は叫んだ。
追加オーダーだ。
何でもいい、追加しよう。
そうしたら――
「夜食、作ってよ」両手を組み合わせて祈るように伝える。
「ごめんね」ともりゅんは申し訳なさそうに小首を傾げた。「もう、時間過ぎたから受け付けられないの」
「あ――」きょろきょろと辺りを見回すが、腕時計も端末も寝室に置いたままで時刻が読めなかった。
「亜一郎くん」ともりゅんはドアを開けて外に出た。「バイバイ」夜中なのでごく小さく、囁く。
「ともりゅん」亜一郎は名を呼ぶしかできなかった。
最後に手を振って、ともりゅんはドアを閉めた。
「ともりゅん」亜一郎は堪らず、追ってドアを開けた。
どこにも、ともりゅんの姿はなかった。
世界のどこにも。
◇◆◇
蒸し暑い日だ。
シャワーで汗を流し、エアコンの効いたリビングでビールの缶を開け、まずは思うさまぐびぐびと喉を鳴らす。
最高だ。
至福の時。
はあ、と大きく息をつき、亜一郎はビール片手にテーブルの上を見下ろした。
端末上で、緑色のライトがゆっくり点滅している。
取り上げる。
『お待たせしました ファイナルパートナー サービスを開始致します 何かご用はおありですか?』
「ビールのつまみを作って」
亜一郎はオーダーした。
『ビールのつまみ はい かしこまりました』
初稼働だ。
ともりの。
そう、今回は名前を『ともり』で設定することに成功した。
というか、最初の申込時点でそう入力しておけばよかったのだ。
何もサービス開始後に口頭で申し送りする必要はなかった。
ピンポーン
今度の“嫁”にも、合鍵を作って渡すかどうか、亜一郎は考えながら玄関に向かった。
――まあ、様子見てから決めよう……それよりも。
心臓が最高潮に高鳴る。
思い出せる限り、前と同じように設定した。
そのはずだ。
果たして、ともりゅんと同じに――ともりゅんに、ウイルスは育ってくれただろうか?
無論まったく同一ということはあり得ないのだろう、だけれど、ほんの少しの違いなら、自分はいくらでも受け入れ可能だ。
ともりゅんに――
また会えるのか――
ともりゅんに――
そして亜一郎は、ドアを開けた。