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第2話

 スマートフォンが鳴ったのは、午後十時二十分頃のことであった。画面をタップしてからスマートフォンを右耳に近づけたのは、冷徹な都筑彰男(つづきあきお)である。彰男は無言で相手の言葉を待った。
「目的は達せられました。ですが、予想外のことがございました」
 彰男の秀麗な眉が、明らかに不愉快なかたちにゆっくりと寄った。
「わたくしは申しつけたはずです。手綱をしっかりと握っているように、と。忘れたのでしょうか?」
「承知しています。そのことではございません。『千歳』に関することです」
 しばらく彰男は、無言でいた。
「わかりました。こちらで対処します。それと、これ以降はもう手出しをしてはなりません」
 彰男は一方的に通話を終えた。能面のような表情で、彰男はスマートフォンをしまった。それを、主である風間慶一(かざまけいいち)が見逃さなかった。
「どうかしたのか?」
「申し訳ございません。所用ができました」
 慶一に常に従っている彰男が用事があるというのは珍しいことであった。慶一は敏い。すぐにその理由がわかった。
「例の件か?」
「はい」
「わかった。今日はもういい。おれもすぐに邸へ帰る」
「わかりました。ですが――」
 慶一は、彰男に手のひらを見せて言葉を制した。
「邸までは供をする、というのだろう?」
「はい」
「お前もかたい男だな」
「そうするのが、わたくしの役目でもあります。窮屈かもしれませんが、どうか、お察しください」
「わかっている」
 対面にいる女性たちには一切目をくれずに、慶一は席を立った。そして、なにもいわずにその場を後にした。残されたかたちとなった女性たちが不平不満の体で文句をいっていたが、慶一は一度も振り返ろうとしなかった。惜しいとは、少しも思わなかった。
 高級レストランを後にした慶一と彰男は、タクシーを呼ぶと邸へ向かった。そして、慶一が暗く乾いた部屋に入るのを見届けると、彰男は自室へ向かった。
 彰男の部屋は慶一の部屋の隣りにある。慶一の呼び出しがあっても、すぐに駆けつけられるように、が理由であるとされている。部屋に入った彰男はドアのすぐ近くにあるスイッチを押した。暖色系の照明が灯った。部屋の真ん中にはテーブルとソファー、右の壁際には書棚、左側にはベッドが置かれている。奥の窓際には机と椅子がある。
 彰男は椅子に腰掛けると、スマートフォンを手にした。呼び出し音は短く、すぐにつながった。
「もしもし、こちらは喫茶店『四季』ですが」
 店主のゲンイチロウの声を彰男は聞いたことがなかったが、その常識的な営業的対応と声音、入手している情報から、声の主が誰かは理解した。
「四季ゲンイチロウさんですね。わたくしは都筑彰男と申します。店内にいる人たちに、わたくしの声が聞こえるようにしていただけますか」
 ゲンイチロウは驚愕を絵に描いたような表情で、電話のハンズフリー・ボタンを押した。
「初めまして、『四季』のみなさん。いえ、これは正しくないですね。夏目ナオトさんは、確か何度かお見かけしたことがありましたね」
 非常に落ち着いた彰男の声である。ナオトの表情が険しさを増した。
「都筑彰男だな」
「ええ、そのとおりです。しかし、あなたと言葉をかわした覚えはないのですが、よくわかりましたね」
「話したことはないが、聞いたことはある」
「なるほど。何故か最近、あなたがわたくしたちの近くにいるのは、そういうことでしたか。探偵を標榜するだけのことはありますね」
「おれの名前を知っている、ということは、仲間に関しても知っているということだな」
 まず、ナオトが大前提を確認した。
「仰る通りです。察しのいい方は嫌いではありません。話が早いですからね」
 彰男の余裕のある声を聞きながら、キョウジは自分とナオトを指差した後、人差指と中指を立てて、残りの三人に向けた。ふたりで話す、という意味であった。
「ちょっといいかい。お前は常識という言葉を知らないようだな。こんな時間に電話をかけてきていいのは、パートナーか関係者の訃報があったときだけだ、そう思わないかね」
 早速キョウジが挑発した。怒らせて、頭に血を上らせようと考えていたのだが、彰男は誘いにはのってこなかった。
「あなたは、春海キョウジさんですね」
 彰男は問うたのではない。確認したのである。
「ほう、お前さんも察しがいいな」
「簡単な推察ですよ。探偵事務所『四季』のメンバーで男性は四人です。秋津カナタさんは、話に割りこむような無粋な真似はいたしません。四季ゲンイチロウさんの声は先ほど聞きました。あなたの声は、まだ若いが洗練されている。そして、常に飄々としています。ですが、それだけが、あなたの本質とは思えません。作りモノ、借りモノのように思えます。見せかけている、とでも申しましょうか」
「おれの本質を勝手に決めつけるのは自由だが、見誤る、という言葉を頭の片すみに置いておくべきだと思うがね。頭のいいお前さんなら、わきまえていると思うが、一応、年長者から助言しておこうか」
 キョウジの口調は、相変わらず挑発するような響きがあった。こういう場合、主導権を握るのが重要であったが、彰男の返答は糠に釘の典型的なものであった。
「そうですね。では、そうしておきましょう」
「用件はなんだ?」
 ナオトが尋ねた。
「なんの用だと思います?」
「わからないから訊いている」
「頭は飾り物ではありません。少しは働かせることをお勧めいたします。でないと、カビが生えてしまいます」
 どうやら彰男も、本質は好戦的なようだ。あるいはキョウジと同様、そう見せかけているのかもしれない。ナオトは話題を転じることにした。
「ガラの悪い連中に襲われた。おれやキョウジはいい。だが、高校生のカナタとシオリを襲ったことは、やりすぎだ」
「理由はあります」
 ナオトは黙したまま返事をしなかった。
「わかりませんか?」
「カナタとシオリを襲ったのは高校生だ。高校生の痴話喧嘩ですませられる。おれは、目障りなんだろう。だが、キョウジはなぜだ?」
「なぜだと思います?」
「『千歳』か?」
「違います。それは考えすぎでしょう」
「ならなぜだ」
「単純な理由です。あなたの朋輩だからです」
 ナオトは口をつぐんだ。つまり、ナオトが慶一のことを探っていることに気づいて、目障りだった。それで、仲間だから襲撃した、と彰男は認めたからである。先刻推測した通りであった。
「警告か?」
「第一義的には、仰る通りです」
 彰男の思わせぶりな返答に対して効果的な言葉を探していると、そんなナオトの目の前にキョウジが手のひらを見せて制止した。
「警告といったが、女を人質に取るのは下衆のやることだとおれは思うんだがな。おかげでカナタは色男になってしまった、どう落とし前をつける?」
「色男になったのであれば、逆に感謝していただきたいですね」
 キョウジの皮肉に対して、彰男も皮肉を返してきた。頭の回転は速いようだ。キョウジは不満げに舌打ちした。
「前置きはもう充分だろう。さっさと用件を話したらどうだ? これ以上貴重な時間を無駄にしたくはないんでね」
「同感ですね。あなたとは特に気が合いそうです、春海キョウジさん」
 これまでの彰男の声音には、まったくといっていいほどに変化がなかった。非常に落ち着いており、尊大さも横柄さもない。激することもない。キョウジは、憮然たる面持ちで髪をかきあげた。主導権は、今のところ彰男のほうにあった。それが苦々しかったのである。
「では、第二義的な問題について申し上げます。わたくしの関心はひとつです。依頼者の名前を教えていただけませんか?」
「そいつは口外できないことになっているんでね。教えられないね」
「もっと酷いことになる、とは考えないのでしょうか」
「脅迫かい?」
「事実をいったまでです」
 電話越しなので、相手の表情や仕草がわからないことで、やりにくいと感じていたキョウジは、一瞬、苦虫を噛み潰したように眉をひそませた。
「犯罪者の烙印を押されるのは本意ではないだろう」
「それはそうです。ですが、いざとなれば、わたくしは、自らの手を汚すことをいとったりはいたしません」
「怒らせるとなにをしでかすかわからない。慶一さまのためには、か? はっ、くだらんね。そうまでして他人に奉仕する気分は、おれにはよくわからんね」
「価値観の相違ですよ」
 キョウジは、彰男が逆上するような相手ではないことを認めざるを得なかった。軽く頭を振って、ナオトに向かって肩をすぼめてみせた。挑発することを諦めたのであろう。ナオトはキョウジに向かってうなずくと、先程から気になっていることを問いただした。
「もっと酷いことになる、といっていたな。本気でやるつもりか?」
「安心してください。今はまだ、その時ではありません。あなた方を海に沈めるにしても、まとめてやったほうが効率的ですからね」
「海に沈めるだと? 正気とは思えないし、本気でいっているとは思えない」
「どう取るかは、あなたの自由です。しかし、わたくしは、できもしないことを公言したりはいたしません。夏目ナオトさん」
「この際だ、おれもいっておくが、できもしないことをいうつもりはない。もし仲間になにかあれば、おれは、お前を、決して許しはしない」
 ナオトがめずらしく語気を強めると、彰男は返答する前に少し間を空けた。
「先刻も申し上げましたが、あなた方は仮にも探偵ですよね。探偵である以上は依頼人がいるはずです。誰か、教えていただけないでしょうか? それで手打ちにしてもかまわないのですが」
「キョウジがいっただろう、依頼人のことは話せない」
「強情な」
「お前も少しは自分の頭を働かせてみたらどうだ。風間慶一を恨んだり憎んだりしている人は一ダースぐらい、すぐに思い浮かぶんじゃないか」
「そういった人たちはひとりとしていません。例外者は例外なく、慶一さまを畏れておいでですから」
「ふっ」
 ナオトは鼻先で笑った。
「風間慶一が罪深い男だってのは、おまえだって知っているはずだ? いつもそばにいるならわかるはずだ」
「ええ、確かに、いつもおそばにいますよ。それがどういうことかはわかりますよね?」
「?」
 ナオトは、彰男がなにをいいたいのかさっぱりわからなかった。
「わかりませんか? わたくしは常に慶一さまのおそばにいます。だからよく知っているのです。慶一さまは、罪を犯したことは、一度たりともありません」
「婚約者がいる男が女の子を取っ替え引っ替えしているのは、明らかに道義に反していると思うが?」
「まだ正式に婚姻しているわけではありません、それでも、恋愛は罪だとおっしゃられるのでしょうか?」
「恋愛? 適当に遊んでいる相手と恋愛だというのか? それはさすがに無理があるだろう」
「慶一さまは一途ですよ。その時は、その女性にね」
「ただ、欲求のはけ口にしているだけじゃあないのか」
「違いますよ。本気で、愛しておられるのです。その時は、その女性をね」
 ナオトはかすかに息を吐き出した。少々疲れてしまった。彰男は冷静沈着で掴みどころがない。このような手合は、ボロを出すこともなさそうである。
「お前と愛について語る口は持ち合わせていない」
「それは残念です」
 含み笑いを浮かべている彰男の表情が、ナオトの脳裏に浮かんだ。それを振り払うように首を振った。
「話を戻す。先刻おれがいった言葉、ガラの悪い連中と高校生におれたちを襲わせたことは、お前は否定していない。それに、警告であることも第一義的にと認めている。第二義の問題は、依頼人の開示だが、それはできない。信用問題に係わるからだ」
 彰男の秀麗な眉がはね上がった。
「ほう。よく聴いていらっしゃる。では、わたくしのもっとも重要な要求を申し上げます。慶一さまの身辺を嗅ぎまわることをやめていただきたいのですが、それでは、探偵としてのあなたの立場が立たないですね」
「そうだな。これも仕事なんでね。そういうわけにはいかない」
「本当に海に沈められるかもしれない、そうは考えないのでしょうか?」
「やはり脅迫か?」
「違いますよ。提案しているのです」
 ナオトはしばらく考え込んだ。一連の襲撃騒ぎは、やはり彰男の警告であった。とすると、彰男の提案を飲まなければ、この先もなにが起こるかわからない状況に追いつめられたことになる。海に沈められるかはわからない。しかし、わからないからこそ危険であるともいえる。ならば、ナオトにできることはひとつしかない。
 ナオトはキョウジとは違う。格闘技に精通しているわけではなかった。それでも、シオリだけは絶対に守りたいと思う。それだけは、あってはならなかった。
「わかった、前言は撤回する。仲間に危害が及ぶのは本意ではないからだ。いいだろう。今後一切、慶一の身辺調査はやめてやる。それでいいんだな?」
「いいでしょう。あなたは約束を守る為人です。その言葉で充分ですよ」
「なら話は終わりだ」
「いえ、待っていただけますか。まだ、お話というか、確認しておきたいことがあります」
「なんだ」
「先刻あなたがいいましたが、あなた方の調べはついています。春海キョウジさんが間仲有佳里(まなかあかり)さまに接触したことも、報告を受けています」
「で?」
「依頼人は、有佳里さまではないのですか?」
 さすがは風間グループの探偵である。ナオトは、内心の動揺を隠すためもあって、声のトーンを落とした。
「依頼人のことは話せないと何度も拒否している」
「そう、おっしゃると思っていましたよ、夏目ナオトさん。しかし、あなたは本当に強情ですね」
「話は終わりか?」
「そう尋ねられては期待に応えなければなりませんね。では、もうひとこと申し上げましょう。その気になれば、わたくしはなんでもいたします。それこそ、一生を棒に振るようなことも厭いません。それに、いつでもこの生命(いのち)さえ捨てる覚悟があります」
「慶一のためにか? そこまでおまえにいわせるのは何故だ。あんな男のために生命をかける価値があるとは思えない」
「価値観の相違だと、先刻も申し上げました。しかし、忘れないでください、あなた方の未来は、まだ、わたくしの掌中にあるということを」
「……ああ、覚えておこう」
 実の無い話し合いは終了した。そう思っていた刹那、彰男は最後に爆弾を投擲してきた。
「それともうひとつ、『千歳』に関してですが、あなた方がこの件に関与するのは辞めたほうが良いでしょう。叩いても、なんら得るものはないですからね」
「……わかった、覚えておく」
 通話は終了した。
 疲労で頭が熱をおびているように感じた。ナオトはゲンイチロウにお冷を頼んだ。それを一息に胃に流し込んだ。
「しかし、これで危険がなくなったというわけではないだろうな」
 ゲンイチロウが短くうなった。
「まあ、そうだろうね」
 他人事のようにつぶやいたキョウジは、心なしどころか、心の底から楽しんでいるように見えた。眉間に人差し指を当てて、ナオトは首を横に何度も振った。
「彰男は、これは警告だといっていたな。これ以上、風間慶一のことを嗅ぎ回れば、本当に海に沈められかねない」
「海で泳ぐには、もってこいの暑さだがね」
「茶化すなよ」
 ナオトが本気で怒ってみせると、キョウジは肩をすくませてから、疑問を口にした。
「しばらくは身辺に気をつけなければならんか。しかし、本当にそこまでやるかね」
「慶一はしないだろう。だが、彰男ならやりかねない。なんというか、底の知れない奴というか、執念深く感じた」
 キョウジが深く息を吐き出し、参ったように顔を振ると、カナタは真剣な表情で提案した。
「ひとつ、保険をかけておくべきだと思います」
「ああ、おれも、それを考えていた」
 ナオトが応じると、ゲンイチロウが太い眉根を寄せて尋ねた。
「保険だと? なにをするつもりだ?」
「わかりませんか、ボス? 風間源蔵ですよ」
 落雷に似た衝撃が、ゲンイチロウの頭を叩いた。
「本気か? そいつは、あまりにもリスクが高すぎやしないか?」
「古来より、死中に活を求めるには、本陣への奇襲しかないでしょう」
「そうだな」と、ナオトは考え込んだ。風間源蔵を動かすにはどうすればいいか、と。
「ほう」と、キョウジが興味を示した。今までにないスリリングな展開を期待して。
「へー」と、シオリが感心していた。カナタは案外好戦的なのかもしれない、と
 ゲンイチロウは黙ったまま四人を見回した。誰も反対はしなかった。
「反対する者は、いないようだな。どいつもこいつも肝が座っている」
「そういう連中を集めたのは、おっさんだろう」
 キョウジがいった言葉に、ゲンイチロウは、にたりと笑うと、深くうなずいた。
「ナオト、キョウジ、お前たちに任せる。風間源蔵を落としてこい」
 ゲンイチロウの言葉を受けて、キョウジが勢いをつけて立ち上がった。
「任されました」
 キョウジは、うやうやしく会釈すると、軽く請け負った。ナオトはゲンイチロウを見つめて、重々しくうなずいた。
「わかった、なんとかしてみよう」

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