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第1話

 冬木(ふゆき)シオリは朝から機嫌が悪かった。苛々していた。不愉快そうであった。原因は、夏目(なつめ)ナオトであろうというのが四季(よつき)ゲンイチロウの見立てであったが、これは、ホームズやポワロ並の卓越した推理力がなくても、単純な想像でたどり着くことができた。
 昨夕、ナオトのヘルプに出て行って、一時間ほどでシオリはひとりで帰ってきた。その時から、今のような不機嫌な表情や仕草をしていたのである。ナオトとの間でなにか意見の相違でもあったのであろう。そう考えたゲンイチロウは、できるだけ自然体でいようと心がけていた。「触らぬ神に祟りなし」であるからである。
 しかし、神のほうが暴発した。
「ああっ! もうっ!」
 汚れてもいないカクテル・グラスを磨いていたシオリが、我慢ができずに声を荒らげた。自家製のカクテルをシオリが飲めば、別の意味で少しは落ち着くであろうにと、できもしない不謹慎な想像を脳裏にめぐらせたゲンイチロウは、悚然として沈黙したまま、非常に緩慢な動作でシオリの側から離れていこうとした。それを、シオリが見咎めた。
「店長、どこ行くの?」
 恐ろしく感情を押し殺したシオリの声音に、ゲンイチロウは戦慄を覚えた。その瞳の冷やかさに、ゲンイチロウは鼻白んだ。血色の良い健康的な(おもて)から血の気が引いていくのを感じながら、ゲンイチロウは慌てて取り繕った。
「トイレだ、トイレ」
「そう、なら、早く行ってらっしゃい!」
「はい」
 シオリの剣幕に怖気を感じたゲンイチロウは、反射的に素直に返事をすると、用事もないトイレに一時的に避難することにした。情けない、が、致し方ない。かがんで便座カバーを上げると、ゲンイチロウは、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「これではまるで、高校生じゃないか」
 誤解されそうな文句をつぶやきながら、ゲンイチロウは顎をさすって考え込んだ。この状態が長く続くのは当人だけではなく、関係各位にとっても良くはない。仲間同士で信頼を失うのは、仕事に支障をきたしかねない。家長のような立場であるゲンイチロウとしては、なんとか手を打たなければならなかったが、単にとばっちりを食らうのを回避したいがためであったというのが、本心であろう。
「仕方がない、ここは腹をくくって、話しかけてみるか」
 半分ほどしか吸っていない煙草を便器に放り込むと、ジュッと音がした。レバーをひねって水を流して、丁寧に消臭剤を撒くと、ゲンイチロウはトイレを出た。手を洗い、鏡で自分の顔を見てみたが、ひどくやつれたように見える。だんだん腹が立ってきた。ゲンイチロウは肩を落として、腹立たしそうに独り言ちた。
「なにが悲しゅうて、わしがナオトの尻拭いをせにゃならんのだ。まったく」
 ゲンイチロウはトイレを出て、カウンターに戻ると、コーヒー・カップをふたつ取り出して、サイフォンからコーヒーを注いだ。ひとつを恐る恐るシオリに向けて差し出すと、シオリはコーヒー・カップを見下ろしてから、ゲンイチロウに目をくれた。非常に冷めた目をしていた。
「ごほん」
 ひとつ咳払いしてからゲンイチロウは、意を決して率直に尋ねた。
「シオリ、昨夕(きのう)、なにかあったのか?」
 返事は、極端なまでに短かった。
「別に」
 シオリは、コーヒー・カップを手に取った。
「別に、はないだろう、別に、は。話せば少しは気が紛れるかもしれん。なんでもいいから話してみな」
 ゲンイチロウがやんわりと促すと、シオリは、じとっとした粘着質な瞳でゲンイチロウを見つめた。それから目をつむると、しばらく黙りこんでいた。おそらく、話すか話さないか、心の内で葛藤しているのであろう。ゲンイチロウは、ためらった後で、話しやすいように禁句を口にした。
「ナオトと、なにかあったんだろう?」
 シオリは目を開いて、真っ直ぐに喫茶店の入口を見つめた。真一文字に結んでいた可憐な唇が開いた。
「あたしって、そんなに頼りないかな?」
「そういったのか? ナオトが? それは酷いな」
 ゲンイチロウは大げさにナオトを非難したが、シオリは頭を振った。
「危ないから帰れって、そういうようなことをいわれた」
 シオリは唇を尖らせた。
「ここで手伝うことにしてから、危ないことなんて一度もなかったじゃない。それなのに、嫌な予感がするから帰れって。そんな曖昧な理由で帰れるわけないじゃない」
「嫌な予感がするって、どういうことなんだ?」
「風間慶一と都筑彰男がいなかったの」
「いなかった?」
「うん。『千歳』っていうスナック・バーなんだけれど。入ったはずなのにいなかったの」
「そうか」
 ゲンイチロウが顎をさすって考え込んでいると、シオリが尋ねてきた。
「店長はどう思う?」
「どうって、そうだな。慶一たちがいなかったってのは妙な話だが、ナオトが探っていることに気づかれていたら、危険な目にあっていた可能性は無きにしもあらず、かもしれんな」
「じゃあ、ナオトはどうなのよ」
 ゲンイチロウのいったように、シオリは少し気が紛れたのかもしれない。口調にかすかだが変化があった。
「純粋に、シオリのことを心配したからじゃあないのか?」
「それじゃあ、あたしがいると、みんなに迷惑かけてるみたいじゃない。あたしってなに? ただの喫茶店のマスコット? お飾り?」
 ゲンイチロウは、慌てて首を横に振った。
「いや、そうじゃない。適材適所ってあるだろう? シオリにはシオリにしかできないことがある。カナタだってそうだ。キョウジも、そしてナオトにもいえることだ。みんなできることとできないことがある。なんでもできる奴はいない。それぞれがやれることをやる。そうやって補う。それが仲間というものだろう」
「わかってるわよ」
 シオリはコーヒー・カップに目を落とした。ゲンイチロウのいうことはわかっていた。それでも、なのである。
 ナオトにひっぱたかれて、シオリは腹立たしかったし切なかった。自分は無力であると思い知らされた。とっさに取った行動は、子どもじみた感情的なものであった。ナオトは、シオリがそうすることを予見していたのである。
 あの後、ナオトがどうしたのかは知らなかった。連絡を取ろうともしたが、自分から折れるのは癪だし、どんなことを話せばいいのかわからないこともあって、できなかった。自分の中でまだ整理がついていなかった。今だってそうである。ナオトが店に入ってきたら、どんな顔をして迎えればいいのかわからなかった。
 繰り返すようだが、それでも、なのである。危険なのだから、尚更ナオトひとりを残して帰ることはとても承服できなかった。仲間なのだから。でもシオリは、腹を立てて帰ってしまった。結局、自分は帰ってしまったのだ。いっていることとやっていることが矛盾していた。そんな自分に嫌気がさしていた。自分はまだまだ、人として未熟であることが腹立たしかったのである。
 うつむいているシオリに目を向けて、ゲンイチロウは優しく語りかけた。
「そうだな。偉そうに説教するつもりはないが、文句のひとつでもふたつでも叩きつけてやればいいんじゃないか。内に溜め込めば、いいたいことをいわなければ、不満ばかりが募るだろう。ガス抜きが必要なら、感情のおもむくまま、発散したほうがいいんじゃないか?」
「……」
 シオリは唇を噛み締めて黙り込んだ。
「子供のすることだと思うか? 別に構わんだろう。聞き分けのある子供など、可愛げがないわ。がっははは」
 ゲンイチロウが豪快に笑った。シオリは不満そうであった。
「あたしはもう十六歳なんだよ、子供扱いしないでよ」
「十六歳じゃあ、まだまだ子供だな」
 ハリセンボンのように、シオリは頬をふくらませた。下手に触ると怪我しそうであるが、ゲンイチロウはお構いなしに、シオリの頭にそっと手を置くと、一転、髪をくしゃくしゃに揉みしだいた。シオリはゲンイチロウの手を振りほどくと、乱れた髪を手櫛で梳いた。
「もう。それで、ナオトから連絡はあったの?」
「気になるか?」
「別に」
 シオリはコーヒーを一口すすった。少し動揺しているようである。目元に笑みを浮かべているゲンイチロウに目を向けてから、シオリはそっぽを向いた。
「あたしからは、絶対連絡しない!」
「わかったわかった。そう気色ばむな。ナオトから連絡はあった。なにも問題はなかったそうだ。どうだ? 少しは安心したか?」
「それならそうと、連絡してくれればいいのに」
 シオリは、小声でつぶやいてからコーヒーをすすった。少しほろ苦く感じたようである。一瞬だけ、眉をひそめた。
「シオリは、やさしいな」
「あたしは、別に、どうでもいいわよ。あんな堅物なんて」
 ゲンイチロウが菩薩のように微笑んでいた。
「あーっ、もうっ、それで、キョウジのほうはどうなっているのよ」
「キョウジか? あれは、慢性的な病気だな。いや、不治の病っていったほうが適切かもしれんな」
「なに、それ?」
 シオリがコーヒー・カップをカウンターに置くと、店のドアが開いてドアベルが鳴った。シオリは、はっとして目を向けたが、そこに現れた人物を目にして少し安堵した。少し安堵したことに気づいて、自分の拳骨で自分の頭を小突いた。とても、愛らしい。
「いやー、毎日毎日暑いねえ。このままだと、日本の気候が亜熱帯になりかねんな」
 店に入ってきたのは春海(はるみ)キョウジであった。Tシャツの胸元を掴んで揺らして、肌と着衣の間に冷気を送り込んでいる。カウンター席につくと、まずゲンイチロウを見てから薄ら笑いを浮かべて、シオリに視線を転じて微笑んだ。
「その様子じゃあ、なにかあったようだな。まあ、なにがあったかは聞かんが、朝っぱらから浮かない顔をしていると、悪いことばかりが寄ってきて、良いことが通りすぎてしまうぞ」
「お前さんには関係のないことだ」
「そういういい方をされれば、気にならないことでも、気になるねえ」
「ぬかせ。口から生まれてきたようなお前には、絶対にわからんことだ」
「ふふふ、そうかい。まあ、おれに関係のないことなら、おれにとっては、どうでもいいことだがね。それにしても、だ、この世に絶対というものが本当にあるのか、疑問符が必要だと、おれは思うがね」
「お前が好きな『愛』とやらはどうなんだ? 永遠にして不変なんじゃないのか?」
 キョウジが右手を払った。
「愛もまた、永遠ならざるものなりってね」
「誰の台詞だ?」
「どこぞのお偉い方の、かもね」
 ゲンイチロウがこめかみを押さえて顔を左右に振った。キョウジとまともな話を期待した自分が馬鹿だと思ったのである。そんなゲンイチロウの様子を目にして、キョウジは楽しそうに笑いながら、シオリに目を向けた。
「シオリは、今日もかわいいな」
「ありがと」
 シオリは表情を改めると、素直に礼を述べた。キョウジは思わせぶりな笑顔を見せた後で、カウンターの奥にある部屋に目を向けた。
「機械ヲタクは相変わらず引きこもっているのか? たまには陽の光を浴びんと大きくなれんぞ」
 秋津(あきつ)カナタのことを、光合成でもする緑色植物や細菌ででもあるかのように、キョウジがもっともなことをいうと、ゲンイチロウが真面目な表情で応じた。
「カナタは今日は学校だ」
「ほう」
 キョウジは口の端に笑みをたたえて、感心してみせた。どうも、芝居がかっている。
「そつは至極健全だな。学生の本分はなんだかわかるかい? おっさん」
「そんなことは決まっている。勉強だろう?」
「ちっちっちっ、違うね」
 人差し指を左右に振って、キョウジはもったいぶったように否定した。
「学校へ行くことだよ」
 キョウジがさらりといってのけたが、ゲンイチロウの心には響かなかったようである。ただ、シオリの心には少しく響いたようで、シオリは黙りこんだまま、思考の荒野をさまよっていった。
 ゲンイチロウは、そんなシオリを横目に、キョウジとの会話を続けた。
「本人が嫌がっている。それに、別に学校へ行かなくても勉強はできる。無理強いはするもんじゃないだろう」
「学校に籍をおいているのなら、出席日数をこなさないと落第してしまう。そうすると、余計に学校へ行きづらくなるだろう。結果、中退することになるが、それが果たして、本人のためになるかね」
「学校だけが全てではないだろう」
「そう、全てではない。だがな」
 キョウジは一呼吸あけた。
「逃げ続けるのは容易ではないぞ。案外疲れることなんだ。それに、嫌なことは、いつまでも、どこまでも追いかけてくる。やがては追いつかれるだろう。いや、違うか。逃げている間は、常に嫌なことと同道しているといったほうが適切かもしれんね。そして結局は、いつかは対峙しなければならない。四十過ぎてニートなんて、結構どころか、かなりキツイぞ」
 キョウジは髪をかきあげてそっぽを向いた。
「と、どこかの誰かが偉そうにのたまったそうな」
 ゲンイチロウは口をぽかんと開けたまま、やはり目の前のチャラい若者とは、真面目な話ができないように思えた。こめかみを押さえて再び顔を左右に振った。
「お前の話はどこまでが本気か、ようわからん」
「おれは、いつだって大真面目だよ。ふっふっふっ」
 わざとらしく笑うと、キョウジは、いつものようにアイス・コーヒーを注文した。ゲンイチロウはグラスをひとつ取り出すと、コーヒーを注ぎ込んだ。それを受け取ると、キョウジは一気に半分ぐらいを胃に流し込んだ。
「ふーっ、で、ナオトはどうしている? 朝から大学かね?」
「いや、今ごろ家で爆睡中だろう。昼ごろにはこっちに来るとはいっていたがな」
「ふむ。寝る子は育つというが、部長出勤とはいい御身分だね」
「対象がなかなか尻尾を出さないそうだ。連日連夜、張りついているそうだがな」
 キョウジは残りのコーヒーを飲み干した。コーヒーグラスをテーブルに置くと、もっともなことをいった。
「出てない尻尾は掴めない。そもそも、尻尾がなければ掴めない。さてと、どうしますか、おっさん」
 ゲンイチロウは眉をしかめた。
「わしのことは所長と呼べ、いつもいっているだろう」
「誰もおっさんのことを所長と呼んではいませんよ」
「まずは年長者が手本を見せるべきだろう」
 ゲンイチロウを除けば、この喫茶探偵での最年長者はキョウジである。自ら範を垂れろと、ゲンイチロウはいっているのである。
「まあ、気が向いたらね。それはそうと、こうして顔を突き合わせていても埒があかん。少し様子でも見てくるとしようかね」
風間慶一(かざまけいいち)をか? やめておけ、とりあえずはナオトの報告待ちだ」
「待つのは性に合わんのだがね」
「お前の好みはこの際無視する。今は動くな、これは所長命令だ」
「へいへい。おっさんの仰せのままに」
 キョウジは、あくまでもキョウジであるようだ。

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