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第3話

 翌朝、ナオトは朝早くに目覚めた。布団の上であぐらをかいて、ボサボサの髪をかきながら時計に目をやった。午前六時をまわった頃であった。ナオトは立ち上がると、そのままキッチンに向かった。
 冷蔵庫を開けて、ミネラル・ウォーターを取り出すと、そのまま一気に呷るようにして水分を補給した。昨夜も熱帯夜で、寝苦しかった。身体(からだ)が水分を欲していたのである。
 部屋に戻るとソファーに腰をかけてからテレビをつけた。ちょうど、天気予報をやっていた。ナオトはもう一度ミネラル・ウォーターを飲むと、予報を耳にして、うんざりしたように息を吐き出した。予報では、昨夜シオリに話したように、今年一番の暑さになるといっていたのである。ナオトは暑いのも寒いのも嫌いではなかったが、何事も過ぎるというのは苦手であった。
 空になったペット・ボトルをテーブルに置いてから、しばらく、両目をつむった。頭を回転させて、今日やるべきことを頭の中で整理した。
 まず、風間慶一の通っている東都大学へ向かう。そこで、さり気なく慶一の情報を収集する。あとは慶一を尾行して、不貞の現場をスマートフォンで撮影する。
 文字にして百文字以内におさまったが、障害(ハードル)はかなり高い。都筑彰男を慶一から引き離すことができれば御の字だ。しかし、それはかなり難しいだろう。たとえそれが叶ったと仮定しても、不貞の現場とは、街でナンパする程度では物足りないだろう。ホテルに入る現場を押さえられればいいのだが、慶一がそんな初歩的な失態(ヘマ)を犯すとは思えないし、失敗(ヘタ)を打つとは思えない。
「さてと、どうするか」
 素行調査は地味で単調な作業である。対象に気づかれずに監視しなくてはならなかった。そうして一日中張りついていても、なんら得るものがないこともしばしばであった。長期戦になることは覚悟してはいたが、憂鬱な気分になってしまうのである。
 探偵といえば、もっと華やかなものを期待していたが、実際になってみると、繰り返しになるが、地味で単調な仕事が多かった。ゲンイチロウはおもしろい生活を保証するといったが、ナオト次第だともいった。どうやら、その言葉に嘘はなかったようである。
 イメージとは少し違ってはいたが、確かに普通ではない生活は保証されていた。楽しいか楽しくないかでいえば、前者であった。今までいくつかの仕事を任されてきたが、確かに充実しているように思える。案外自分は、こういった仕事に向いているのかもしれない、とも感じていたのであった。
「興信所の相談員にでもなるか」
 適当な独り言をつぶやいて、ナオトは、ソファーに身体を埋めて天井を見上げた。壁紙と同じく白い天井を、しばらくなにくれとなく見ていた。それから目をつむり、しばらく考え込んだ。今回の仕事を解決して、果たして幸せになる人がいるのだろうか、と。
 クライアントの間仲有佳里の望みは、夫となるべき相手の不貞の現場の動かぬ証拠を手に入れることである。それは、有佳里を幸せにするのだろうか。十八歳にも満たない娘を差し出すことで、風間グループ内で確固たる地位を得ようとする両親にとってはどうだろう。有佳里の両親にとっては、慶一が不貞をはたらこうと知ったことではないのであろうか。娘の幸せなど、端から考えてはいないのであろうか。風間一族の御曹司と結婚することが、娘の幸せだと考えているのであろうか。いや、そもそも幸せの定義など相対的なものであろう。結局のところ、有佳里自身が、どう心の中で処理するかの問題であろう。そう考えると、間仲有佳里を哀れだと思う。あたら間仲家に生まれたばかりに、十万人以上もの従業員たちの家庭を、生活を、人生を背負わされるのである。シオリのいったことは正しいと思えた。間仲有佳里は不憫である。
「私情は禁物だが……」
 ナオトは小さくつぶやくと、両目を開いた。いつもの天井が、そこにはあった。
 ナオトは立ち上がると、シャワーを浴びるためにユニット・バスに向かった。
 シャワーを浴び終えると、ドライヤーで髪を乾かして、真新しいTシャツに着替え、薄手のシャツを羽織って、ナオトはアパートを出て行った。足取りは、無理やり軽やかさを装っているかのようであった。
 最寄りの駅まで徒歩で一〇分程度である。そこから電車で二駅で、東都大学の最寄りの駅に到着する。特別ではない、いつもの風景に少し安堵する。
 ナオトが東都大学の門をくぐるのは、今日で三度目であった。対象が出席するであろう講義は、二時間目である。まだ講義中なので、ナオトはキャンパスをなにくれとなく歩いて回ったが、対象はすぐに見つけることができた。相変わらず大勢の女子大生に取り囲まれた風間慶一を見つけたのである。ナオトは木陰に向かうと腰を下ろして、丸めていた週刊誌を広げて、目を落とすこともなく慶一のことを注意深く観察した。
 油断のできない相手である都筑彰男が側に控えている。相変わらず献身的であるようだ。眉間にしわを寄せて、そのまましばらく様子をうかがっていると、横合いから不意に声をかけられた。
「朝から講義も受けないで、良いご身分ですね。先輩」
 明るい闊達な声は、昨日知り合った優木瑞稀(ゆうきみずき)のものであった。まったく嫌味のないいいように、ナオトはおもわず相好を崩した。
「そういう君も、おれと大差ないだろう」
「わたしは田名部教授の講義を受けるために来たの。また、先輩に会えると思ってね」
 瑞稀がウインクした。無論、他意のない仕草であろうとナオトは思うことにしたのだが、充分に魅力的ではあった。
「なに読んでるの? 文芸書?」
 瑞稀は、ナオトが手にしている雑誌に興味を抱いたようである。
「いや、ただの週刊誌だよ」
 瑞稀は真面目な表情を見せた。
「ただのっていうのはどうかと思う。一冊の雑誌を作るのだって、多くの人が関わっているし、真剣に取り組んでいると思う」
「君は出版社(マスコミ)志望なのかい?」
 顎を指でつまんで、瑞稀は考えこむような仕草をしてみせた。
「興味はあるけれど、今のわたしの成績だと、まず無理でしょうね」
「そう自分を卑下することはないだろう。なにごとも遅すぎるということはないさ。やりたい、なりたいと思えば、自然に身につくだろう。ただ漫然と生きているのでなければね」
「先輩って、意外とポジティブなんだね」
「それって、褒められているのかな?」
「さあ、どうかしら」
 意味ありげに微笑んで見せて、瑞稀は右耳にかかる髪を後ろへ梳いた。昨日も同じ動作をしていたが、その仕草にナオトは一瞬ドキッとした。
「横に座ってもいいかしら?」
「別に断る必要はないよ。好きにすればいい」
「それじゃあ」
 瑞稀はナオトの横に腰を下ろした。ナオトは週刊誌のページをめくった。しばらく雑誌に目を落としていると、大きな笑い声が聞こえてきた。ナオトは顔を上げて笑い声のするほうを見た。慶一の周りに集まっている女子大生のものであった。ナオトは慶一に視線を固定したまま、少し考えた末に瑞稀に尋ねた。
「あの人だかりは、なんだ?」
 瑞稀がナオトの視線の先を追って顔を動かした。顔が元に戻って、瑞稀はナオトに目を向けた。
「知らないの?」
「ん?」
「風間慶一よ」
「風間慶一?」
 ナオトがさり気なく瑞稀に問うと、瑞稀の両目は驚いたように丸くなった。
「風間グループの御曹司よ。知らないの?」
「風間グループって、あの?」
「そう、あの風間グループ。確か……」
 瑞稀は、少し考えこむように中空に目をやってから、言葉を継いだ。
「二年生だったかな? 先輩の後輩で、わたしの同輩ですね。知らないの?」
「いや、知ってはいたが、といっても名前は聞いたことはあるっていう意味だけれど、まさか、あの風間グループの御曹司だとは知らなかったな」
「ほう」と、ナオトは驚いてみせた。これくらいの柔軟な受け答えは、駆け出しの探偵であるナオトでも可能であった。
「それにしても、えらい男前だな。あれではモテて大変だろうな」
「確かに男前だけれど、わたしの趣味じゃあないわ。なんか、威圧的に見えるし」
「誰か特別な相手でもいるのかな?」
「そんなことが気になるんだ。意外ー」
「いや、ただの興味本位だよ。あれほどの男前だといい寄ってくる女性も多くて大変だろうなと思ってね。モテない男のひがみかな」
 瑞稀は顔を振った。
「わたしから見ると、先輩のほうがよっぽど魅力的に見えるわ。なんか、陰があるっていうか、人としての深みを感じるわ」
 ナオトは、瑞稀の眼力になにか異質のものを感じた。この女性は鋭く、危ういのではないか、と思えたのである。深みにはまる前に、少し距離を取るべきであろうと思った。とはいえ、急に冷たく接すれば余計に怪しまれるかもしれない。ナオトは週刊誌を瑞稀に手渡すと、「ちょっとトイレに行ってくる」といって立ち上がった。
「わたし、ここで待っててもいいのかな?」
「おれに戻って来い、と?」
「うん」
 瑞稀がうなずいたのを、ナオトはじっと見つめた。警戒しなければならない、と、少し身構えた。
「なんで?」
「なんでって、昨日もトイレに行ってから帰ってこなかったじゃない。わたし講義が終わっても待ってたのよ」
「それは、途中でチャイムが鳴ったから、他の講堂に向かったんだ」
 少なくとも、発言の前半部分は嘘ではなかった。チャイムが鳴ったのは事実であった。しかし、後半は正しくはなかった。
 瑞稀が疑いの眼差しでナオトを見返していた。やがて、小さな唇が動いた。
「今日は戻ってくるのかしら?」
「なんで?」
「なんでって、興味があるからでしょ。先輩が背負っている陰がなんなのか、知りたいなーと思って」
「おれが背負っている陰か、ご期待に添えなくて残念だけれど、そんなものはないよ。おれはどこにでもいる、なんの取り柄もない、ごくごく普通の大学生だよ」
 ナオトはごく自然にいったのだが、瑞稀は眉間にしわを寄せて、いぶかしんでいる。ナオトは探偵としては、まだ、半人前であると思い知らされた気分になった。こればかりは、知識はあまり役に立たない。経験がものをいう問題であった。場数を踏むしか習熟する方法がない。
 さしあたって、ナオトがしなくてはならなかったのは、この勘の鋭い瑞稀をだますことである。瑞稀をだませない程度(レベル)では、本丸である慶一には到底辿りつけない。そして慶一には彰男がついている。こいつは、少々どころか、かなり高い障害であった。
「わかったよ。今日は必ず戻ってくる」
「では、いってらっしゃい」
 ナオトはトイレに向かった。そして、一番奥の個室に入った。これは、思考するために、必ずナオトが心がけている行動であった。場合によれば、変装することもできる。また考えることが出来る。そして、会話に聞き耳を立てるためでもある。案外、有用な情報を得られることもあったのである。ただトイレとはいえ、それなりに考えられているのであった。
 そしてこの時、意外な幸運が舞い込んできた。慶一がトイレに入ってきたのである。
「どうした? なにかいいたそうな顔をしているようだが」
 そういったのは慶一であった。そして、声をかけた相手は彰男と思われた。ナオトは聞き耳を立てつつ、ピンバッヂのボタンを押した。
「表情に現れていましたか、わたくしもまだまだ精進が足りないようです。申し訳ございません」
「謝る必要はない。ただ、いいたいことがあれば遠慮なく話せ。いつもそういっているだろう」
「はい、では、遠慮なく申し上げます。一〇月にはご婚礼が控えております。そろそろ、ご自重なされたほうがよろしいかと」
「知っているだろう、なんら問題はない」
「はい、わかってはおります。ただ、醜聞(スキャンダル)で最も印象(イメージ)を損なうのは色恋沙汰です。それに比べれば、失言などは軽いほうです。このようなことは、話さなくともおわかりかもしれませんが」
「取り返しのつかない失言というものは確かにある。女性蔑視の発言などがその最たるものだ。男女同権を声高に主張するフェミニストたちは、ここを先途とかさにかかって攻め立てる。まるで、鬼の首でも取ったかのようにな。違うか?」
「間違いございません」
「今までいくつも浮き名を流してきたが、ただの一度も孕ませたことがない。堕胎させるのは悪いイメージがつく。そんな失態(ヘマ)はせんよ。知っているだろう?」
「はい。よく存じております」
「ならばそういうことだ。問題はない。心配するな」
「承知いたしました」
 水が流れ出る音が聞こえた。ナオトはピンバッヂのボタンを押した。
 トイレを出ると、ナオトはあたりを見渡して慶一の姿を探した。慶一と彰男は、数人の女子大生を伴って講堂へ向かうようであった。それを見届けると、ナオトは、自分が戻ってくることを待っているであろう瑞稀の元へ向かった。
 優木瑞稀は週刊誌に目を落としていた。どうやら気になる記事でも見つけたのであろう、ナオトが近づいてくるのも気づかずに、読むことに没頭している。
「なにか、面白い記事でも見つかったのか?」
 ナオトが声をかけると、瑞稀は顔を上げて、ナオトを見上げた。
「これこれ」
「どれどれ」
 ナオトは瑞稀から週刊誌を受け取ると、記事の見出しを声に出して、朗々と読んでみた。
「某有名俳優N.N.の知られざる夜の遍歴……。こういうのが君の好奇心を刺激するのかい?」
 瑞稀は激しく頭を振った。
 記事の内容は、ある俳優の真夜中の逢瀬を面白おかしく書き綴ったものであった。ある夜はアナウンサー、ある夜はアスリート、ある夜は女優、ある夜は歌手、アイドル。有り体にいえば、たんなるゴシップであった。
「内容はともかく、このN.N.って誰のことか気にならない?」
「名前をイニシャルで伏せている時点で、記事に信憑性はないんじゃないか? 記事に信憑性がなければ、正しい答えには辿り着けない。N.N.なんて掃いて捨てるほどいるだろうし。それに、イニシャルに名前を与えるのは読み手に委ねている。その記事を書いたライターも、それにOKを出した編集者も、初めから責任を放棄している。卑怯者のやることだと、おれは思うね」
 瑞稀は、頬をふくらませてから一度うなずいた。
「それはそうかもしれないけれど、信憑性があるから記事になっているんじゃないのかな? それに、わたしは、ただ単純に誰かなって思っただけなのよ。そこまで深くは考えていなかったわ」
 瑞稀はナオトを見上げて首を傾げた。
「それじゃあ、いけないのかな?」
 ナオトは首を横に振った。
「いけないとはいってはいないよ。どうするかは読み手の自由だとは思う。でも、文章を書くにしても、自分の意見を述べるにしても、責任を持たないといけない、と思う」
「うーん」
 瑞稀が短く唸った。
「おれは潔癖症なのかもしれない」
 ナオトはもう一度首を横に振った。
「先輩のそういうところ、わたし嫌いじゃないわよ」
「そいつはどうも」
 ナオトは、少し困惑したような笑顔を見せた。優木瑞稀がいった、「嫌いじゃない」の反対は「好き」ということになるのだろうか、と考えてしまったのである。キョウジもいっていたが、根が真面目なナオトにとっては、白か黒かを反射的に仕分けてしまう悪癖があった。殊に感情の機微に関しては、経験値が圧倒的に不足していた。
 ナオトは、ふと思い出していた。自分は、現在大学を休学中であることを。
 つまらないと思っていた大学生活ではあったが、しかし今、ナオトは東都大学へ潜入してつまらないとは思ってはいなかった。もちろん、仕事上のことであるから一概に比較はできないが、大学という場にいて、他人と話をしていて、楽しいと感じられるのは、通っていた大学ではなかったことであった。それは、優木瑞稀の存在がナオトにそう感じさせているのかもしれなかった。いや、あるいは、『四季』の仲間に加わってから、社会や他人との接し方が少し変わったからなのかもしれなかった。おもしろいと思って生きているから、なにもかもが新鮮に見えた。心の持ちようで、こうまで見えているものが違って見えている。見えてしまうのかもしれなかった。
 苦い感傷に浸っていたナオトを現実の世界に連れ戻す音が聞こえてきた。終業のチャイムであった。風間慶一が向かった講堂へ、ナオトは向かうことにした。
「さあ、田名部教授の講義を受けに行こうか」
「うん」
 立ち上がったナオトが差し出した手に、瑞稀は、嬉しそうに自分の手を重ねた。

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