バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

2.不穏な屋敷

私を呼ぶ声がした。まだ幼くてとても可愛らしい声だ。名前を呼ばれて振り返るとそこには幼いクリスが目の前にいた。

「アリス!探したんだよ」

「そんなに慌ててどうしたのですか?」

「だって今日はアリスの授業が早く終わると聞いたから一緒に過ごそうと思って…まだ帰ってなくてよかった」

私はクリスが慌てて走って来たのだろうと察すると思わずくすりと笑ってしまった。

「そんなに急がなくてもよろしいのに。それに殿下に挨拶もせず帰ることはしませんよ」

私が笑いながら言うとそれが不服だったのかクリスが頬を膨らませた。

「笑うな!」

「失礼しました。クリス殿下」

私がからかうように彼の前で軽くドレスの裾を持ち上げ頭を下げるとクリスは急にそっぽを向いた。さすがに怒らせただろうかと思いながら恐る恐る彼の方を見た。

「クリス殿下?」

「…クリスでいい」

「え?」

「だからクリスで良いと言ってるだろ!僕たちはいずれ国王と王妃になるんだから」

恥ずかしいのか耳まで真っ赤に染まったクリスに気づかない振りをして私は彼に向かって言った。

「ありがとうございます。クリス」

そう笑うと彼も嬉しそうに微笑んでいた。

ふと目が覚めると見慣れた天井があった。途中から昔の夢を見ているという自覚はあったが夢とは不思議なものでその時は夢に入り込んでしまっていて現実と過去が夢現になってしまう。 

「そんな頃もあったのよね」

独り言のように呟くと部屋に自分の声がこだました。そんな時に都合よく自分の部屋の扉を叩く音が聞こえた。

「お嬢様?お目覚めですか?」

「ええ」

私が返事をすると侍女達が私の世話をするために入ってきた。相変わらず手際のいい動きに関心するが、どこか侍女達の様子がおかしい。

「みんなどうしたの?」

「あの、お嬢様」

侍女長であるエマが私に意を決したように向くと言葉を発した。

「昨日の集まりでクリス殿下から婚約破棄をされたというのは本当なのですか?」

ああ、そのことか思いながら貴族達の話題は噂が早いななど呑気なことを考えていた。振り返ると侍女達の不安な顔が見えた。

「そうね、クリス殿下はそうお考えみたい」

クリスは陛下にも了承を得ていると言っていたが私にはにわかに信じられなかった。そもそも陛下がアリアを次のクリスの婚約者として認めていることも怪しい。

我がアンリゼット家は大陸に満ちていた災いの元である瘴気を聖魔法で打ち払ったとされる聖女フローラの血を引く家系だ。聖女フローラは何の地位も持たない町娘だったが大陸を救った英雄として侯爵の地位を受け、その後当時の国王に見初められ国の王妃となり聖女として崇められるようになった。

そして聖女フローラが受けたアンリゼットの家門を継いだのがフローラの第二子に当たる聖魔法を発動したノア王女だった。なので私たちは王家の血を引く侯爵家なのだが、聖女フローラの祝福と言われる聖魔法はアンリゼット家のみしか発動せず、女子にだけ与えられたものだとされている。

なのでアンリゼット家の聖魔法が発動した娘が現れたおりには王家と侯爵家の婚姻が結ばれることが約束ごとのように定例となっている。王家に嫁いだアンリゼット家の王妃から産まれた王女たちは何故かノア王女を除いて以降、聖魔法を使えるものは王家からは現れていない。そのため聖魔法を扱えるものは国からも重宝されていた。

「お嬢様のことを?本当ですか?」

「そんな!ありえません」

侍女達が口々に喋る中、私は侍女達の言葉をさえぎるように話しを続けた。

「ですが、私にもまだ状況が掴めておりません。このことは不用意に屋敷内で広めないように」

「はい、お嬢様」

まだ何か言いたげだったが私は気休めに侍女たちを慰めた。

「ごめんなさいね、あなた達にも心配をかけて」

「そんなお嬢様が一番お辛いですのに…そうだ!今日はお茶の時間にお嬢様の好きなパイをお持ちしますね!」

エマが気を遣ってくれるのは嬉しいのだが改めて私はクリスとの婚約破棄を実感していた。

「ええ、ありがとう」

そう告げると身支度を終えた私は遅めの朝食を部屋で取り、お父様に会いに行くために執務室へと向かった。

「あら?お姉様?」

私と似た顔が廊下の先にいた。

「アリア、ご機嫌よう」

「あら、ありがとうございます。よほどお姉様も良い目覚めだったのでしょうね」

私は黙ってアリアの方を向いて笑顔を浮かべた。

「その様子ですとお父様に泣きつくご予定ですか?」

アリアの側に立っている侍女たちが私を見てくすくすと微笑を浮かべていた。

「お姉様には大変申し訳無いのですが、この度のことは陛下もクリス様も了承のことですのでお父様には何もできないかと」

私はこんなこともあろうかと今日はエマを付けずに屋敷内を出歩いていて良かったと感じた。もし、侍女たちやエマが着いていればまたアリアの侍女達との仲の悪さを増すだけだと予感していたからだ。おそらく、アリアも私が部屋から出るのを待っていたのだろう。

「とにかくお父様にお話をしなければなりません。あなたはお父様に報告したのですか?」

そう言うとアリアは少し俯いて半ば怒ったように私に向き直った。

「お姉様、私がお父様に相談して何か変わった試しがありましたか?」

憎悪にも満ちた自分と同じ色の瞳が一瞬揺らめいた。

「アリアも仮にクリス殿下と婚約したのならその気の短さは直したほうがいいわよ」

私は悔しそうなアリアを横目に見ながらお父様の執務室へと足を運ばせた。

「執務中に失礼いたします、お父様。アリスでございます。」

「アリスか!入りなさい!」

お父様は少し興奮したように私が部屋に入るのを許すと私を見た瞬間に抱きしめた。

「私のかわいいアリス!昨日のことでとても心配していたんだよ」

「…お父様お気持ちは嬉しいのですが少々苦しいです。」

お父様は慌てて私を少し離すとソファに座るように促した。その後私はお父様と今回の婚約破棄騒動の話し合いの中で思いがけないことになるのをまだ知らずにいた。

しおり