第3話 戒名と左券
――固定観念を捨てる。
概念では理解出来ても、これを実践しようとすると、中々に骨が折れた。生真面目な周建は、まずは形から入ってみようと心に決めたのだが、この『形』から脱却する事が本来であるからと、今も頭を悩ませている。黒い髪が揺れているのが、その形の一つだ。
服装に関しては……ほつれた服を着てはいない。これに関しては、謙翁も変わった。周建が縫うようになったからである。ただ貧乏なだけではなく、謙翁は怠惰である。門下に入って半年、雪解けの季節になった今では、周建もそれをよく知っていた。
「怠惰でいるというのも、素直な言動の一つだとは思わないかな?」
「最低限の行動をするのも、自分を快く保つための、素直な言動だ」
本日も袈裟を縫い繕いながら、周建が言った。安国寺にいた頃は、針など見た事も無かった周建だが、西金寺には針があったのだ。時折、謙翁も自分で縫っていたらしい。しかしながら、一度覚えてしまえば、周建の方が遥かに上手であり、元来の几帳面さも手伝って、次々に服の綻びを治していく。
掃除もまた、修行の一環で、周建が行っている。しかしこちらは安国寺でも行っていた。謙翁がするのは、主に料理である。だが非常に貧しい西金寺の食卓には、手の込んだ料理が並ぶ事は無い。弟子になってから迎えた正月に、姫飯を食べたのが一番豪華だった。
しかしこちらには、周建は不満が無い。これでこそ、御仏に近づける気がした。寧ろ、食事に嘆いているのは謙翁だ。
「ああ、お魚が食べたいなぁ……」
「師匠、肉食は禁止だ」
「……お酒が飲みたい」
「駄目に決まっているだろ」
「私の場合は貧乏だから出来無いけど、周建の場合は本当に自分に厳しいからすごいよね」
そんな事を言いながら、謙翁がお茶をそばに置いた。礼を言った周建は、丁度針仕事を終えた所だったので、道具を片付けてからお茶を飲む。
二人での生活にも、お互いが慣れはじめていた。
開け放った裏戸からは、寺の裏手に自生している桜の木々が見える。薄紅色の花弁が霞んでいる、春。温かい風が、二人の間に吹き込んでくる。
「四季のように自然と訪れる存在は、理想的な現象だね」
お茶を飲みながら謙翁が言うと、外へと周建が視線を向けた。それから空へと視線を上げる。満開の桜の合間から、青い空が見えた。昼だというのに白い月も見える。
「月も素直に、顔を出したい時に、空にいるな」
「そうだね。桜も気まぐれに舞い散っている」
「こうして見ると、世界は自然なもので溢れているんだなぁ。なのにどうして、俺達人間は、ありのままでいるだけでは駄目なんだろう」
何気なく周建が呟くと、謙翁が吐息に笑みをのせた。
「周建は、この半年で、大分物事が見えるようになったみたいだ」
「師匠のおかげだ」
周建は、本心からそう答えた。安国寺で感じていた『世界』からの疎外感を思うと、この西金寺へとやって来た事で、胸の内に光が差し込んだ気がしていた。それは紛れもなく、清貧な生活が理由――では、ない。観点について教えてくれた謙翁のおかげだ。同時に、春に似た温かさも、謙翁は与えてくれる。周建がそう考えていた時、謙翁がお茶を置いた。
「ずっと考えていたんだけれどね、君に戒名をあげたくてね」
「え?」
「正式に門下として、新しい名前をと思ったんだ。ただね……」
謙翁はそう言うと、言い淀んだ。謙翁は、師である無因宗因から、過去に左券を受け取らなかったのだ。左券とは、悟ったという証に授かるものだ。謙翁は今もなお、自分が悟っているとは考えていない。もしも悟っているとするのならば――『最初から悟っていた』と感じている。だから、ひとりきりであれば、不要な代物だった。
しかし今は、二人だ。本来であれば、名前と共に、印可証も授けたいのだが、謙翁はそれを持たない。持たないものが、授ける事は出来無い。戒名とは、本来受戒した者に与えられるものであるから、左券と同時に渡す方が良い。
「……ごめんね。左券を私は持っていないんだよ」
「左券を持っていない? 師匠が? どうしてですか? 誰よりも、御仏の心を分かっていると思うんだけど。悟ってないように見える僧も大勢が持っているのに」
「実際に悟っているか否かではなくて、今ではそれを持つ事が一つの誉というだけだからね。私には不要だと思ったんだ。ただねぇ、周建には、左券をあげたかった。私から見ても、君こそが悟りに一番近い所にいる気がするんだ」
溜息をついた謙翁を見て、慌てたように周建が首を振る。
「師匠が悟りの証明を持たないのに、俺が持てるはずがない。第一、師匠がいらなかったものを、俺が欲しいと思いますか?」
「いらなかったというよりは、一応これでも、自分は未熟だと謙遜したから受け取らなかったんだよ? だから私の名前は、謙翁なんだけどなぁ」
「謙遜って事は、本当は悟ってるって思ってたんだろう?」
「――いいや、本気でそうは思わない。仮に私が悟っているなら、それこそ……いや、何でもないよ」
濁すように微苦笑しながら、謙翁が首を振った。最初から悟っていたなどというのは、さすがに不遜だ。弟子には聞かせたくない。謙翁にとって、『悟る』という概念は、全てを理解するという意味合いでは無かった事も理由だ。そしてその悟りの形もまた、森羅万象のように人それぞれであるという信念があった。だからこそ、周建に伝えようとは思わなかったのだ。謙翁は、周建には、周建だけがたどり着く境地があると考えていた。
「名前といえば、俺の名前は? 俺はそっちの方が気になります」
周建は身を乗り出すようにして、謙翁を促す。その嬉しそうに弾んだ声音に、謙翁は顔を上げた。そして唇の両端を持ち上げる。
「
「宗純……」
「気に入らない?」
「気に入るというか……嬉しくて」
こみ上げてくる感情を噛み締めるように、周建が笑顔を浮かべた。己がきちんと門下として認められている実感がわいてくる。何よりも、師から貰った名前だ。そう思えば、やはり春の日差しと同じように、謙翁がまた一つ、温かさをくれた気がした。
「今日から君は、宗純だ」
「有難うございます」
「左券は無いけれど、君は確かに、既に立派な一人の僧だからね。今後はこの戒名を名乗ると良い」
両頬を持ち上げている周建――宗純を見て、謙翁は安堵した。喜んでもらえた事が嬉しかった。そう思いながら立ち上がり、微笑しながら続ける。
「今日はご馳走にしよう」
「ご馳走?」
「お祝いだ。ということで、魚を買いに――」
「駄目だから」
眉を顰めて目を細めた宗純を見て、謙翁が吹き出した。もうすぐ昼食時だったため、そのまま謙翁は料理に向かう。残った宗純は、名前に恥じないように、今後、より一層修行に励もうと考えていたのだった。