第11話 子供
死は、戦争でなくとも訪れる。
長女が亡くなった。西南戦争があったから、山縣はあまり長い時間を共に過ごさなかったが、大切だと確かに感じていた娘だ。熱を出したと思ったら、翌朝には息を引き取った。
「……」
じくりと胸が痛む。冷たい泥のようなものが、全身を支配していくような気がする。だが同時に、諦観もある。仕方が無い、どこかでそう思う己もいた。遣る瀬無いのに、諦めている自分を、山縣は嘲笑した。三人目の子供の死だ。今度こそ長生きをして欲しいと考えていたはずなのに、死に直面して浮かんでくる諦めという感情が虚しい。
友子が一番辛いはずだ。そう思って、山縣は憔悴した顔を妻に向けた。
友子はといえば、両手でお腹に触れている。
四人目の子が宿ったという報せと、長女の死は重なった。
「……旦那様……」
山縣が友子の肩を抱くと、彼女が小さく声を出した。そして空を見上げた。真新しい墓の前に二人で並んでいる。葬儀が終わってから、墓地に来るのは三度目の事だった。
「大丈夫だ、友子。俺がそばにいる」
努めて力強い声を出すように、山縣は心がけた。すると友子の柔らかな肩が震え始める。ポロポロと泣き始めた妻を、山縣は抱きしめた。己は泣かない。
――代わりに、山縣は富貴楼で泣いた。そばにいるのは、お倉だ。お倉は何も言わない。山縣が泣きに来る日は、今紫も三津菜も顔を出す事は無い。玄関を潜ってすぐの山縣を見て、二人が控えていたとしても、お倉が静かな空間を用意してくれるのだ。
ただ一度、聞いた事がある。
「今紫を代わりに越させましょうか?」
「いや、いい」
山縣は簡潔にそう返すと、ただ静かに、お倉のそばで涙を零していた。お倉も、それ以上は何も言わなかった。
こうして富貴楼は、山縣にとって、休む仕事をする場であるだけではなく、泣く場所にもなった。喪失の悲愴を癒す場に姿を変えていく。悲しい事は、枚挙に暇が無い。しかし泣いてばかりはいられないし、本来は、男の涙など恥だ。だから月に一・二度、ふらりと顔を出して泣くくらいで丁度良い。
だが次第に涙は乾いていく。そうなっても山縣が足を運ぶ頻度は変わらなくなった。今では山縣邸の使用人が、泊まる日の朝には富貴楼に電報を寄越す。
山縣は、皮肉にも西南戦争に出た事で年金を得ていた。何が皮肉かといえば、他の兵士達は、報奨金が出ないと不満を零していて、それが山縣の頭を悩ませているのに、という事だ。莫大な報酬で、山縣は目白台に購入した土地を整え、椿山荘を造った。完成までには、まだまだ時間がかかる。本格的に引っ越す頃には、また子供が生まれているだろう。今度こそ、子供と三人で、庭の散策でも出来たならば……と、考えて山縣は、鬱屈とした気持ちになる。次の子供も、長くは生きられないかもしれない。
この日も富貴楼で、山縣は涙を浮かべた。最近では涙ぐまなかったから、久しぶりの涙だ。不思議なもので、泣くつもりで来ていない日であっても、お倉は山縣のその日の顔色を見て、人払いをしたりしなかったりする。あるいは、お倉しかそこにいないから、泣けるのかもしれないと、山縣は感じる事もある。
「お倉、子は何故、死ぬんだろうな」
「人は皆、死んでしまうものですよ。それが、遅いか早いかだけの違いです。ご存知でしょう?」
「ああ、よく知っている」
山縣は涙を誤魔化すように酒盃を片手で煽ると、立てた片膝の上に肘を置いた。
「どうすれば、妻を慰められるだろうかと思ってな」
「まずは、ご自分を大切になさるべきですよ」
「俺は自分を大切にしているさ。こうしてここで、気ままに酒を飲んでいる」
それを聞くと、お倉が透き通るような瞳になった。
「もっとやけを起こしても良いのに」
「良い歳の男が、やけなんか起こすものか」
「その自制心は、お見事ですが、あまりご自分を追い詰める事はなさらないで下さいね」
気遣うようなお倉の声に、山縣はいつも余裕を感じる。山縣がお倉に対して抱く感覚は、友情に似ていた。それは、男同士の友情とは異なる。男同士であったならば、このように素直に心情を吐露する自信は無い。だが、お倉を女性として意識するわけでも無い。女傑と表するのが正しいようにも思うが、芯の強さは感じても、お倉の気性が荒いと感じた事は無い。大人、そう感じさせるのが、お倉だ。
「お倉、お前はいくつだ?」
「女に歳を聞くものじゃありませんよ」
「悪い」
「いくつに見えますか?」
「二十代ではないと思っていたが、三十前半か、半ばか……」
「お上手ですこと」
「え?」
山縣が純粋に驚いたという顔で、子供のように首を傾げた。その表情に、お倉が苦笑する。
「私は今年で満四十ですよ。山縣様より年上です」
虚を突かれて、山縣の涙が乾いた。詳しく年齢を聞いてみれば、確かに天保生まれであり、山縣の一歳年上だと分かる。そこから二人は、それぞれが記憶している思い出話を語り合った。気心が知れた感覚に陥る。
江戸の話をした。血腥い話では無い。あの時の時流の話だ。何が人気であっただとか、どんな文化があったのかといった、たわいもない雑談だ。この街での暮らしが長いお倉と、長州で生まれ育った山縣の話は、交わらない部分もあれば、一致した思い出もあった。
この日山縣は、ただそばにいてもらうのではなく、会話をして涙を忘れさせてもらう経験をした。だから帰る足取りは軽かった。
「おかえりなさいませ」
帰宅すると、友子が出迎えてくれた。
「ああ」
まじまじと友子を見てから、山縣は目を閉じる。心の中に、一番咲き誇っているのは、やはり友子の明るい笑顔だ。女として見ている相手は、友子しかいない。比較するのも違うかもしれないが、山縣は友子を見ると、お倉がやはり『友達』とするに相応しいような心地になる。無論、客と女将であると分かっている。山縣が思ったのは、お倉は女ではなく、お倉という独自の存在感を持っているという事である。
「友子」
目を開けてから、山縣は友子に歩み寄った。そしてそっと手首に触れ、気遣うように腕をひく。お倉に話を聞いてもらった後は、いつもより山縣に余裕が生まれる。大人であるお倉の空気に触れると、山縣は冷静になれる気がしている。
「体は大丈夫か?」
今ならば、妻を守る事が出来る気がする。山縣はそんな心地になりながら、妻の額に優しく唇を落とす。すると友子が赤面した。
「大丈夫ですよ。もうすぐお夕食ですね」
照れたように友子がはにかんだ。それから二人で、食卓へと向かった。
――二人が待ち望んでいた第四子、次女が生まれたのは、翌年の事だった。待っていたから、待つから取って、
今度こそ、長生きしますようにと、内心で何度も祈る。
布団に横たわっている友子と、その隣の松子を見た時、山縣は、今度は妻の前であったが素直に涙を浮かべた。嬉し泣きを、堪えられなかった結果だ。
「健やかに、な」
生まれたばかりの松子の髪を撫でながら、瞬きをした山縣は、眦に涙を光らせる。
こうして、新しい家族が加わった。