【十四】仮想現実の解説
それでも私的な場とはいえこれは上官の命令だ。誠実に答えるべきである。
「まず『現実』ですが、これは、外的な光や音といった刺激を、人体の脳が、眼球や耳などで受け取り、電気信号として脳へと送り、知覚することで、理解されます」
それくらいは分かっているのだが、言葉を挟む事はせず、静かに森永少佐は頷いた。
「対して『仮想現実』ですが、これは、外部刺激を無しに、直接脳に電気信号を送り、外部刺激が存在しないにも関わらず、そこに実際にあるように知覚させる事で、体は脳の知覚通りの理解をします。この時、刺激を遮断する事も出来ます。痛覚をシャットアウトすることで、ペインコントロールが可能となります」
語る亘理の瞳は、いつもと変化が無い。至極義務的だった。
「また、視覚聴覚嗅覚などの障害者に対しては、それぞれの刺激を与える事で、例えば風景が見えて風の音が聞こえて花の香りがするというように脳が知覚する刺激を与える事も可能です。同時に、人間の体がそこに存在すると、脳を刺激しておくので、さも実際の体で、五感で理解したように仮想現実内では感じる事になります。だから、たとえば腕を失っていても、腕の感覚があるという事実を脳に知覚させておけば、仮想現実の中では、腕が存在しますし、勿論見えるようになります。ここまでが、各個人に僅かな個人差はあるものの、共通的な部分です」
亘理はカップを置くと、静かに溜息をついた。
「次が、個人差の大きい『仮想現実』についてです。イメージとしては、仮想現実とは、非常にリアリティのある『夢』に近いんです」
夢――と、日中にも高瀬大尉から聞いた単語を、森永は脳裏で反芻する。
「人間は、仮想現実世界で、何故自分がここにいるのかという整合性を保つために、記憶と適した世界観を構築するんです。五感も身体感覚もありますから、一個人の人間として、気がついたらその場所にいるわけです」
言葉を挟む事はせずに、森永は亘理の声に耳を傾ける。
「その際、確認されているかぎり全ての者が、仮想現実の外側の事を忘却します。たとえば視覚障害者だった人間であれば、自分は今目が見えているのだから、目が見えなかったなんていうのは悪い夢だと、記憶を上書きしてしまうんです。そうですね、この事例のように『夢を見ていたんだ』と考える例が圧倒的に多い」
少しずつ、森永にもイメージが掴めてきた。
「次に多いのは、『異世界に来てしまった』という記憶の改変です。見知らぬ場所に立っていた事が起因しているのでしょうね。その後、後者の場合であれば、異世界ならば魔物がいるはずだ、魔法があるはずだ、勇者や魔王がいるはずだというストーリーを漠然と想起し、無意識にそれに酷似した世界観を作り出します」
まるで童話の、異世界にトリップするお話のようだなと森永は漠然と思った。
「そして例えば、魔物を倒す冒険者となって、剣を振るいながら旅をする『仮想現実』を、『本物の世界』だと認識して、生きていくんです。前者のように夢を見ていたという場合であれば、その後家族が迎えに来てくれて、長閑に暮らす日々を世界観としたり、あるいは『自分は大富豪のご令嬢だった』『モテすぎて困っていた』などという、やはりストーリーじみた、まぁ願望じみた世界を無意識に描いて、世界観を構築していきます。そして、現実生活に即しながらハーレムにいるような日常を、本物の世界だと考えて生きていきます。この場合は、多少、現実世界に生きる人々や科学製品を世界観に取り込む事もあるようですね」
亘理は淡々と、己が知る事柄を挙げていく。
「このようにして『仮想現実』の世界観は、その人物の記憶を再構成し、新しい人生を歩む上で必要な事柄を無意識に取り入れるため、その者にとって最高の世界を作り出す事が多い。つまり、仮想現実は、その人物の『理想の世界』であるとも言えます。即ち、仮想現実は、技術的には同一で特定の処置ですが、処置された個人の数だけ、新たな世界を生み出しているとも言えます。現在の科学では、二者を含め、他者間での仮想現実の共有に成功した例は存在しません。現在最も研究されているテーマが、仮想現実の世界観を他者間で共有する事です」
所々分からない部分もあったが、腕を組んで頷きながら森永少佐は聞いていた。
亘理の瞳が、その時、少しばかり暗さを増した。
「さて、仮想現実へ誘うためには、当然医療処置が必要となります。それが、脳の生きた状態での摘出と、その後の保持です。脳の摘出は、専門的な外科処置なので、脳外科医に聞いて下さい。その次が、俺の専攻していた分野です」
「うん。機械薬学だね?」
「ええ。まず水槽によく似た機械を用います。様々な機能があるのですが、まぁ水槽だと考えて頂いて結構です。そこに薬液を満たします。こちらにも正式名称が勿論ありますが、簡略化して説明します」
「お願いするよ」
「この薬液に、生きた脳を入れる事で、脳は寿命が来るまでそこで生き続けます。脳の寿命についての研究はまだ発展途上なので、具体的に何年とは申し上げられません。そして、この水槽中の脳に、簡単に言ってしまえば電極のような、専門の器具をあてがい、電気刺激を行います。この刺激により、脳は様々な知覚を得ます。これが仮想現実の原理です」
「なるほど」
「脳を人体から摘出するメリットは二つです。脳への刺激で、生まれ持った身体が誤作動を起こさないようにする事が一つです。もう一つは、介護の問題です。高齢化が進み、高齢者を収容する事すら困難な現状では、満足な介護が行われません。専用ロボットですら手一杯です。しかし脳単体であれば、即座に収容スペースを用意する事が可能であり、介護の人手もかかりません。以上が、仮想現実理論の概要です」
話し終えた亘理大尉が、珈琲を飲む。
それを見据えながら、森永少佐は腕を組んで小首を傾げた。
「確かこれは、認可してる国も多いんだったね?」
「ええ」
「理由は?」
「宗教的問題で、安楽死を自殺と見なす風潮があるからだと聞いています。寿命が延びたにも関わらず老化を止める技術がない現在、平均的には百歳から二百歳までは、寝たきりとなります。その間に死を願う老人が多いようです。そのために、ターミナルケアとしての仮想現実利用が脚光を浴びたんです」
「何故日本では、まだ認可されていないの?」
「今後認可される可能性は高いと思いますが、日本では安楽死も認められていますからね。他にはそうだな、死に目にあえないというような昔ながらの考えもあると思います」
「実際に使ってる上に専門家の大尉に聞くのも何だけどな、君は仮想現実賛成派?」
「いいえ」
「……まぁ、私より沢山の事をきっと色々考えた上で、それが結論なんだろうから、私は大尉の意見をそのまま受け止めるだけにしておくよ。ところでさぁ」
「なんですか?」
「国防軍の一部が秘密裏に実験したのって、どうしてだと思う? しかも現在進行中ときてる。理論も技術も固まってたって分かるし、すでに人体実験にも成功しているわけだから、成功段階で実験終了でもおかしくない。なんで続けているんだろうね。まぁ被験者を放り出すわけにはいかないだろうけどさ、行き場所がないんだから。だけど日本での認可も間近って言っても良いくらいなんだから、実験していた事と成功した事をとっくに公表していてもおかしくないし、公表する方が普通だよね。どうしてそう言う結果になってないんだと思う?」
「それは……」
「仮想現実利用の裏には、なにか含みがある。だけど、その裏側に関わる人々への手がかりが大貫中佐しかいない。だから彼のそばにいる。亘理大尉の現状ってこういう事で、その裏側というのを探りたいんじゃないのかな?」
亘理の黒い瞳が僅かに揺れた。その一瞬だけの動揺を、森永少佐は勿論見逃したりしない。ニヤリと笑った森永少佐は、それからまじまじと亘理大尉を見た。
「私達、協力できるんじゃないかな?」
「……」
「こう見えて私は、頭も良いし、仕事も出来るよ。良いパートナーになれると思うなぁ」
このようにして、その日の夜は更けていった。
この日亘理は、久方ぶりに予告なしに、妹への通話をしなかったのだった。