【九】ロマンティスト
「亘理さん? どうしたんですか、顔色が悪い」
声をかけられ顔を上げると、首を傾げて微笑んでいる遇津の姿があった。
「まぁこんな事態ですからね、明るくしろと言っても無理でしょうし、無理にそうする必要はありませんけどね」
遇津はそう言うと、微糖の缶コーヒーを差し出した。受け取りながら、あまり甘いものは好きじゃないんだけどな、なんて亘理は思った。
「内戦は本当に悲惨ですね。優秀な軍人が増えれば、この国も変わるかもしれませんが」
「軍人……」
「この病院に目をかけてくれる軍の方も多いんですよ」
自分の国の事とはいえ、亘理は国防軍の事など、これまで意識した事は一度も無かった。だから世間話として、亘理は漠然と耳にしていた。
「軍関係者の一番の関心は、ペインケアとターミナルケアです。この国は、他の先進国とは異なり、仮想現実を用いた緩和治療がまだ認可されていませんが、あれほど有効な終末医療は他に無いと私なんかは思うんですけどね。機械薬学を用いた技術ですから、それこそ亘理さんのご専門でしょう?」
「ええ……まぁ……」
「こんな事は言いたくありませんが、ご両親も妹さんも、仮に仮想現実に身を委ねれば、今よりは幸福なんじゃないかなぁ。なにせ、接続された人間は、そこが仮想世界だとは気づきません。自由な夢の世界で、五感を持って生活出来る。死ぬまでの間、そうして生きる方が、気が楽なんじゃないでしょうか」
「ですがそれは偽りの、虚構の世界に、ほかならないでしょう? 俺は、あまり仮想現実の使用には賛成できません。確かに感覚は、脳の知覚が全てと言っても良いかも知れない。些細な臭いや料理の味すら、脳への刺激で再現は可能だ。けれどそれは、本物ではない」
「この現実だって、外界からの刺激を脳が処理しているに過ぎないというのに、本物とは何ですか?」
「それこそ、外界からの刺激です。人為的ではなく、自然的で偶発的な刺激です。分かりやすく言うならば、一個人が欲望のために得る刺激だけではなく、他者との間、二人、あるいはそれ以上の人間の間で生み出されるような、社会的な刺激があってこそ、俺は本物だと思います。料理の味をいくら再現できても、作り手の存在を真の意味で認識できなければ、やはりそれは偽物だ。いくら作り手の情報を、刺激で脳内に再生出来たとしても。それにたとえば、他者に触れたり、抱きしめたりといった行為も仮想現実では不可能だ。抱きしめていると感じる刺激を得る事が出来て、そう知覚したとしても、それは真の現実ではない」
「案外亘理さんはロマンティストなんですね。それにしても、少し感情的すぎる。寝たきりの人間は、そもそも他者を抱きしめる事なんて出来ない。しかしながら、仮想現実内ではそれが可能になる。少なくとも抱きしめる事が出来たと知覚できる。果たして、抱きしめられない現実と、抱きしめていると錯覚している現実の、どちらが充実していて有意義なのでしょうね?」
「それは人それぞれだと思いますよ」
「ちなみに、残された者の事はどう思いますか?」
「どう、とは?」
「脳死をしていないだけで、瞼を開くことすら困難な患者の家族や友人、恋人の気持ちです。目を覚ます事が絶望的な、老衰患者が大半ですが、今回のような事件でも、そう言った体になった患者は多数います。その患者と親しい人々の願いで最も多いのは、一言で良いから話がしたいというものです。再び笑顔を見たいと願う方も多い――たとえそれが、仮想現実をモニタリングする画面越しであっても、ね。ま、介護に疲れて早く死ねって思ってる人も大勢いるんでしょうけど。仮にその場合ですら、脳単体を水槽に浮かべる仮想現実用の処置をすれば、少なくとも下の世話なんかはしなくてよくなりますよね」
「遇津さん、貴方は俺に何が言いたいんですか?」
「いえね、単純に亘理さんのご意見を伺いたかっただけですよ」
「……」
「ただ、一つ親切で申し上げるとすれば、貴方は毎日恨み辛みを言われる生活からは抜け出した方が良い。もっと、今後のご自身の身の振り方を考えた方が良いんじゃありませんか? 貴方のお父様の会社の経営者は既に変わっていますし、今後大学院に残って研究を続けていく資金も無いのが実情でしょう? その上、仮想現実の推進に反対ならば、いくら機械薬学がお得意であっても、後ろ盾になってくれる研究所は少ないでしょうし」
遇津の言葉が正しい事は、亘理にもよく分かっていた。
その後、既に学費を支払ってあった大学院には論文を提出し、無事に卒業が決まった。
その間も、亘理は足げく妹と両親の見舞いに通った。
父はまだ目を覚まさないが、脳死判定は受けていない。
母は、最近では、言葉を発しなくなった。極度の鬱状態なのだという。
そして妹は、治療の甲斐があって視力を取り戻したのだが、その結果、精神に異常をきたしてしまった。窓ガラスに映った自分の顔を見て失神した後から、外見を受け入れられない様子で泣き叫んでいる。時には言葉にすらなっていない奇声を発する。
そんな家族の様子を見る内に、亘理は無感情になった。
どんどん心が平坦になっていった。
もう長い間笑ってもいなければ、泣いてもいない。
色々とどうでもよくなってしまった、無感動の日々。
就職活動をする気にもならなかった。いつか遇津に言われた事とは異なり、それなりに就職先への勧誘もあったのだが、なにもする気力が起きなかったのだ。
ただ、時折考えた。
己が研究などしなければ、皆が今も平温に暮らしていたのだろうかと。
そして違うだろうと結論づけた。
これもまた遇津の言葉だが、内戦やテロなんていうものが悪いのだ。
優秀な軍人がいれば、戦闘行為を止められるような人間がいたならば。
気づけば出願最終日に、滑り込みで、国防軍付属学校への願書を提出していた。
試験や体力測定までの日々は慌ただしくて、病院への見舞いには行けなかった。
合格後も、最初の訓練期間は外出する暇が無かった。
やっと一段落ついたのは三ヶ月後で、その日亘理は、久方ぶりに私服の袖に腕を通して、病院へと向かった。