第九話 侍女
昔から相手の虚を衝いたり、嫌がるようなことをわざとやって動揺を誘い場の主導権をとるという人に嫌われがちの方法をとる人だったが、明らかに主導権をもっている場においてもそれをするので、これはもともとの性格の方に問題があるのだろう。
ラヴォート殿下の折檻を早急に切り上げさせるには「嫌がって見せる」ことが効果的だった。完全に相手を意のままにできると思わせられれば次の段階に進める。下手に虚勢をはると延々と本題には入れないうえに嫌がらせがエスカレートして面倒である。シェイルは経験的にそれを熟知していた。
ローズガーデン絡みの仕事がたてこんで徹夜のうえに高官に取り囲まれてのパーティ、ラヴォート殿下の折檻、さらにまだやらなければならないやっかいな仕事を残していた。ここは早々にお暇したい。
ローズガーデンに関するいくつかの指示は先ほど耳にかぶりつかれながらお伺いすることができた。あれならばどこで聞き耳を立てていても聞こえなかっただろう。方法にはいく分異論があったがこの状況であれば仕方がない。
そこへ何者かが少し開いたままだった扉を押し開けるように倒れ込みしりもちをついた。ずいぶん大胆な密偵だなと思って見ればそれはよく知った顔だ。また泣きそうな顔をしている。
「エリッツ、ここで何を……」
「旦那様、申し訳ありません。坊ちゃんが見当たらないので探しに来ましたところこちらに」
「お前か。クソガキ連れてさっさと出ていけ。大事な話の途中なんだよ」
言葉とは裏腹にラヴォート殿下は興味深そうにエリッツを眺めている。
シェイルは迅速に主の要求をくみ取った。
「殿下、弟子のエリッツと――侍女のナターシャ――はよく存知でしたね」
「その侍女はどうでもいい。噂の弟子か。さっきも思ったが、何というか……」
ラヴォート殿下は床に転がったままのエリッツを興味津々といった態で眺めまわしながら唸る。
「仕上がった男娼みたいだな」
エリッツのプラチナブロンドの髪さらりと指にかけ小ばかにしたような口調で言いはなつ。
相手の弱点を的確に見抜く能力をこんなところで発揮する必要はないのだが、この人はうさぎを捕らえるにも全力を尽くす質だった。
「この髪は自分で切ったのか」
こうなると泣くまで離さないだろうが、エリッツはすぐに音を上げるだろうからそこまで追い詰められはしないだろう。
しかし、当のエリッツはなぜかこちらをじっと見ている。何を言いたいのかわからないが、なんだかあまりよくない目つきだ。
「殿下、わたくしお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
ナターシャが割って入るようにラヴォート殿下に歩み寄る。
「なんだ、侍女風情が。普段ならあり得ないことだが、今日は特別に許可しよう。何だ、言ってみろ」
芝居がかった仕草で、髪をかきあげながら立ち上がる。
「ありがとうございます」
ナターシャは右目の下のほくろ以外にはさして特徴のない人形のような顔をしている。赤い口紅を引かれた口がただの裂け目のようにしか見えず、高音の美声がさらに見た目とはちぐはぐだった。
「先ほど、わたくし旦那様からの指示で坊ちゃんを探しにパーティ会場に入りました。そこでとあるお方、というかエフェボフィリアの豚野郎を拝見したときにローズガーデンのおもてなし一環として殿下にお伝えしておいた方がよい演出があったことを思い出したのです」
ラヴォート殿下は表情を変えずに聞いていたが、先を促すようにひとつ頷いた。
「こちらでお話したらせっかくのサプライズのおもてなしが台無しになってしまうかもしれませんので、まず後ほど旦那様にお伝えするということでよろしいでしょうか」
「かまわん」
ラヴォート殿下はあっさりとそういうと話は済んだとばかりに部屋を出て行ってしまう。
シェイルがなかなか成し遂げられなかった話の切り上げをナターシャはあっさりとやってのけた。エリッツも泣かされずに済んだ。
しかし部屋を出ようとしたラヴォート殿下の表情は複雑だった。シェイルの勘違いでなければそれは若干の怯えだ。
これまでもナターシャのなした仕事は恐ろしいものばかりだったが、そういう汚れ仕事をまかせられる存在として重宝されているのもまた事実だった。
体調がよくないからとデルゴヴァ家の使用人に案内させ三人は騒がしいパーティ会場に踏み入ることなく屋敷を後にした。本来であればかなり無礼なことではあるが、そんなことをいちいち気にするような神経ではこの国の高官たちとはやっていけない。
エリッツはまた何とも言えない目つきでシェイルと見ているし、ナターシャは何を考えているのか無言である。大方、先ほど言っていた「おもてなしの演出」について考えをめぐらせているのだろう。
街の西門付近でようやくナターシャが「もういいでしょうか」と口を開いた。
その言葉には二つの意味があった。
シェイルは一応周りを見渡し人の気配がないことを確認すると「いいんじゃないですか」と返す。
ナターシャは近くの低木の茂みに腰をおろすと持っていた小さなバッグから厚手の布を取り出して、容器にいれてあった液体をしみこませ、それで顔をごしごしと拭きはじめる。
エリッツは気味悪そうにそれを眺めていたが、やがてそれが驚きの表情に変わる。
「マリル……」
特殊な化粧を拭きとり、ブルネットのつけ毛を外したその姿はマリルであった。さらに口から顔の形を変えるために含んだ真綿をはき出すと、いつもの丸顔に戻る。正直なところ何度見ても気味が悪い。
「お久しぶりー」
「声、声も違う」
「これが特技なのよね。なかなかキレイな声だったでしょう。今度教えてあげるね」
「い、いいよ、別に」
エリッツはまた気味が悪そうにしている。しかしそんなことには構わない様子でマリルは低木の茂みからゴソゴソとおなじみの帆布の肩掛け鞄を探り出した。
「もういいでしょう。着替えるんだから早く帰る、帰る。私はこれから見回りの夜勤に入ることになっているんだ。明日また遊びに行くからね」
マリルは短い栗色の髪を手櫛で整える。ナターシャのときとは打って変わってくるくると表情が変わる。
彼女の変装は正直なところまったく見抜く自信がない。まるで人格ごと変装をしているようで今回のように事前に知っている場合ですら変わるところを目の当たりにしないと心理的に納得がいかない。
「あ、シェイル、仕事のやり残しがないように。これ、あげるから」
マリルは「仕事」のところに変なアクセントをつけて言うと、鞄から小さな紙箱を出した。
「なんですか、これ」
マリルはシェイルの胸ぐらをぐいとつかんで引き寄せ、耳元で「塩の揚げ菓子」とささやいた。
エリッツも気になったようで紙箱を見て「何、それ」とつぶやくが、マリルは「内緒」と言ってニヤニヤ笑う。そうなるとシェイルも言うわけにはいかない。正直なところこれをどうしろと言うのか意図がわからなかったが「内緒です」と安易に追従した。
しかしこのとき、マリルにもっと詳しく意図を確認しなかったことをしばらく忘れることができないくらい強く後悔することになった。