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楽師の長い旅(4)

 ヴァルダがしつこくリシャルドに食ってかかるのでシハルは噛みつかれる覚悟で口をおおった。
「黙りましたね」
 リシャルドの方はただ興味深そうな顔をしてヴァルダを見ている。
「これは何なんですか?」
「悪霊です。でも大丈夫です。このように……」
 ヴァルダがまたばたばたと暴れはじめるのでその子犬のような体を思いっきり締めあげた。
「このように――私がいればたいした悪さはできません」
 リシャルドは「ほう」と息をもらしてから、おもむろに口を開いた。
「ずっとそうではないかと思っていたのですが――」
 そう言って一度視線を外してしばらく黙る。そして意を決したようにシハルを見つめた。
「シハルさんこそ僕の探していた女性かもしれません。いえ、そうに違いないです。こんな悪霊を手なづけるくらいなら僕のギタアも平気でしょう」
 あの楽器は平気ではない。打ち砕いてもかまわないというなら勝つ自信はあるが、リシャルドのもとめているのはそういうことではないだろう。
 シハルが反論する前にヴァルダがものすごい力でシハルの腕をふりはらって飛び出した。すかさず手をのばしてその首根っこをつかむ。ヴァルダの体がやわらかくなっていてよかった。
「暴れるなら薬箱にしまいますよ」
「うるせぇ。シハル、てめぇこれが何かわかってんのか」
 また同じことを言っている。
「何なんでしょう?」
 仕方なく聞いてやる。
「いいか、これは女ったらしっていう人種だ。いちいち食い物につられるな。てめぇは鳥の餌みたいなもんでも食っとけ!」
 怒鳴り散らすヴァルダにシハルは目を丸くした。何が言いたいのかよくわからないが、鳥の餌というのはシハルが村にいた頃に常食としていた蒸した穀物のことだろうか。あれはあれでまずくはないのだが、世界中においしいものがたくさんあると知ってしまった今、毎日食べたいようなものでもない。
「結構失礼な悪霊ですね」
「すみません。どうぞ座ってください」
 座るといっても寝台しかない。この部屋で二人と悪霊一匹では手狭だ。
 シハルは式服の帯の下に巻いていた仮帯をといて引き出すと、それでヴァルダを腹にしっかりとくくりつけた。なぜかヴァルダはおとなしくしく巻かれている。むしろ勝ち誇ったような顔をしてリシャルドを見ていた。
「や、何かひどい誤解をされているようです」
 リシャルドは弱りきった表情をしてヴァルダを見ていた。
「誤解?」
 リシャルドは首をかしげるシハルではなくヴァルダに向かって口を開く。
「そんなところで見張らなくとも僕は無理矢理女性に乱暴をはたらいたりしませんよ」
 またヴァルダが騒ぎ出しそうだったのでシハルはすぐにその口を押さえた。腹にくくりつけておくと両手が使えるので便利である。今度からヴァルダが騒いだら腹にくくりつけておくことにしよう。
「そうやってしばられていると、何だかかわいいですね。これ、ここに置いてもいいですか」
 リシャルドはチーズの皿と武骨な木でできたカップを倒れている薬箱の上に置いた。ちょうどいいローテーブルのような様相である。
「――そう言われたのははじめてです」
 ヴァルダを気色悪いだとか呪われているのではないかという人はいても、かわいいという人など今までいなかった。それはともかくチーズが気になる。ヴァルダが大暴れして怒鳴り散らすので空腹だ。シハルの物欲しそうな視線に気づいたのか、リシャルドはやわらかくほほ笑みかけてくれる。
「どうぞ召しあがってください。足りなければまた買ってきますよ。あ、お酒は平気ですか?」
 そう言いながらリシャルドは木のカップに葡萄酒を注ぎ入れた。
「待て」
 ヴァルダがまたつっかかってくる。
「シハル、葡萄酒をよこせ」
 わけがわからないがシハルはリシャルドに手渡された葡萄酒のカップをヴァルダの鼻先に近づけた。一生懸命においを嗅いでいるようだ。
「においがわかりますか?」
 ヴァルダは答えず、葡萄酒をちろりとなめた。
「あ、舌がある」
 リシャルドが声をあげ、シハルも「ほんとですね」と目を丸くした。悪霊を入れたジ・ダァを土人形に入れて焼いたことがないので驚くことばかりだ。
「味がわかるんですか。飲んだものはどこから出てくるんでしょう?」
 ヴァルダの体をひっくり返して調べたいが、仮帯を外したら何をするかわからない。
「チーズ」
 ヴァルダがぶすっとした口調でいうのでシハルは「はいはい」と言いながら小さなチーズのかけらをヴァルダの口元にもっていく。
「食べるつもりでしょうか」
 リシャルドも興味津々で見守っている。
「食べてます!」
「食べるんですね!」
 シハルとリシャルドはお互い顔を見合わせながら歓声をあげた。
「え? 食べたものはどこから出てくるんですか?」
 シハルはやはりそこが気になる。
「てめぇらガタガタうるせぇよ。――まぁ、変なもんは入ってねぇようだな」
「わっ、すごい失礼ですね。変なものなんていれませんよ」
 リシャルドはショックを受けたように声をあげた。
「そんな姑息な真似をしなくとも、シハルさんに色よい返事をいただけると思っていますが」
 すでにシハルはチーズに手をつけていた。それをきちんと飲み込んでから口を開く。
「どういう意味でしょう」
 リシャルドはぐっと背筋を伸ばしてシハルに向き直る。
「シハルさんに僕の恋人になってもらいたいということです」
 そんなことをしたら楽器に命を狙われるではないか。シハルが何かをいう前にさっそくヴァルダが暴れはじめる。シハルは仮帯が外れないようにその体を押さえこんだ。
「てめぇ、こら、黙って聞いてりゃ調子乗りやがって」
 皮肉なことにシハルが栄養豊富なチーズを頬張るごとにヴァルダの力が強くなってくる。何とかその辺りを調節する方法はないものかと、暴れるヴァルダを押さえつけながら思案する。心なし毛足が伸びているようだ。
「全然黙って聞いてないじゃないですか」
 温厚そうなリシャルドもさすがに反論を述べた。
 リシャルドの楽器、あれは一体どういうものなのだろうか。リシャルドにシハルのような力があるとは思えない。つまりあの楽器そのものに何らかの力があり、女性たちを殺めている。
 ヴァルダにしたって悪霊として相当力の強い部類であるが、おそらくジ・ダァに閉じこめ、さらにシハルの血の混じった土人形に閉じこめられていることによって力が制限されているのだろう。
 リシャルドの楽器がどういうものなのかわかればヴァルダの扱いにも応用が利くかもしれない。しかしあの楽器は関わると面倒くさそうな代物である。声を聞かないようにはしていたが、ヴァルダに負けず劣らずうるさく騒ぐタイプのものだ。最悪の事態を迎えた場合は破壊してリシャルドに謝罪すればいいだろうか。
 ヴァルダとリシャルドがもめている声はとまらない。
 シハルは会話に参加しなくてもよさそうなので、またチーズを食べはじめる。驚いたことにハムでチーズのかけらを巻いて食べるととんでもなくおいしい。そして葡萄酒にも合っている。
 葡萄酒はやや酸味が強い。シハルは酒を飲むのもはじめてであったが、はちみつを入れた果汁より酸っぱいという印象しか抱かなかった。特別においしいとも感じないが、チーズとハムを食べるにはちょうどいい飲み物だ。
 この発見をヴァルダに言いたいが、まだもめている。もめているというか、悪態をつくヴァルダにリシャルドが控えめに反論することを繰り返して、終わりそうにない。
「ハムでチーズを巻いて食べるとおいしいです」
 とりあえず言いたいことを言ってみたシハルの声はやすやすと無視された。いや、リシャルドはちらりとシハルを見てくれたが、ヴァルダはリシャルドに悪態をつくことをやめない。何がそんなに気に入らないのかわからないが、困った悪霊である。シハルがたっぷりとハムとチーズをたいらげたためか、腹にくくりつけられたヴァルダはふわふわと毛並みがよい。
「リシャルドさん、先ほどの件ですが、恋人になってもいいですよ」
 どうせ聞いてもらえないだろうと思っていたが、リシャルドもヴァルダも凍りついたように黙ってシハルを見た。

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