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ゆたかな村(9)完

 同行はしたものの何をやっているのかわからないので、トレッティはただシハルの行動を見ているだけだった。
 村の外れにあった社というのは、遠くから見ていた以上にひどいありさまだ。朽ちた屋根はいつ落ちるとも知れない。地下に雨が降らないだろうから、ここまで朽ちているということは誰も手を入れないままかなりの時間が経っているということだろう。
 シハルは触れた瞬間に粉になってしまいそうな古い書物を次から次へと見ている。
「それ、読めるのか?」
 トレッティが聞くがシハルは集中しているのか返事をしない。めずらしくヴァルダは社の入口に伏せておとなしくしている。いや、寝ているのかもしれない。
 早く村を出たいが、峠を越えられない可能性を考えると待った方が効率がいい。
 トレッティはじりじりとシハルの用事がすむのを待っていた。
 突然、シハルは立ち上がると社の奥の棚のようなところを探りはじめる。朽ちてはいるものの一段上に設置された棚はおそらく神様とやらを祀るための台のようなものだろう。きちんと布が敷かれてそれっぽい器などの焼き物がならんでいた。供物などを並べる道具に違いない。
 トレッティの村には神様を祀る習慣はないが、そういう町や村に盗みに入ったことがあるので知っている。信仰心の強い人々の心を無駄に逆なでするのでこういうものには触れない方が賢明だとご親切な同業者から聞いたことがあった。細々とはした金をいただきながら暮らすためにはできるだけ他では波風を立てないというのが鉄則だ。
「盗むものが決まったのか」
 声をかけてもやはり返事をしない。いくつかの道具を選びだしては背負い箱の中にしまっている。
 それからその場に膝をつくと先ほどの書物を広げて、不思議な抑揚をつけた歌とも祈りともいえないようなものを唱えはじめた。視界の端でヴァルダの耳がぴくりと動く。完全に昼寝中の犬である。
 ところどころとまったり、同じところをなども言い直すような場面があったが、トレッティは時間を忘れて聞き入っていた。歌であればかなりの腕前であるが、おそらく歌ではないだろう。異国の言葉なのか、神様の言葉なのか、何を言っているのかまったくわからない。だがそれは子供の頃に聞かされた寝物語のように心地よく響いた。
 まるで別世界へつながった一本の糸が伸びきって消えてゆくような余韻を残してシハルの声は静かにとまる。
「こんなところでしょうか」
 トレッティは拍手をしそうになり、あわててひとつ手を打っただけで立ち上がり誤魔化した。
「お、終わったのか? よくわかんないけど、早く村を出よう」 
 しかしシハルは髪の間から不思議な音色をたてる曲がった金属の棒のようなものを取りだし、背負い箱を飾るようにくくりつけている。その金属同士がぶつかると何ともいえないいい音がした。
「まだですよ。盗みはこれからです。危険なので注意してください」
「何を盗むつもりだよ。大丈夫なのかそれ?」
「ここの村人たちがいらないといっていたものを持ってゆくだけです。盗まれたことにも気づきません。ただ――少し危険です」
 何をするつもりなのかさっぱりわからないが、盗まれたことにも気づかせないのはいい盗み方のひとつだ。
「トレッティさんの村はここから近いのですか」
「遠くはないけど。半日は歩くかな。ミージスっていうちっさい村だよ」
 シハルはひとつうなずいて、背負い箱から何かの容器を取り出して指先を中の物につける。指には金色の粉のようなものがついていた。慣れた手つきでそのまま額に文字のようなものを書く。もともと赤い模様があった額に金色の文字がのり、なんとも言えず美しい色合いだ。大道芸人の化粧かと気にもとめなかったが、呪術的なものであると知ると神秘的に見えた。
「トレッティさん、いいと言うまで絶対に声を出してはいけません。絶対にですよ」
 シハルは背負い箱を背負いながらそう言った。めずらしく緊張感のある顔をしている。くくりつけられた金色の棒のようなものの美しい音がいくつも重なった。
「足をひっぱるんじゃねえよ」
 その獣を見てトレッティは大きく後ずさった。巨大な狼だ。いつからいたのか。社から出ていくとき、その体が大きすぎるため扉を大きく破壊しながら外に出ていった。体だけではなく態度もでかい。トレッティは社が崩れ落ちる気がしてあわてて外に飛び出した。
 何なのかわからないが、階段をのぼっているということは帰るのだろう。トレッティは前を行くシハルと巨大な獣にやや距離をあけて後を追う。
 行きは階段を下りるだけで楽だったが上りはつらい。前方のシハルは平気そうだが、トレッティは少し休みたくなってきた。これから峠を越えるのであれば、こんなことであまり体力をつかいたくない。機械で上に戻してもらった方がよかったのではないか。しかししゃべるなと言われているので黙っているしかない。
 突然、シハルが足をとめた。
 横手には広く水田が広がっている。上を見ると村の出口が近いことがわかった。
 シハルはそのまま何か言葉のようなものを発してそっと柵をあける。黙っているのがこんなにつらいとは思わなかった。何をするのか気になる。実った作物でもちょろまかす気か。
 シハルたちの後を追って水田に入ったトレッティは声をあげそうになった。声を出すなと言われていなかったら絶対に大声を出していただろう。
 あの男の子が田んぼのあぜ道でぼんやりと稲穂を眺めていた。リョウは見つからないと言っていたがこんなにあっさり見つかるじゃないか。あいつはやっぱり鈍くさいやつだ。
「よく実っている。虫も病気もない」
 ひとり言のようにつぶやく男の子は何だかさみしそうである。その横でシハルは荷物を降ろし平伏する。
「峠の神サオリ様、お迎えに参りました」
 男の子はつまらなそうにシハルを見やり、すぐに目を背けた。
 峠の神?
 この男の子が?
 トレッティは声をあげそうになり、あわてて手で口を押える。
「今さらなんだ。この村にはもう必要ないだろう。何年も峠に迎えがこない理由はそういうことだったのか。もう春に峠を降りてここの田を守る必要はなさそうだな。この様子なら虫追いも不要だ」
 シハルは指先を髪に入れたかと思うと、また金色の棒のようなものをとりだした。髪に何本仕込んでいるんだ。
 その不思議な道具をシハルはそっと打ち鳴らした。澄んだすばらしい音色がする。
 男の子が気を引かれたようにシハルを見た。
 ゆったりとシハルの声が水田に響く。先ほど社の中で唱えていた不思議な歌のようなものである。
 男の子は目を見開いてその声を聞いていたが、やがて両手をぐっとにぎりしめて歯を食いしばると、急に声をあげた。
「人間ごときがなんのつもりだ!」
 すさまじい突風が吹き、トレッティは思わず地面にしゃがみこんだが、それでは足らず腹ばいになった。何とか前方を見るとシハルはびくともせずに声を出し続けている。トレッティにはさっぱりわからないが、シハルの唱えている言葉にはやはり何らかの意味があるのだろう。
 突風がやんでもシハルの声はやむことがなかった。突風を打ち消し、春風のようにその声が水田をわたってゆく。
 男の子はシハルを睨みつけながらもじっとその声を聞いていた。
 やがてまたシハルが金の棒のようなものを鳴らし、胸元からあの金色の粉が入った入れ物を取り出すと指先ですくいあげ男の子の足元に吹きかけた。トレッティのいるところまで不思議な香りが流れて来る。そしてシハルは静かに荷を背負った。
「どうぞ神輿(みこし)へ」
 シハルが背を向けると男の子は昨日と同じように背負い箱のうえにのぼった。
 村を出るとき鍵などはかかっておらず、動かし方を覚えていたトレッティが黙って機械を操作し地上に出た。空が高く風や雑多な自然の匂いがして解放されたような気分に満たされる。やはり外の方がいい。しかしおそらくまだ黙っていなければならないのだろう。
 男の子を箱にのせたまま、シハルは粛々と峠道をのぼり、そしてそのままおりていった。もちろん道に迷うことなどない。男の子をどこへ連れて行くのだろう。
「おい、まだ声を出すんじゃねえぞ。先導しろ。お前の村に行く」
 あの巨大な狼が低い声でトレッティに言う。声を出すなと言われても、そんな話は聞いてない。村に来てどうするつもりなのか。
「アレをてめぇんとこの村の神サマとして迎える。来年から食いきれないくらい食いモンがとれるぜ。蔵でも建てとけよ。まっさか田の神が余ってるなんて。お前ツイてんな」
 この声、そして話し方はヴァルダだろうか。見た目がまったく違うが、そうとしか考えられない。トレッティがのれそうなくらいに巨大な狼だ。ふさふさとした尾や歩くたびに際立つ筋肉の動きもあの不細工な犬からは考えられないくらいに野生動物のうつくしさをかねそなえている。
「あの神さんは子供が好きだ。子供と一緒に遊ぶ。お前が世話をしろよ。春に山に迎えに行って、秋に山にお見送りする。細かいことは後でシハルに聞けよ。なぁにメシに困らないことを考えたらそんな大変なことじゃねえよ」
 つまりあの村から神様を盗んだということか。最後までとんでもないことをする。
 トレッティは呆然とシハルの背にゆられる男の子を見た。普通の男の子に見える。
 本当にもう子供たちが飢えることはないのだろうか。トレッティが子供たちに説明できないようなことをしてお金を稼いでくる必要もなくなるのか。
 子供たちと農作業をしたり、山で木の実をとったり、料理をつくったり、たまに勉強をしたり、毎日食べ物の心配をせずに過ごすことができるというのか。そんな夢物語のようなことが実現するとは信じられない。
「それは本当……なのか?」
 トレッティは思わず声を出してしまった。小さな声だったはずだ。
「ヴァルダ!」
 シハルの叫ぶ声が聞こえた。狼が素早く身を反転する気配があったが、その後何が起こったのかわからない。気づいたときは全身につらぬくような痛みがあり、目の前が真っ赤に染まっていた。体は指一本動かすことができず、ひどく寒い。自分はどうなってしまったのだろう。
「神の移動を人が見てはならないのです」
 薄れてゆく意識の中でひどく沈痛なシハルの声が聞こえた。
 次に気づいたときは子供たちの声に囲まれていた。「ねえちゃん」「ねえちゃん、しっかりして」と、みんな泣いている。だが相変わらずトレッティは体を動かすことができない。大丈夫だよと言ってやれないのがひどくもどかしかった。目をあけているつもりだが何も見えない。
「トレッティさん、危険なことをして申し訳ありません。でも安心してください。この村はもうけっして飢えることがなくなります。それは私が保証します。ゆっくりと休んでください」
 その話が本当ならずっと子供たちのそばにいてあげられる。もっとたくさんの捨てられた子供たちの力になれるかもしれない。
 トレッティは久しぶりに幸せな気分に包まれてそっと目を閉じた。

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